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【ダグラスの章】
「俺はそのためにこの生涯を捧げます」 ※乃亜視点
ダグラスがしばらく春子と話をさせて欲しいと言ったとき、乃亜は席を外すべきなのだろうと思って、キッチンに向かおうとした。
「じゃあ……わたしはお茶の準備をしてきますね。コーヒーの方がいい?」
「ノア、君にはここにいて欲しい」
しかし、ダグラスはそう言って乃亜を引き留めた。
広瀬家のリビングはおそらく都内の基準でいえばそれなりに広い。乃亜の母は大きな病院勤務の医者で、それなりの収入があった。バレエのような費用のかかる習い事を続けられたのもそのお陰だ。ただ多忙であるため、小さい頃の乃亜を世話してくれたのは主に春子だった。
父は普通の会社員である。
それでもダグラスがいると、この空間がひどく小さく見えた。
春子は窓辺の安楽椅子に座っていて、ダグラスの存在に涙を流していた。
「そうよ、乃亜……あなたもここにいて」
春子は英語でそう言った。
このひとはウィリアムと別れたあとも勉強を続けたので、一度も外国に住んだことのないこの年代の女性としては、驚くほど流暢な英語を操れる。
乃亜はうなずくとダグラスの隣に佇んだ。
ダグラスはゆっくりと春子の前に膝を折ってひざまずいた。
「俺の日本語はここまでで申し訳ない。もう少し時間があればもっと学んだところですが……今はこうして喋らせて欲しい」
「いいのよ、坊や」
春子は静かに答えた。「あなたがウィリアムの息子ね」
「はい」
「彼は……幸せだったかしら? わたしを恨んでいない?」
春子の手がなにかを探すように宙をさまよったので、ダグラスは迷わずにその手を取った。
「親父があなたを恨んだことは一度もないはずです」
ダグラスがこんなふうに丁寧な喋り方をするのをはじめて聞いて、乃亜の胸は熱くなった。彼がそれだけ曾祖母を尊重してくれていることが嬉しかった。
「幸せだったかどうかは……あなたのその目で見て、確認して欲しい。俺とノアはあなたを迎えにきました」
「でも……」
「その前に、あなたに礼を言わせてください。まずはダグラス・ジョンソン・マクブライトというひとりの男として。ノアをスプリング・ヘイブン牧場に送ってくれてありがとうございます」
「まあ」
「そしてウィリアム・マクブライトの息子として。親父からの伝言です。ツキコと……その子供たちを守り続けてくれて、ありがとう」
乃亜は嗚咽を抑えきれずに両手で口を覆った。
ふたりが出発する前に、ダグラスが一瞬だけウィリアムに会いに行ったのは知っていたけれど。
乃亜が思う以上にウィリアムとダグラスの絆は強いのだ。
いつか、もっと話を聞けたらと思う。
いつか……。
「ああ、ウィリアム……」
「俺たちと一緒に来てくれますね? もちろん楽なことでないのはわかっています。必要な書類や診断書もあるでしょう。それから航空会社が付き添いを条件にしてくると思いますが……俺はEMT……緊急医療技師の免状を受けているので、役に立てると思います」
あ、と乃亜はつい声を漏らした。
そこには考えが及ばなかったけれど、ダグラスはコンバット・メディックだったのだ。免状のひとつやふたつはあるのだろう。それがこんなケースで役に立つかもしれないなんて……人生は本当にわからない。
すべてはこのときのために。
でも、このときでさえ、未来へ続く通り道にすぎなくて。
「もし……いつかあなたに会えたら、教えたいと思っていたことがいくつかあります。親父がどれだけあなたを愛していたか」
ダグラスの言葉に、春子はまるでウィリアムと出会った当時に戻ったようにからからと可愛らしい笑い声を漏らした。
「そんな。本当に?」
「ええ。当時は羨ましいと思うと同時に呆れました。でも今は……彼の気持ちが手に取るようにわかります」
「どうして?」
まさかダグラスと曾祖母のこんな会話を聞くことになるなんて。
「俺もノアに同じ気持ちを抱いているから」
ダグラスは春子に向けて告げた。
乃亜のことは見ようともしないのが、逆に、彼の言葉に重みを加える。
「そうなの……よかったわ。可愛い子でしょう? 自慢の子よ」
「まったくその通りです」
「少しおっちょこちょいなところがあるけれど……守ってくれるわね?」
おばあちゃん、と乃亜は抗議をささやいたけれど、九十七歳の老婆とコロラドのカウボーイはそれを小さく笑うだけだった。
「もちろんです。俺はそのためにこの生涯を捧げます」
ダグラスは答えた。
誓ったと……いってもいいのかもしれない。
ダグラスの愛し方は、本当にウィリアムそのものだった。彼はなにも見返りを求めない。その誓いは無償の愛で、たとえ乃亜がこれからダグラス以外を選んだとしても、きっと変わらない。
それがわかったから……乃亜は泣いた。
* *
それからしばらく、ダグラスは本当にウィリアムについての昔話を、春子に語った。
春子は笑い、泣き、ときには呆れ、何度もダグラスの話にうなずいた。
乃亜も、もしかしたら一生分の涙を使い果たしたのではないかと思うくらい泣いた。でも沢山笑いもした。
ダグラスは泣いているときの乃亜の肩を何度か抱いた以外、触れようとはしてこない。
日が暮れて夜が近づくと、春子は疲れたので休みたいと言い寝室に戻った。残念ながら父は残業で、出前を取ろうかと直美が提案すると、ダグラスは立ち上がった。
「どうかお気遣いなく。俺はこれで失礼します。ありがとうございました」
アリガトウゴザイマシタ、だけ日本語で言ったダグラスは、それで本当に帰ってしまうことになった。
「本当に? ここに泊まっていいのよ」
確かに英語嫌いで通っているが、直美は医師である。ただ使いたがらないだけで、まったく喋れないわけではない。
ダグラスは躊躇なく首を横に振った。
「──いつかそういう日が来たらと思います。でも今は、けじめをつけさせてください。いつかお嬢さんが俺の妻になることに同意してくれたとき、俺はここに泊まります」
「まっ」
黄色い声を上げる母。
「ダグラスってば……」
身の置き所がなくて視線を泳がせる乃亜。
とりあえず一番心配していた母が、存外にダグラスを気に入ってくれたようなのは救いだった。直美と乃亜は母娘だが、大人になってからはどこか姉妹のような関係だったお陰でもあるだろう。実際、同じ女性に育てられたのだから、ある意味自然なことだった。
結局、乃亜は暇するというダグラスを玄関まで見送った。
ダグラスが泊まるのは、世界的にも名高い高級チェーンホテルだった。あまりそういう贅沢にお金を使うタイプではない気がしていたので、ちょっと意外ではある。
「おやすみ。またフライパンで頭を怪我しないようにしてくれ」
そう言って、ダグラスは乃亜のおでこの上のほう、かつてフライパンでぶつけて痣ができていた場所にさよならのキスをした。
「しませんよ、ふふ」
「落雷にも気をつけてくれ。あのときは心臓が止まるかと思ったから」
「はーい」
「また明日」
クスクスと笑いながら、玄関先でダグラスにひと時の別れを告げる。でも、彼の姿が見えなくなったあと、乃亜はあまりの寂しさにその場から動けなくなった。
こんな……。
こんな日がくるなんて想像さえしなかった。こんな想いがあるなんて、今でも信じられない。こんなに誰かを好きになるなんて……。
「乃亜、行ってもいいのよ」
たっぷり十分後、乃亜が玄関先でいつまでもぽつねんと動けずにいると、胸の前で腕を組んだ直美がそう告げた。
「お母さん……」
「もちろんすべては自己責任よ。外国で暮らすのがどういうことかわかるわね? それでも彼がいいなら……大丈夫だと思うわ。わたしはあなたの選ぶ道を尊重します」
「本当に?」
「ええ。お父さんは寂しがるでしょうから、できるだけ帰ってはきなさいよ。でも彼なら信頼していいと思うわ」
「でも……」
まだ実際にプロポーズされたわけじゃないの……と言おうとして、なんだかとてつもなく説得力がない話だと気づいて笑ってしまった。
俺は外堀を埋めている、とダグラスは言った。
──まさに周囲を固められているのを感じる。でも、それが嫌だとは思えなかった。むしろ乃亜も一緒になってせっせとその堀を埋めているくらいだ。
「お母さん……わたし、お母さんの娘でよかった」
「わたしもあなたの母になれて幸せよ。今まであまり構えなくてごめんなさいね。甘えさせてあげられなかった分、わたしはあなたに自由をあげるわ。好きに飛び立ちなさい」
今日、泣くのは何度目だろう?
乃亜は母に飛びついた。
そしてきつく抱き合ったあと、乃亜はダグラスが泊まるというホテルに向かうべく、荷物をまとめた。
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