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第1章 婚約破棄に至るまで

9.恋情と欲望の狭間で

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「え、お客様?」

その日、いつものように他の使用人と昼食の準備をしていたリシュベルの元に、マリエルがやって来た。

珍しくリシュベルを前にしても上機嫌なマリエルは、開口一番用件だけを伝えると、にこにこと微笑んだ。

昼食後、お客様が来るから応接間にお茶を持ってきて欲しいと。

今日は来客の予定はなく、今まで家人以外の前に使用人としてのリシュベルを出すことはなかったため、リシュベルも一応は警戒したが、それで何か仕掛けてくるとは思えず、特に何も言わず頷いた。

「ふふ、じゃあよろしくね。

そう言うと、何もしなくても紅い唇が弧を描き、愉しそうに笑いながらその場を去って行った。


***

マリエルに伝えられた時間となり、リシュベルはティートローリーにお茶の用意をして応接間へと向かった。

廊下を進んでいくと微かに話し声が聞こえてきた。応接間に近づくにつれ、段々と聞き取れるようになってくると、それが若い男女の声だとわかった。時折、楽しそうに笑い合う声も聞こえる。

どの部屋の扉も厚く、本来なら中の音が漏れるはずはないのだが、掃除の合間に、若い使用人同士が楽しそうにお喋りする場に何度も出くわしたことのあるリシュベルは、今回もそうなのだろうと思い、気にも留めず、更に廊下を進んだ。

先程から聞こえていた声の主は、どうやら応接間に通された客人のものらしい。声が漏れ聞こえていたのは、扉がほんの少しだけ開けられていた為だった。

「え? この声って⋯⋯」

応接間そこから聞こえるのはマリエルの声ともう一つ。

嫌な予感に、心臓がどくりと奇妙な音を立てた。

いけないことだと思いつつも、リシュベルの中に迷いが生じたのはほんの一瞬だった。震えそうになる手でさらに扉を開けると、緊張した面持ちで中の様子をうかがった。

「⋯⋯もうっ、ベルンハルト様ったら! そんなに笑わないで、恥ずかしい!」

「ははっ。マリエル、顔が真っ赤だぞ。そんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないか?」

「だって⋯⋯」

幸いにも、開かれた扉は音を立てることはなく。中にいる二人は、リシュベルが部屋を覗いていることに気付くことはなかった。

部屋の中央に置かれた革のソファは、三人掛けのものが一対、テーブルを挟んで向かい合うように配置されている。他に一人掛けのソファも置かれているが、その二人以外に人はいなかった。本来、婚約者でもない未婚の男女が家族や使用人を同席させず、部屋に二人きりという状況はありえない。あらぬ疑いをかけられても文句は言えないのだ。してや姉の婚約者と妹など。誰かにこんな場面を見られようものなら、とんでもない醜聞になってしまう。そのことを二人が知らない訳がない。

そんな非常識な状況にも関わらず、全く意に介さず、目の前で笑い合う二人を見ていると、どろりとした嫌な感情がリシュベルの中を支配し始めた。それと共に湧き上がるいくつもの疑念。

どうして今日、ここに彼がいるのだろうか。当然、そんなことは聞かされていない。そもそも、いつもの彼ならば、屋敷を訪れる際は必ず事前に知らせてくれた。それなのに今日はどうして。

いや、今までもこうして、二人きりで隠れて会っていたのだろうか。知らなかったのは自分だけ? だが、それならわざわざ危ない橋を渡って、この屋敷で逢瀬を重ねたりするだろうか。

湧いては消えていく嫌な疑念にリシュベルの心が囚われそうになった時、拗ねたような、けれどもどこか甘えるような声が、彼女の思考を強制的に打ち切った。

「だって恥ずかしいじゃありませんか⋯⋯。この歳になって唇にクリームをつけるなんて。しかもそれを指摘されるまで気付かないなんてっ。恥ずかし過ぎて死んじゃいそう⋯⋯」

そう言って赤く染まった顔を両手で覆い、恥ずかしそうに俯くマリエルの姿は、リシュベルの目から見ても本当に愛らしく、それがなお一層、彼女の心を締め付けた。

「別にそこまで恥ずかしがることじゃないだろ? 大勢の前ならいざ知らず、私しか見ていないのだし。そんな所も可愛らしいじゃないか。まあ確かに、三年前から変わっていないなとは思ったけれど」

マリエルをフォローしつつも、ベルンハルトの声音はどこか揶揄いを含んでおり、案の定、平静を装っていたはずの彼はくつくつと笑い始めてしまった。

「もう、ベルンハルト様っ! 酷いわ、そんなに笑わないで! 私だってもう十七歳なんですのよ!? もう立派な淑女レディなんですっ」

ぷりぷりと怒るマリエルとは対照的に、ごめんごめんと言いながらも面白そうに声を上げて笑うベルンハルトを見て、リシュベルの中に渦巻いていた嫌な感情と疑念は一気に霧散した。

マリエルはともかくとして、ベルンハルトの表情からは男の欲や恋情などといったものは一切見られず、あくまでも『妹を可愛がる兄』といった空気しか感じ取れなかったからだ。

 ーーなんだ、良かった⋯⋯

先程までの嫌な予感は杞憂きゆうだったのだと安堵したリシュベルだったが、使用人姿今の格好でベルンハルトの前に出ることは出来ず。他の使用人にお茶の準備を任せようと思い、踵を返そうとしたところで、顔を上げたマリエルと目が合ってしまった。

「⋯⋯!」

驚いたリシュベルがぎくりと身体を硬直させたのに対して、目が合ったはずのマリエルは微塵も気にした様子はなく、それどころか目を細め、唇を吊り上げて薄ら笑いを浮かべた。

ぞくりとリシュベルの背に冷たいものが走った。

「⋯⋯そうか。マリエルももう十七か。リシュベルの妹だと思っていると、つい彼女より年下だと思ってしまいがちだが。そうか、リシュベルと同い年なら確かにもう大人の女性だな」

感慨深そうにマリエルを見つめるベルンハルトの瞳には慈愛の情がこもっており、穏やかな微笑みを浮かべている。

「⋯お姉様⋯⋯?」

ベルンハルトの瞳に何を見たのか。彼の口からリシュベルの名が出た途端、一段低くなった声でポツリと呟いたマリエルの顔からは、全ての感情が抜け落ち、能面のような表情で目の前のベルンハルトを見据えた。

「⋯⋯マリエル? どうし——」

「ねえ、ベルンハルト様。お姉様と私なら、どちらのほうが魅力的かしら⋯⋯」

「え⋯⋯?」

問われた意味が分からず、また突然まとう空気を変えたマリエル自身に動揺したベルンハルトは、それ以上二の句が継げず、ただ忙しなく瞬きを繰り返している。

ふわふわの淡い金の髪に、宝石のように澄んだ青い瞳を持つマリエルは、姿形だけで言うなれば、無垢なる天使のお人形だ。同じ十七歳のリシュベルと比べると、マリエルのほうがやや幼い顔立ちをしている。対して、亜麻色の髪に紫の瞳を持つリシュベルは、その珍しい瞳のせいか、おいそれと他人を寄せ付けない神秘的な美しさを持っている。

「いや、どっちがって⋯⋯。比べたことなんかない——」

「貴方は想像したことはない? お姉様に触れたい、お姉様の全てを自分のものにしたいって」

ベルンハルトの言葉に被せるように紡がれるマリエルの声音は、決して何かを強制するものではないはずなのに、抗うことを赦さない断固とした強さがあった。その中に含まれる甘さと優しさ。それらがない混ぜとなり、心地よい響きがベルンハルトの耳を、心を揺さぶり、彼の身体の隅々まで侵食し始める。

「な、に言って⋯⋯」

「お姉様って見た目通りお堅い人だから面白みに欠けるでしょう? ずっと貴方の傍にいて、貴方の望みにも気付かない愚鈍な人。私はすぐに気付いたのに⋯⋯。ベルンハルト様はいつも私を子供扱いするけれど、あの人と同じで、私ももう大人よ?」

普段、リシュベル以外に向ける無邪気な天使の微笑みは鳴りを潜め、成熟した大人の色香が漂う雰囲気を醸し出したマリエルは、ちらりと扉を一瞥すると、そこに立つリシュベルへとあでやかに微笑んだ。

「⋯⋯っ!」

他へと向ける天使の微笑みとベルンハルトへと向けた艶やかな笑み。そのどれにも当てはまらないマリエルの微笑みは、と同じものが垣間見え、リシュベルの脳裏に焼き付いた、恐ろしい記憶を呼び覚ました。

マリエルや継母に振るわれた暴力に為す術もなく。無様な格好だと罵り、小さな身体を守る為に、更に小さく身体を丸めるしかなかったリシュベルへと向けられた、狂ったようなわらい。リシュベルが苦しむのを見るのが心底たのしいのだと訴える、あの時と同じ

リシュベルの身体がふるりと震えた。傷みの記憶よりも人間の持つ残酷なまでの多面性に、リシュベルは恐怖を感じた。

そんなリシュベルの心情を知ってか知らでか。マリエルは更に笑みを深めるとその視線をベルンハルトへと戻した。

「⋯⋯ベルンハルト様。貴方のことがずっと好きだったの。お姉様なんかよりもずっと。本気で好きなの。愛してるの」

「⋯⋯え?」

脈絡のない突然の告白に混乱するベルンハルトをそのままに。熱を孕んだ瞳でベルンハルトを見つめたマリエルは、おもむろに立ち上がると向かいに座るベルンハルトの傍へと寄り、彼の肩に手を置き、肩から腕をそっと撫でながら膝が触れ合いそうな距離に腰を下ろした。

「⋯⋯私、貴方になら何をされてもいいの。だからベルンハルト様。私のこと、好きにしていいのよ?⋯⋯ね?」

その大きな宝石のような瞳を潤ませ、ベルンハルトの膝に手をやると、上目遣いに彼の瞳を覗き込み、勢いよくドレスの胸元を押し広げた。

「⋯⋯っ!!」

大きく開いたそこは、ぷるんと張った瑞々しい膨らみが露わになり、乳白色の肌が淡くピンクに色付いていた。

息を呑むベルンハルトの手を掴んだマリエルは、彼の手をそっとそこへといざなった。

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