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【ダグラスの章】
手紙⑥
花束のようなものを買おうかという考えも頭をよぎったが、ダグラスは結局、一刻も早く乃亜の元につくことを優先して真っ直ぐスプリング・ヘイブン牧場に向かった。
やるべきことは山ほどあったが、ダグラスは突進するように乃亜の客室に向かった。
──そう。乃亜が熱を出していた隙を利用して、彼女の荷物はほぼすべてキャビンからダグラスの部屋の向かいに移動させてある。
ひとはそれを狡猾と呼ぶのだろう。
卑怯だとさえ。
それがどうした? ダグラスはこれ以上乃亜を徒歩一分もある距離に置いておくことができなかった。二歩分もある廊下と、二枚の忌まわしい扉を隔てているだけでも十分遠いのに。
「ノア? ここにいるのか?」
客室の扉をノックすると、乃亜はくぐもった妙な声を出して返事のようなものをした。ダグラスはすぐに扉を開いた──そして、室内で繰り広げられていることを目撃して、二度とこの女性から目を離すべきではないという確信を強めた。
広瀬乃亜はすべての荷物をスーツケースに詰めている最中だった。
「ダグラス……あの」
「なにをしているんだ?」
「えっと……」
乃亜の声は明らかに震えていた。ダグラスはいったいどんな表情をしていたのだろう。自分ではわからなかった。あまり穏やかなものでなかったことだけは確かだ。
「実は……日本に帰ろうと思います。それで、荷造りを……」
「なぜ?」
なんて馬鹿げた質問をしているんだ、ダグラス・ジョンソン・マクブライト。これは最初から乃亜が宣言していたことで、そう言わせてしまったのは自分自身の態度のせいで、最後に棺桶の釘を打ったのは自分だというのに。
「春子おばあちゃんからの手紙を……もう渡したので」
ダグラスは自分の脚が無駄に長いことに感謝した。部屋の入口から乃亜の前に辿り着くのに要した時間は、おそらく一秒以下だったはずだ。それでも十分とは言えなかった。
「帰さないと言ったはずだ」
──だからどうした。
お前の望みが乃亜のそれと重なるなどと、どうして思い込んだのだろう。
乃亜は日本に帰りたがっている。
ダグラスを置いて。
コロラドの大地も、ふたりで誕生させた仔牛も、入院中の曽祖父もすべてなかったことにして……。
「でも、わたしはただ……」
続きを聞きたくなくて、ダグラスはその場に……乃亜の足元にひざまずいてそのまま突っ伏した。
ベッドの上には開いた乃亜のスーツケースがあって、パゴサで買い込んだ牧場用の衣類までが畳まれて収められている。
少なくとも焼いて捨てられなかったことを喜ぶべきだろうか? くそ、くそ、くそ……。ダグラスは両手で顔を覆って肩を震わせた。
「ダ……ダグラス? 泣いているの?」
また?
……という呆れた声が聞こえてきそうな気がした。酔っ払って厩舎で泣き、日本に帰ると言われて床にくずおれて泣く。いったい自分はいつからこんな男になったのだろう?
母を亡くした過去。父に置き去りにされた現実。戦いの中で失った親友。唯一の家族はおそらくそう長くはないであろう義父だけで、それでもダグラスは泣いたりしなかった。
心に鎧をまとって、過去も未来も封印して。
それが、この天使の前で、ダグラスの心は丸裸になる。
未来を求めてしまう……ふたりの永遠を。
「わたしが帰るから、泣いてくれているの?」
乃亜の手がダグラスの髪に触れる。そっと髪を梳くように撫でられて、ダグラスの股間はそれだけで達しそうになった。
この娘はふざけているのか? これは新手の拷問なのか? どうしてそんな質問が出るんだ、東京のお嬢さん──。
「俺の涙で……君を引き留められるなら……いつまででも泣くよ」
「そんな……大事な涙を無駄にしないでください」
「いいや、俺の涙に価値なんてない。どうせ君は俺を置いていくんだろう。いいか、それでも俺がウィリアムのように大人しくこの牧場で待っていると思うなよ。どこまででも追いかけていく。地獄でも天国でも、コロラドでも東京でも関係ない」
乃亜がくすりと笑うのが聞こえた。
笑う!
ダグラスが顔を上げると目の前にいたのは、ダグラスと同じように瞳に涙を浮かべた乃亜だった。
「わたしはちゃんと帰ってきます。ここに。春の安息の地に」
「いつ? 俺は三秒以上待てない」
「それはちょっと……短いですね」
「短いよ、それが限界だ」ダグラスは断言した。「そういう男に……君がしたんだ」
ダグラスはひざまずいた格好のまま、目の前で同じように膝を床についた乃亜を世界から隠すように抱きしめた。必要ならこのまま彼女を離さないでいるつもりだった。
乃亜の手がおずおずとダグラスの背に回される。
ダグラスは彼女の首に顔をうずめて縋った。
「ノア……行くな」
「違うの、聞いて……。わたしは日本に帰って……春子おばあちゃんをここに連れてこようと思うんです。年齢的に難しいけど……医者からの診断書と、高めの旅行保険料を払えば、なんとか乗せてくれる航空会社もあるみたいで」
ダグラスはあんぐりと口を開けたまま固まって、しばらくなにも言えなくなった。
「なんだって?」
「さすがに三秒じゃ帰れませんけど……一週間くらい? もちろん春子おばあちゃん本人が承知しないといけないし、あとは渡航費をどうするかで……」
「ノア」
ダグラスの心は一瞬で決まった。「俺も行くよ」
「え、えぇ?」
「渡航費は俺が出す。ハルコの分も、もちろん君の分も」
「そんなっ、いただけません! わたしの案だし、あなたには牧場での仕事があるでしょう? 馬はどうするんですか? 壊れた柵は? 生まれたばかりの仔牛は?」
「四年間俺がいなくてもなんとかなったんだ。一週間くらいでは潰れないよ」
「それは……そうかもしれませんけど……」
乃亜はその可愛い頭で色々と考えているようだった。
コロラドのカウボーイを東京に解き放つ危険性について、乃亜の思考が及ぶ前に話をまとめてしまう必要があった。
──あのシェフの名前はなんだった?
くそ、猟銃は飛行機に持ち込めない。別の方法を考えなければ。
「君は十分働いてくれた。このくらいは払わせてくれ。それから……この牧場には朝のケータリングをしてくれる最高のシェフが要るから……必要経費だよ」
乃亜はまだ考えていた。
「でも……チャンピオンを売ったら許しませんよ」
「別にプライベートジェットを買うわけじゃないんだ。そのくらいの余裕はあるよ」
「わかりました」
広瀬乃亜は覚悟を見せた。この女性の、いざとなると意外にも度胸のいいところが、ダグラスはたまらなく好きだ。
「一緒に行きましょう……。春子おばあちゃんを迎えに」
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