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【乃亜の章】
君がいるべき場所③
それからしばらく、乃亜は眠ってしまっていたらしい。
目を覚ましたとき、周囲は薄暗かった。見慣れはじめたキャビンではなくて、もっと大きくて立派な部屋にいる……。
壁に掛かっているのは安っぽいキャンバスプリントの馬の写真ではなくて、きちんとした額に入った油彩画。ベッドは……いわゆるクイーンサイズだろうか。大きすぎないけれど、十分にゆとりのあるマットレス。
ベッドサイドにはアンティーク調のチェストが置いてあって、その上にシンプルだけど洒落た感じのランプが設置されていて淡い光を投げかけていた。
そこにスマホと、水の入ったコップと、開封された風邪薬のパッケージと……プラスチックのボウルが置かれていた。
「ん……」
かなり汗をかいたのかもしれない。
まだ身体はだるくて重かったけれど、少しスッキリしたというか、少なくとも意識は眠りに落ちる前よりもずっと明瞭になっている。
「ダグラス……?」
考えるよりも先に、彼の姿を探していた。
なんでこんな夜中までダグラスが一緒にいてくれると思ったのだろう? 風邪薬を飲ませてくれて、温かい毛布を与えてくれただけで十分なのに、それ以上を求めるなんて滑稽だ。
自分はこんなに構ってちゃんじゃなかったはずなのに……。
「起きたのか?」
でも、まるで当然のように、すぐに彼の声が返ってくる。乃亜は声のした方向に顔を向けた。ベッドの上からだ。
つまり乃亜の隣、同じベッドの上に、ダグラス・マクブライトは寝そべっていた。
乃亜は毛布を掛けていたけど、ダグラスはなにも掛けずにただ横になっているだけだった。そしてその恰好は白いタンクトップにジーンズというものだった。
彼の手には開かれたペーパーバックの本がある。
灰色の瞳の長身美形カウボーイ──料理もできます。応急処置も得意です。追加……読書家です。
待って! それは……もう反則だから!
「ず、ずっとここに……?」
「吐くかもしれないのに、ひとりにはしておけないだろう」
と言って、パタンと本を閉じる。
日本でも邦訳されている社会派ハードボイルド小説だった。ものすごい読書家かと問われたらおそらく違うが、乃亜は本が好きだ。こんなときに、好きになるべきではない男性にさらに惚れてしまうなんて、愚かにもほどがある。
ダグラスはこちらに身体を傾けて、乃亜の額に片手を伸ばした。大きくて冷たい手が、ぴたりと乃亜のおでこを包むように触れる。
「薬は効いてるみたいだな」
「多分……。だいぶ楽になりました」
「それはよかった」
ベッドサイドのランプしか光源のない薄闇の中で、ダグラスの髪は赤銅色に映った。
普段の彼は帽子を被っていることが多いし、短めなので特にセッティングしているわけではないけれど、いつもより乱れた寝起きのような髪は……きゅんと下腹部のあたりが切なく疼く。
乃亜はいろんな衝動を我慢するために、きゅっと下唇を噛んだ。
「無断で悪いが、いくつか荷物をここに運んでおいたよ」
「荷物?」
「すぐに必要になりそうなものだけだ。あとは貴重品。パスポートは手近にあった方がいいだろう」
ダグラスが顎で指した先を見ると、キャビンにあったはずの乃亜のリュックといくつかの着替えが椅子の上に置かれている。
ということは……ダグラスはあれから乃亜のキャビンに入ったのだ。
「ご、ごめんなさい、カーペット……」
ダグラスのことだ。そのまま放置したということはないだろう。お……推しに吐瀉物を掃除させてしまったかもしれないなんて! 穴があったら入りたい!
「ノア、人間の吐瀉物なんて綺麗なものだよ。俺は七歳のときから腹を下した牛の糞を掃除して生きてきたんだ。気にすることじゃない」
「うぅ……スミマセン……」
「喉に詰まらせなくてよかったよ。また吐きたくなったらすぐに横を向くんだ、いいな?」
「ハイ……」
吐き方の指導まで受けてしまった。なんだかもう、一周回ってこれから強く生きていけるような気さえしてくる。
乃亜はヨロヨロと上半身を起こした。
きっと客室をあてがわれたのだろうと思っていたのに、よく見るとなんだかずいぶん生活臭のある広い部屋だ。いくつか読みかけの本が積まれたデスクと、ラップトップのPC。壁のラックに飾られたいくつかのトロフィー。コートハンガーに掛けられたカウボーイハット……。
「あなたの部屋……?」
「ああ」ダグラスはあっさりと認めた。「……一緒が嫌なら、俺は隣の客室か親父の部屋に移るよ。もしくはここの床で寝る」
「そんな。移るとしたらわたしの方なのに」
「駄目だ」
ぴしゃりと断言すると、ダグラスはベッドから下りた。
もしかしたら部屋から出ていってしまうのかと思って、乃亜の心は沈んだ……が、ダグラスはすぐに乃亜側のベッドサイドに回って、ランプの下に置いてあったカップを手に取った。
「ま……待って」
また口移しがはじまるのかと思って、思わず身構えてしまった。
もちろん嫌なんかじゃない! でも、心の準備というものがいるのだ。そんな乃亜の反応をどうとったのか、ダグラスはなにも言わずにベッドサイドの床に膝をついて、乃亜の手にコップを持たせた。
「きちんと水分は摂った方がいい」
「違うんです……嫌じゃないの。でも、わたしずっと寝ていたあとだからっ、もちろん吐いたあとには、なんとかうがいしましたよ? でも、きっと匂うから……っ」
ダグラスは低い声で短く笑った。
「口移しを期待してもらえたと思っていいのかな」
「あ……ち、違いました?」
「違わないよ。でも、もう無理強いはしない。普通に飲んでくれ。ほら」
ああ、もう。
顔から火が出そうだ。もちろん熱のせいなんかじゃない。
乃亜は一応コップを受け取ったけれど、なんだかすぐに飲む気にはなれなかった。思わずじっとダグラスの目を見てしまう。ダグラスは動かなかった。
「して……くださいって頼んだら、してくれますか?」
乃亜が懇願すると、ダグラスはうなずく。
彼の左手がゆっくりと乃亜の首の後ろをつかまえた。ダグラスはコップから水を啜るとそれを乃亜の唇に注いだ。
「は……っ」
雨の中でしたキスに少し似ている……でも違う。
あれは衝動に突き動かされた、性急で必死なキスで、どこまでも激しかった。でも今はもっと深く……お互いの存在を求めながら、ふたりが唇を重ねることの意味を探す一時の旅に似ていた。
ダグラスは同じ方法でコップ半分の水を乃亜に与えた。
それが済んだころには、乃亜はもうどこが天井でどこが床かわからないくらい均衡感覚を失っていたし、ダグラスの息は荒く乱れていた。
「ひとつ聞きたい……」
と、ダグラスがささやいたとき、乃亜はもしかしたらこのまま身体を求められるのかと思った。
──しかも、乃亜はおそらく拒否しない。
でも次にダグラスが紡いだのは、まったく違う言葉だった。
「君の健康状態は大丈夫なのか?」
「へ?」
「『ツキコ』だったか……君の祖母……親父と『ハルコ』の娘だ。ひどく身体が弱かったと聞いた。もしかしたら君も同じような体質だったとしたら、俺は──」
乃亜は夢から現実に舞い戻ってきたみたいに目をパチパチと瞬いた。
「そんなことまで知っているの?」
「俺とウィリアムの間に秘密はあまりないよ。まぁ……少なくとも、俺が反抗期だった頃以外はね」
「はあ……」
「それで、ノア、君はこうしてすぐ熱を出すようだし、二回も吐いた。もし彼女のように身体が弱いなら、俺は君への態度を改めないと。厩舎の掃除なんてさせるべきじゃなかった」
予想外の方向に話が向かったけれど、結局乃亜を気遣ってくれるというダグラスの基本方針はまったく変わらなくて、乃亜の心は温かくなる。
「わたしは大丈夫ですよ……。優雅に見えますけど、バレエってすごく体力も筋力もいるんです。虚弱体質じゃ続けられませんよ。料理人だって同じです」
「それはよかった」
「それに……月子おばあちゃんのときとは時代が違いますから。今だったらもう少し彼女も長生きできたと思うんです」
「そうかもな」
ダグラスはあっさりとうなずき、立ち上がる。
彼はこんなふうに乃亜の体質まで気にしてくれていたのに、もしかしたら身体を求められるかもしれないと想像していただなんて……! 馬鹿、ばか、バカ!
「それからもうひとつ、今夜について……。今夜、君はこのままこのベッドを使う。これは決定事項で、君に拒否権はない。ただ、俺がここで君の隣に寝ていいのか、別の部屋に移るべきなのかは、君が選んでいいよ」
乃亜は小さく笑った。
ダグラス・ジョンソン・マクブライト。まだ見ぬ曽祖父が選んだ、父親を亡くしたばかりの九歳の男の子。なんて素敵な男性に育ったんだろう。なんて優しいひとに育ててくれたんだろう……。
ダグラスの口から月子の名前が出たことに、乃亜の胸はチクリと痛んだけれど──過去はもう変えられない。
月子の身体が弱かったことが、最終的にウィリアムと春子の人生を別つことになったのだから。
「ここにいてください」乃亜は答えた。
「よし」
「あなたにだって拒否権はありませんよ? もしわたしのいびきがうるさくても、我慢してくださいね」
冗談のつもりだったのに、ダグラスはまったく笑わず、真剣な表情でうなずいた。
「そのくらいのことで俺が君から逃げると思っているなら、ノア、考えを改めてもらわないと」
ダグラスはベッドの周囲を一周して、乃亜の隣に戻ると同じ毛布の中に入った。
「おやすみ」
ダグラスは言った。そして頭上のスイッチに手を伸ばすと、ランプの光を消した。
外ではコロラドの月が美しく金色に輝いていた。
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