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第1章 婚約破棄に至るまで

33.

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二人の間に、埋めようもない溝が出来てから、さらに半月が経った。

その間、何度も、ベルンハルトからは、手紙や花束、菓子といった贈り物は届いていたが、二人は会うことはなかった。

いや、正しくは、ベルンハルトからは二度、訪問伺いの手紙を受け取っていたのだが、体調が悪いなどの理由をつけて、リシュベルが彼に会おうとはしなかったのだ。


翌々月に控えた結婚式まで、残された時間は、あとわずか。

当事者であるはずの二人が揃うことはなくとも、着々と式の準備は進んでいった。

まあ、貴族の結婚では、式当日まで、お互い初対面ということも少なくはなかったので、二人がいなくても、式の準備という面においては、全く支障はなかった。


式が近づくにつれ、ステイン家の娘として様々なパーティや夜会に出席していたリシュベルは、家同士の繋がりがある者から会ったこともない者まで、多くの人から言祝ことほぎを受けた。

本来なら、幸せな花嫁らしく、喜んでそれらを受け取るはずが、リシュベルは、式を間近に控えた花嫁らしくもなく、ぎこちない笑みで、その場その場をやり過ごしていた。

特に、ベルンハルトのことや、先の新婚生活について人々から問われると、返答にきゅうする場面も多々あり、どこにでもいる勘の鋭い者達の間では、二人の仲はうまくいっていないのでは、とささやかれ始めていた。

エスコート役の婚約者の姿が見えないことも、噂に拍車をかけていたのだ。



***

ほぼ全ての招待状の返信が到着し、招待客の最終的な人数が確定した頃、完成まで半年を要したウェディングドレスは、その日、ようやく屋敷に届けられた。

デザインから布地の選定まで、ほぼ全てにおいて、リシュベルの希望が織り込まれているというのに、出来上がったドレスを目にしても、彼女の心は浮き立つことはなかった。

かなりの技巧が必要なことがうかがえる繊細な刺繍も、ドレスのすそに縫い付けられている、歩くたびにキラキラと輝く宝石も、どれ一つとして、リシュベルの心を波立たせることはなかった。

それどころか、清楚な純白のドレスを見るのが苦しかった。

まるで、お前にその資格はないのだと言われているようで、真面まともにドレスを見ることも出来ず、つい目を逸らしてしまった。



***

夏真っ盛りの今の時期。
燦々さんさんと照りつける中天の太陽は、服からのぞく素肌を容赦なく焼き、その場にじっとしているだけでも、耐えきれないほどの暑さだ。

刺すような陽射しの中、リシュベルは、町での買い物を終え、両手いっぱいに荷物を抱えて、慣れた道を一人歩いていた。

普段ならば聞こえる、農夫や子供、若い娘達のかしましい笑い声は、この時間帯のこの暑さではそれもなく、道を行き交う人もまばらだ。

それでも、たまにすれ違う人は皆、額に滝のように汗を垂らし、よく日に焼けた顔を真っ赤にしながら歩いている。

だが、リシュベルの様子は真逆だ。

顔色は真っ青で、唇はカサカサに乾いてしまい、通常ならば、かいているはずの汗も、全くかいていない。

ドクドクと速くなる鼓動は、徐々にり上がり、こめかみまで響いてくる。

ガンガンと鳴り止まない頭痛のせいで、頭が割れそうだ。

大量の荷物のせいかと思われた、心もとない足取りは、一歩一歩進む毎に、更に危うくなり、ついにはその足を止めてしまった。

周りの景色だけでなく、地面までもがグラグラと揺れ動き、それ以上、真っ直ぐ進むことが出来なくなったからだ。

不自然なまでに前に傾いたリシュベルの身体は、鼓動に呼応するかのように、右へ左へグラグラと揺れている。

最早、地面が揺れているのか、自身の身体が揺れているのか分からなくなってきたそのとき、リシュベルの身体は、カラッと乾いた夏風舞う土の地面へと崩れ落ちていった。

「⋯⋯っ⋯⋯ハッ⋯⋯ぁ⋯⋯」

受け身も取れなかったリシュベルは、したたかに顔を胸を打ち付け、その衝撃に一瞬、息が止まった。

だが、それだけである。

強打したはずの胸も、細かい砂利で傷を負ったはずの顔面も、感覚が麻痺してしまったのか、何も感じることはない。

何とか起き上がろうと、腕に足に力を入れようとするが、無駄な足掻あがきを嘲笑あざわらうかのように、思うように身体が言うことをきかない。

末端から、血の気が引いていくのを感じる。

「⋯⋯っ」

そこまでで、リシュベルの意識は、闇に閉ざされた。


「————!!」

意識を失う間際、誰かの叫ぶ声が聞こえた。

重みに耐えきれず、閉じていく目の端に、銀色の光が見えた。


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