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【乃亜の章】
君を愛せない理由①
二日後、熱が引いて風邪が治ると、またいつも通りの牧場での生活が戻ってきた。
──大抵のことにおいては。
でも、乃亜の立場は明らかに変わってきている。実際になにかを宣言したわけではないけれど、牧場の人間は皆、まるで乃亜が「ダグラスの女」であるかのような扱いをした。
ダグラスも特にそれを否定したりしない。
そして寝込んでいる二日の間に、乃亜の荷物はほとんどがキャビンからマクブライト邸に運び込まれてしまっていた。
(でも……えっと……付き合っているわけじゃ、ないのよ、ね?)
誰かにそう聞いて、事実確認をしたいくらいだった。自分でも……もしかしたらダグラス本人も、まだこの関係を持て余していて、はっきりしない。
とはいえ丸二日も彼の部屋を占拠して甲斐甲斐しく看病されていたのだから、まぁ……他人から見たら彼氏彼女……恋人同士……夫婦……そんなものに見えるのかもしれない。
(って、最後のだけは余計だから! いくらなんでも!!)
久しぶりに朝のケータリングに復帰して、この日はなんと六件入ったオーダーを供し終えたあと、乃亜はダイニングテーブルでゆっくりコーヒーを啜っていた。
本来なら看病のお礼として豪華な朝食を作ってあげたかったけど、今朝のダグラスはまた牛の出産があるとかで、作り途中のホットケーキをつまみ食いしただけで出ていってしまったきりだ。
でも……。
「どうしよう……かな」
乃亜の手元にはダグラスのピックアップトラックの鍵があった。
料理の仕事が終わったあと、もし見たかったらおいでと誘われて、乃亜の移動手段として残してくれたものだ。ダグラス本人はホセのもっと古いトラックで一緒に行ってしまった。
多分、彼らカウボーイにとって、牛の出産に立ち会わないかと誰かを誘うのは、乃亜のような一般人が想像する以上に大きな意味がある。もしかしたら世界に向けて愛を叫ばれるより、さらに深い信頼と愛情が、そこにはあるのだ。
多分、だけど。あくまでも。
でもそんな彼らの精神構造を理解しはじめたくらいには、乃亜はスプリング・ヘイブン牧場に馴染みはじめていた。
意を決した乃亜は、数人分のホットケーキや摘まみやすく切ったフルーツをタッパーに詰めると、牛の厩舎へ向かうことにした。
* *
「お嬢ちゃん! もう具合は大丈夫なのかい?」
馬の厩舎とは車で十分離れた距離にある牛用の厩舎は、また少し違う獣の匂いがして乃亜は周囲を見回した。
外にピックアップトラックを停めた乃亜を出迎えてくれたのはホセだ。
仔牛はまさに今生まれようとところで、ダグラスはそれに付きっ切りなのだという。
「昔からダグラスの旦那はこれが得意だったんだよ。彼がいない間は大変だったなぁ。魔法みたいだからよく見ておきな」
そこは面積的には馬の厩舎よりもずっと広かった。
設備の類はダウングレードしているような気もしたが、もしかしたら牛の方が丈夫で、必要性がないだけなのかもしれない。
厩舎内をたっぷり数分歩いた先に、ダグラスはいた。
干し草がいっぱいに敷き詰められた地面に片足でひざまずいて、寝そべった大きな牝牛の隣にいる。乃亜が近づくとダグラスは顔だけ上げて微笑んだ。
「おいで、東京のお嬢さん」
乃亜も微笑み返した。
この日のダグラスは普段のカウボーイ装備に加えて、厚手のビニール手袋のようなものを右手にしていた。足元の馬はモーモーと痛切に泣いている。
それもそのはず、牝牛の臀部からはなにかこう……ヌルっとした膜に包まれた突起物が、黄土色の粘液と共に垂れ出していた。
「そ、それは仔牛の足……ですか?」
「そう。なかなか頑固な子だ。そろそろ引っ張らないと」
「引っ張る!?」
ダグラスはうなずくと足元に用意してあったロープのようなものをその足に掛けた。その間にも牝牛の膣からは粘液というか、おそらく羊水が滝のように流れ出ている。嫌な臭いではないがかなり生々しかった。
「やってみるか?」
ダグラスに誘われて乃亜は彼の背後に立ったが、自分がこれに関われるような気はまったくしない。だって! だって……!
「そんな、わたしなんかがいきなりできるものなんですか? なにか獣医の資格とか、コンバット・メディックの特訓とか、そういうのをしたあとじゃないと……?」
「俺も一緒にやるよ。君ならできる」ダグラスは保証した。「あのポンコツ車でここまで辿り着けたんだから」
乃亜は心を決めた。
「わかりました。や……やってみせます」
だってこれは下手にプロポーズされるよりすごいことだ。おそらく。きっと誰にでも頼むことじゃない。信頼に基づいた懇願で、生命の誕生に一緒に立ち会うという奇跡的な一瞬で、おまけに下心の入る余地が一切ない。
乃亜はダグラスのすぐ隣に両膝をついて、切ないモーモーを繰り返す牝牛を見つめた。
「痛そう……」
「自然に出産させることもできるが、母子ともに長く苦しむだけでリスクも上がる。だから俺たちが引っ張り出してサポートするんだ」
「なるほど。わかりました」
気絶しませんようにと乃亜は心の奥で祈った。
「結構な割合で、仔牛は最初息をしない。そうなったら蘇生させる必要がある。ゆすったり撫でたり、場合によっては叩いたり」
乃亜はなんとかうなずいた。
ごめんなさい、やっぱりやめますとはもう言えない。言いたいけど。
「さあ、いくぞ」
え、もう? 本当にいきなり本番?
ダグラスは手が滑らないようにロープ回りに干し草を沢山撒いて、乃亜にその先端を手渡してきた。これを全力で引っ張ればいいのよね? それだけよね?
頑張り……ます!
ダグラスがぐっと全身に力というか、気合を入れたのに合わせて、乃亜はとにかく無心でロープを引っ張った。最初は強い引っ掛かりがあって、すぐには動かなかった。でも数秒後、なんともいえないぬるりという感覚が手に伝わって、乃亜はロープごと後ろに倒れた。
そして干し草の上にどさりと落ちる重いものと、沢山の体液、血のような匂い、牝牛の鳴き声……。
「よし」
肩で息をしながら、乃亜はその重いものを見た。
茶色のような緑のような、淡い青みをおびた不思議な色の粘膜に包まれた生まれたばかりの仔牛がそこにはいた。
動かない。
「どうしよう、どうしよう……これ、大丈夫なの? なにかしないと……」
「ホセがタオルを持っているはずだ。もらってきてくれ」
「はいっ」
もつれる足でホセを探しはじめると、老カウボーイはすべてを察していたらしく、すでに用意されたタオルの山を乃亜に預けてくれた。
「ほら、きっと大丈夫だよ。旦那を手伝ってやりな」
仔牛の蘇生について言われただけではない気がしたのは、どうしてだろう。
とにかく乃亜はタオルの山を持ってダグラスと牛の母子の元へ急いだ。仔牛はまだ不動で、うんともすんとも言わずに干し草の上に横たわっている。
母親の牝牛に至ってはまるですでに諦めたように悲しげな目をたたえて、ゆらゆらと首を揺らしている。
「持ってきました! でも、でも……」
「俺にも一枚渡してくれ。これで身体をこするんだ。君は顔回りを」
すでに粘膜はダグラスが剥いだようだった。
普通は母親が舐めとるものじゃなかったのだろうか? この牝牛が特に怠け者なの? ネグレクト? とにかく仔牛を救わないと!
ダグラスと乃亜は一緒になって、動かない仔牛を拭いてゆすった。
ダグラスは何度も「来い、来るんだ」と呪文のように繰り返していて、乃亜も気がつくと一緒に唱えていた。
でも、やっぱり動かない。呼吸さえしない。
呼吸……そうだ、少なくとも息をさせないと!
もしかしたらアドレナリンで少し勇ましくなりすぎていたのかもしれない。とにかく乃亜はガッと仔牛の顔を掴んで、いわゆる……人工呼吸を施した。
「ノア!」
ダグラスがなにか叫んでいる。
でもここまできて、みすみすこの仔牛を死なせるわけにはいかない。乃亜はあきらめなかった。何度目かの息を吹き込んだそのとき……仔牛の喉が急にグルグルと鳴った。
「ノア、離れろ!」
ダグラスが乃亜の腰を抱いて仔牛から引き離したのと、仔牛が大量の浅黒いゲロを吐いて蘇生したのは、ほぼ同時だった。
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