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【乃亜の章】
君を愛せない理由③
なにが起きたのか、まだ認識しきれていない呆然自失の乃亜に、ソフィアは話しかけてきた。
「ダグラスはああ言ったけど、本当はあなたたち……付き合っているんでしょう?」
乃亜は、自分の中にこんな凶暴性があるなんて知らなかった。
できるならこの女性に飛びついて、思いっきり引っ搔いてやりたい衝動に駆られる。でもグッと我慢した。
──もし、この女性がダグラスの想い人だったらどうするの? ダグラスの好きな女性を傷つけるの?
そんなことは許されない。
「本当です。彼の言った通り、わたしたちは付き合ってなんかいません」
「別に隠したりしなくていいの。急に話しかけてごめんなさい。ダグラスが本当に幸せそうな顔をしていたから……どうしても確認したくなって」
乃亜の自制心がもう少し弱かったら、この瞬間、きっと本当にこの女性に飛びついていた。
でも乃亜は二十四年の人生でいくらか自戒や自律を学んだ。異国のスーパーマーケットのど真ん中で、自分の味方になる唯一の人物は逃げ出したあとで、たったひとり。名前しか知らない女性に襲い掛かったってなにも解決しない。
「あなたには関係ありません」
本当に。
このソフィアが乃亜と関係ないのと同じくらい、ダグラスにだって乃亜とはたいして関係なかったのだ。
たまたま牧場に現れた養父のひ孫。それが乃亜。スーパーマーケットに置き去りにできる程度の存在。
泣きたくなったがそれが現実で、ぎゅっと涙を我慢する。
きっと泣く時間はあとでいくらでもある。
今は──このソフィアの前では凛としていよう。乃亜は長年のバレエで培った、女としてできる最も優雅な姿勢で恋敵と対峙した。
「そうは思わないわ」
ソフィアは静かに言った。「あなたたちふたりの障害になっているのは、きっとわたしだから。少なくとも、過去のわたしが」
「だとしても、あなたになにか言われる筋合いはありません。どいてください。会計しなくちゃいけないので」
幸い、乃亜の手元にはダグラスが渡してくれたアメックスのビジネスゴールドがある。少なくともこの点において、ダグラスは無責任ではなかった。
ただ会計を済ませたとして……どうやって牧場まで戻るかは、まだわからなかったけれど。
「あなたたちの邪魔をするつもりはないの。ダグラスにもそう伝えて」
意外にも、ソフィアの口調に敵意は感じられなかった。
──いいえ。しっかりしなさい、乃亜! あなたはほんの数分前までダグラスに好かれていると勘違いしていたでしょう。感覚なんて信じちゃ駄目!
「あなたがダグラスになにか伝えたいなら、あなたが伝えてください。わたしがするべきことじゃありません」
「……そうかもしれないわね」
「ええ」
ソフィアはまだ会話を続けたがっていたけれど、乃亜はもう限界だった。
ずっとダグラスが押してくれていたショッピングカートの持ち手を握ると、なんとかソフィアの横を通り過ぎた。
いっぱいになった米国サイズのショッピングカートはあまりにも重くて、おまけに真っ直ぐに進めるのが難しくて、なんの文句も言わずこれを押し続けてくれていたダグラスの優しさと強さを愛しく思うのと同時に……それらがすべて意味のない幻想だったことがわかって、心が押し潰される。
乃亜はなんとか会計を済ませて外に出た。
駐車場でダグラスが待っていてくれる予感は……正直、まったくしない。実際、彼のピックアップトラックが停まっていた場所にはすでに別の車が入っていた。
乃亜のスマホがメッセージ着信を告げる。
ネイトからだった。
『ダグラスから君を迎えに行けと頼まれた。すぐに行くから、エントランス横のベンチで待っていてくれ。あと十分』
ありがたいことにアメリカのスーパーマーケットはショッピングカートを駐車場で使ってもまったく問題ないから、買い物の山を乗せたまま指示通りにベンチに座った。
多分、乃亜の人生で一番長く感じた十分間だった。
ネイトのピックアップトラックは車種こそ違ったがダグラスと同じ白で、よく似ていて、それが近づいてきたとき、乃亜は愚かにもダグラスの姿を期待してしまった。
乃亜の目の前に車を停めると、ネイトは運転席から下りてこちらに向かってきた。このときやっと、乃亜は泣くことを自分に許した。
大粒の涙をこぼしながら駆け寄ってくる乃亜を、ネイトは優しく抱きとめてくれた。
* *
たっぷりわんわんと十五分は泣き続けた乃亜を助手席に乗せると、ネイトはすべての荷物をピックアップトラックの後部座席と後ろの荷台に入れ、運転席に戻ってきた。
「さて」
車内にあったネイトのティッシュはすべて使い尽してしまったので、買ったものの中にあったトイレットペーパーをロールごと手渡しながら、ネイトは切り出した。
「ミスター・沈黙はなにも説明しないし、君は泣いてばかりだし、少し説明してもらえるかな? ちなみに俺はまだ君への失恋の痛手を抱えているところだから、お手柔らかに頼むよ」
乃亜はトイレットペーパーでもう一度鼻をかんだ。
「沈黙はダグラスのこと……?」
「他に誰がいるんだ。君が来てからだいぶ喋るようになったけど、あいつは元々すごく無口な男だよ。喋るのが苦手なんじゃなくて、あえて喋らないタイプの寡黙さだ。仕事で必要なときはいくらでも雄弁になれるから。あいつが馬を売り買いするところを一度見てみるといいよ」
確かに、ダグラスは最初寡黙で、一緒に過ごすうち徐々に口数が増えていった。
ホセも似たようなことを肯定していなかったっけ?
そうだ、ダグラスが笑うのを見るのは数年ぶりだと……。
元々、ダグタスの生い立ちに暗い影があったのは聞いているから、明るいだけの天真爛漫な人間にならなかったことに不思議はない。でもきっとなにか乃亜の知らない要素がもうひとつあるのだ。
そしてその鍵は『ソフィア』だ。
「ここの店内でソフィアさんに会ったんです。ふたりで買い物をしていたら、急に声を掛けられて」
「ああ……」
「わたしのことを、恋人なのかってソフィアさんは聞いてきました。そうしたらダグラスはきっぱり否定して……その……逃げました」
「なるほど」
「『なるほど』? そこで理解しちゃうんですね? あなたも彼女のことを知っているの?」
「まあ、知ってはいるよ。ダグラスが逃げた理由も……わかるよ。かわいそうに」
かわいそう? 誰が?
乃亜が?
ダグラスが?
……ソフィアが?
乃亜の声なき疑問──非難──を、ネイトはもちろん汲み取ってくれた。とりあえず車内に冷房を入れるためエンジンをかけ、ハンドルに片手を乗せる。
「知りたい、よな?」
こんなふうに切なく微笑むネイトをはじめて見た。これは本当に、ダグラスより先に彼に出会っていたら、ときめいてしまっただろう。
でも結局、どんな順番でも、乃亜はきっとダグラスに惹かれる。
惹かれて……こうして玉砕するんだ。
「知りたいです。でも、わたしも失恋の痛手を抱えているところなので、お手柔らかにお願いします。あまり細かいディテールは知りたくないです」
ネイトは笑った。
「ノア、ひとつ保証するよ──君は失恋していない。だからこそダグラスがかわいそうなんだよ」
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