二度目の永遠 ~ある夏にコロラドで見つけた牧場主との運命の恋~

泉野ジュール

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【乃亜の章】

君を愛せない理由②


 いつまでも笑いの止まらない灰色の瞳の長身美形カウボーイを前に、乃亜はついに自分も笑うことにした。
 真っ黒に汚れた乃亜のチェック柄フランネルシャツと引き換えに生を得た仔牛は、驚いたことに、すでにヨロヨロと立ち上がって干し草の上で遊んでいる。

 さらに驚くかな、フランネルシャツを脱ぐと下に着ていたTシャツは無事だった。
 さすがの装備だ。
 やはりカウボーイの恰好には、きちんとした意味と意義があったのだ。

「もうっ、十分笑ったでしょう? そろそろ終わりにしてください」
 余ったタオルで他の部分を拭きつつ、乃亜は抗議した。
 当のダグラスは、出産のために設けられたスペースの柵に突っ伏すようにして、まだ肩を揺らして笑っている。
 乃亜に言われてやっと顔だけ上げたが、彼の目尻には涙が溜まっていた。

「わ……悪い。こんなに笑えたのは久しぶりだ」
「そう遠くない過去にわたしの処女について大笑いしたばかりでしょう? いつも笑ってばかりじゃないですか」

 乃亜は拗ねたつもりだったのに、ダグラスに反省の色はほとんど見えず、姿勢を正すとゆっくりこちらに向かって歩いてくる。
 目の前まで来るとダグラスはギュっと乃亜を抱きしめた。

「俺はそんなに笑ったりする男じゃない。嘘だと思うならホセに聞いてみるといい」
 ああ。
 そんなことを、そんなに優しい声でささやかれたら……もうなにも言えなくなる。黙って抱きしめられていると、ちょうどホセが通りかかった。

「その通りだよ、お嬢ちゃん。ダグラスの旦那がこんなふうに心から笑うのを見るのは何年ぶりかな。さて、ほらよ」

 ……と言ってホセがこちらに手向けてきたのは、びっくりするほど巨大な哺乳瓶だった。多分二リットルのペットボトルより大きい。でもちゃんと吸い口が人間の哺乳瓶と同じ形をしている。ただ十倍サイズなだけで。

「そこの仔牛にあげてごらん」
 ホセは言った。
「母親がそこにいるのに、わたしたちがあげるんですか?」
「中身は本物の牛の乳だよ。悪いけどそこの牝牛には人間のための牛乳も出してもらわなきゃならんし、仔牛は俺たちに慣れてもらわなきゃならん。これが一番効率いいんだ」

 なるほど。
 そもそも、その母親が興味なさげに干し草を食んでいるし、乃亜自身も……ちょっとあげてみたいと思った。巨大哺乳瓶。

 そんなわけで乃亜は、ダグラスとホセに見守られながら、生まれたばかりの仔牛に哺乳瓶をあげて餌付けした。
 その仔牛は白より黒の多いまだら模様で、今はまだバンビみたいに華奢で可愛らしく脚がプルプル震えていて、乃亜が構える哺乳瓶の中身を本当に美味しそうにぐんぐんと飲んだ。

「やだ、可愛い……。こんなの癖になっちゃいそう」
 もっと欲しがって吸い口を歯で引っ張る仔牛と哺乳瓶の引っ張り合いになりながら、乃亜は笑い、ダグラスもまた笑って、その日の午前中は過ぎていった。



 そして午後に差し掛かり、例の母子の経過も順調ということで、ダグラスと乃亜は厩舎をあとにした。
 ピックアップトラックに乗ったところで、乃亜はあることを思い出す。

「そういえば朝食のオーダーの残りをタッパーに入れて持ってきたんです。どこかで一緒に食べますか?」
 ダグラスは彼独特の低い声でまた笑った。
「あの騒動のあとでまだ食欲があるなら、君はコロラドの牧場でサバイブできるだけの素質があるよ」
「サバイブどころか、料理もしているし掃除もしているし、仔牛の命を救いましたからね」乃亜はちょっと得意げに胸を張った。「もう少し褒めてください」

 運転席に腰を落ち着けたダグラスは、ハンドルを握ると乃亜をじっと見つめた。
 そして神妙にうなずく。

「……もしこれまでの賛美が足りなかったなら、すまなかった。ありがとう。君は素晴らしいよ、ノア」

 ──だから! だからこのひとは!
 どこかに『広瀬乃亜の扱い方』なるガイドブックでも隠し持っているのだろうか?
 こんなに簡単に、一瞬で、乃亜を深い深いところに堕とす。乃亜は抗えない。抗おうとさえ思えない……。

「お役に立てて嬉しいです……」
 推し活中の正しいファンの端くれとして、乃亜はダグラスに答えた。

 もちろん、推し云々がただの苦しい言い訳であることを、乃亜はもう自覚している。乃亜はダグラスが好きだ。たとえ未来の不透明な恋でも、落ちずにはいられなかった。
 ダグラスは薄く微笑んで、車にエンジンをかけた。

「とりあえず、どこかで食べようか。それから今日は買い出しが必要なんだ。君も来て一緒に選んでくれると助かる」

 * *

 乃亜は短期だが留学したことがあるので、まったくのはじめてではない。
 でも、久しぶりにやってきた北米の巨大スーパーマーケットのエントランスを前にして、料理人としての好奇心がムクムクと膨らんだ。

「牧場の経費で落とすから、いくらでも好きに選んでいいよ」

 明らかに興奮している乃亜を見下ろしながら、ダグラスは優しくそう言った。おまけに彼の手にはアメリカン・エクスプレスのビジネスクレジットカードがあって、色は金で、それを乃亜に手渡してきた。

「食料品店で料理人にクレジットカ―ドを渡すなんて、あまり賢い選択じゃありませんよ」
 乃亜はカードを受け取りながら忠告した。
「チャンピオン一頭にどれだけの値がつくと思う? なんとかなるよ」
「なっ! チャンピオンを売ったりしたら許しませんからねっ」
「じゃあ常識の範囲で買い物してくれ。ご覧の通り、普通の買い物くらいはいくらしても問題ないよ」

 それはそうだろう……乃亜の手にあるのはアメックスのビジネスゴールドだ。
 なんだか痴話喧嘩を通り越して夫婦喧嘩のような会話をしてしまった気がして、むず痒い。巨大なショッピングカートを押してくれるダグラスについて、乃亜は店内に入った。

 選んでいくのは、コテージのケータリングと、皆の夕食のための食材。
 広大な調理器具コーナーもあって、乃亜はそこで小一時間を溶かした。

 乃亜の知らない商品についてダグラスが説明してくれたり、逆にアジア食材コーナーで、乃亜がダグラスに用途を教えたり……。
 スーパーでの買い物だ。
 いわゆるロマンチックな場所ではないはずなのに、乃亜はときめいた。例えば、ダグラスの好きなピーナッツバターのメーカーを知った──そんな些細なことが、親密で、なぜかエロチックなことのようにさえ思えてしまう。

 やっぱり自分はチョロかったんだと、乃亜は諦めの境地に至った。
 もう手遅れだ、と。


 そうしてやっと買い物の選別を終え、レジに向かおうとしているときだった。
「──ダグラス?」
 ふたりの背後から、静かな女性の声がダグラスを呼び止めた。

 ダグラスと乃亜は一緒に声のした方を肩越しに振り返る。そこには、おそらくダグラスと同年代の亜麻色の髪の女性がカートを持って立っていた。

 ものすごい美人ではないかもしれない……でも落ち着いた雰囲気の、知的な魅力のある女性だった。
 さっきまで乃亜の隣で笑顔だったダグラスが、急に表情を硬くする。

「ソフィア」
 ダグラスがつぶやいた。
 彼の口からは聞いたことがない種類の、まるで怯えたような声だった。ソフィアと呼ばれた女性は、最初にダグラスを、それから隣の乃亜をじっと見つめた。

「その子はあなたの恋人?」
 ソフィアが問う。
 責められていたとは思わない。
 でも、明らかに祝福はされていない感じの、棘を含んだ問いかけ。乃亜は急に自分の足場が崩れていくような気がした。

 だってこのふたりの間には、なにかがある。そのくらいは察せられた。
 でも、乃亜の心をぽっきりふたつに折ったのは、次のダグラスのひと言だった。

「違う」

 ──それは真実だ。ダグラスは嘘をついたわけではない。
 しかし、他の言い方だってあったはずだ。君には関係ないとか、どうだろうなとはぐらかすとか、いくらでも選択肢はある。でも百パーセント疑問の余地のない完全な否定。

「ダグラス、別に非難しているわけじゃないの。聞いて。昔、わたしが言ってしまったことは──」
「ソフィア、彼女は俺の恋人じゃない。俺は誰とも付き合うつもりはないし、ましてや結ばれるつもりはない。それでいいだろう」
「違うのよ。待って、ダグラス……」

 乃亜が呆然とふたりの──『ふたり』の!──やり取りを眺めていると、なんとダグラスは彼と最も縁遠いと思っていたことをした。
 逃げたのだ。
 ソフィアを置いて。

 もちろん、乃亜に至ってはショッピングカートいっぱいの食材まで一緒に置いてけぼりにして、異国のスーパーマーケットに置き去りにした。
 乃亜は呆然と広くて冷たい床に立ち尽くした。
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