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【ダグラスの章】
手紙⑤
制限速度すれすれにピックアップトラックを飛ばしたにも関わらず、ダグラスが病院に戻ったとき、なんと乃亜はすでにタクシーを呼んで牧場に戻ってしまったあとだという。
「どういうことだ? ノアになにか言ったのか、親父?」
「まあ、落ち着くんだ。寄る年波には勝てなくてな……少し休ませてくれと言ったら、だったら一旦牧場に戻ると……」
ベッドの上でそう説明するウィリアムには、確かに疲れの色が見えた。
長年静かに待ち続けたのであろう『ハルコ』との子供にやっと会えたのだ。経過良好とはいえ心臓発作を起こした身で、疲労が出るのは当然だろう。
「ダグラス」
義父の声には警告の響きがあった。
七歳ではじめてこの男性と出会ったときから三十五歳の今日まで、この口調の彼には逆らえない。ウィリアム・マクブライトは仏のように物静かで柔和な人物と思われがちだが、その本質は鋼のような強い意志を秘めた侍だった。
まあ、そうでなければ、八十年近く会うこともできなかった女性を愛し続けたりはできないだろう。
「わたしに代わって、あの子を迎えてくれたことは感謝している。もしかしたら……そうなるべき運命だったのかもしれないが……」
「親父」
「可愛い子だ。そうだろう? 春子にそっくりだった……信じられないくらいに」
よく見ると、ウィリアムの手には例の白い封筒が握られていた。
封はすでに切られている。
ダグラスにとってこの手紙は、そこになにが記されていたにせよ、乃亜という存在をスプリング・ヘイブン牧場に運んでくれた天からの白い救いの羽根だった。
ウィリアムにとっては、なんだったのだろう。
「本人の自己申告によるところは……そう聞いているよ。そんなに似ていたのか?」
「ああ。乃亜の方が少し……そうだな、今どきの子なのだろうな……ほっそりしていて背が高い。春子は本当に小さかった。小さくて……わたしが守ってやるはずだったのに」
ウィリアムは手元の封筒に視線を落とした。
乃亜は決して長身ではなく、ダグラスの感覚からいえばかなり小柄だった。
ただバレエのお陰か姿勢がよく細身なので、一見あまりそんな感じはしない。現代っ子といえば確かにそうなのだろう。乃亜はダグラスよりさらに十一歳年下になる。
──『守ってやるはずだったのに』
ウィリアムの後悔のつぶやきは、そのままダグラスにも通じた。義理とはいえ親子揃って、同じ血統の女性に似たような恋をしている。
ただ、少なくともウィリアムは、酔って春子の処女を奪うような真似はしなかったはずだ。畜生。
「ひとつ教えてやろうか」
「ん?」
「あまりこういう話は……したくないが……。わたしが春子と……はじめて関係を持った夜……わたしは少々酔っていたよ」
「は?」
あまりに想定外な方向に話が向かって、ダグラスは軽い眩暈を感じた。
「まあ座れ」
ウィリアムは息子に枕元の椅子を勧めた。
おそらく勧められなくてもダグラスは座っていただろう。膝から力が抜けるとはこのことだった。ダグラスは座って、両手で顔を覆った。
「……ノアがなにか言ったのか?」
「いいや。お前は彼女のことを愛しているはずだと伝えたら……確かに告白はしてくれたが、お前は酔っていたので本心かどうかわからない……と、そんなことを言っていたから……察しただけだ」
誰か。
頼むから誰か、ときを巻き戻してあの失態を消してくれ。去勢された猫のように大人しくしているから。頼む。
「わたしは……結婚するまで、待つつもりでいた……」
「親父」
今度はダグラスが警告をにじませる番だった。
とはいえウィリアムはそんなものに関心を払わず、むしろさらに流暢になって、先を語り続ける。
「春子は……わたしとの繋がりを……欲しがっていた……。それでも未婚のままの彼女に手を出すわけには……いかないと……必死で我慢していたんだ……。それをあの晩、基地で一杯やってから……会いに行ってしまって──」
「親父、そこまでにしてくれ。聞きたくない」
「お前が聞きたいから話すんじゃない……わたしが吐き出したいだけだ。懺悔だ。嫌なら耳を塞いでおけ」
「畜生」
「しかし、後悔はしていないよ……。春子もそうだ。どうしてだかわかるか? お前たちにその価値があるからだ。あの晩がなければ……乃亜はいなかった。あの別れがなければ……わたしはおそらくお前という息子を得られなかった」
ダグラスは顔を上げた。
七歳のときのダグラスには一点の染みもない無敵の英雄のように思えたウィリアムが、今は病院のベッドで点滴のチューブに繋がれ、しわがれた細い声で過去の失態を告白している。
いつか自分もこんな日を迎えるのだろうか。
そのときダグラスの隣にいるのは、誰だろうか。乃亜。
「その手紙には、なにが書いてあったんだ?」
「読みたければ読むといい。英語だ」
ダグラスは差し出された封筒を受け取って、中にある一枚の便箋を慎重に取り出した。なにか長い告白のようなものを想像したのに、そこに綴られていたのはたった十数行の、詩のような文章だった。
『親愛なるウィリアムへ
こうしてあなたの元に乃亜を送ることを許してくれて、ありがとうございます。
傷ついたあの子が、わたしが行くはずだったコロラドの大地に癒されることを願います。
こんなことを言う資格がないのはわかっていますが、今でもあなたと一緒になれたらどうなっていただろうと想像します。
わたしを許してください。
そしてできるなら、わたしたちの月子が残したあの子を、愛してあげてください。直美はこちらで元気にしているので大丈夫です。でも乃亜はまだ若く、無条件に彼女を愛してくれる誰かが必要です。
それがあなたなのか……あなたご自慢の息子なのかはわかりません。
でも、信じています。
どうか一日も長くお元気で。
いつか天国であなたと結ばれる夢を見ています。春子』
直美が乃亜の母の名前であることはすでに知っていた。若いうちに幸せな結婚をしていて、好きな仕事に打ち込んでいて、幼少の乃亜を育てたのは主に春子の方だったという話も。
ダグラスは涙が溢れてくるのを止められなかった。
「いつから……連絡を取り合っていたんだ?」
「春頃だ。誓って言うが、それまで連絡は一切なかったよ」
「でも、どうして……」
「乃亜が失恋に傷ついていると……。なんでも相手は上司で、乃亜を捨てただけでなく、仕事も奪ったとか……。信じられない阿呆だ。もしあと二十年若かったら……わたしが素手で首を絞めてやるところだ」
「ああ、その阿呆にはいつか、俺がこの手で死ぬより辛い目に合わせてやる。安心してくれ」
「それでこそ我が息子だ。とにかく……乃亜には休息が必要だと。そのためにコロラドの牧場がいいだろうと……。わたしは返事を書いた。お前のことも教えた。年も近いだろう」
ダグラスは失笑した。「俺たちは十一年離れているよ」
「お前はこれが、九十九歳と九十七歳のやり取りだというのを忘れたのか? 十一年など一瞬だ。瞬きをしている間に過ぎていく。覚えておくといい」
「わかったよ……」
ダグラスは数度うなずいた。
ウィリアムは安堵したようにゆっくり瞳を閉じ、ダグラスが手紙を返すと、それを静かに握った。その手は皺だらけで肉はそぎ落ちている。
それでも。
「だったら、これからなにをするべきかも……わかっているだろう」
「ああ」
「そしてこれは……乃亜のためだけじゃない……。ダグラス……お前にも救いが必要だった。休息が。自由が。お前たちふたりで……この先を決めなさい。それがどんなものでも……わたしは祝福するよ」
再びうなずくと、眠りに落ちたウィリアムの額に親愛の口づけを残して、ダグラスは病室をあとにした。
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