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一章 二人の旅のプロローグ
悪魔の思惑と人間の意思
しおりを挟む目を覚ましたマオは、真っ暗な空間の中をふわふわと漂っていた。
いや、漂っているというのは間違いかもしれない。
何しろ、景色が変わらなさすぎて、自分がただ浮かんでいるだけなのか、移動しているのかが分からないのだ。
横になっていた体を起こして立ち上がる。
これもあくまで主観的なもので、明確に地面や上下があるわけではない。
きっと横に足を向ければ、今度はそっちが下になるだろう。
それでもマオが体を起こしたのは、そこに感じる気配に合わせたからだった。
「いるんでしょう? そこに」
マオは何も見えない暗闇に向かって、断言するようにそう言った。
その言葉を受けて、暗闇から黒い衣服に身を包んだ悪魔が、スゥーっと現れる。
「久しぶりだな、マオ」
「ええ、お久しぶりです。と言っても、僕にはあっという間に感じましたけど」
「ハハッ……どうやら、ちゃんと思い出せたみたいだな。あの時の記憶を」
「鮮明に思い出しましたよ……というか、今では生きてた頃の記憶の方が朧気です。長い夢でも見ていたようだ」
マオは感情を感じさせない声で、淡々とそう言った。
悪魔は愉快そうに笑って、マオの全身を舐めるように見つめる。
そんな視線に不快感を覚えたマオは、冷めた目を悪魔に向けた。
「ほんと、詐欺みたいなものですよね。純真無垢な子どもを騙して、魂を奪っていくなんて」
「純真無垢? ハハハ、無知の間違いだろう」
「…………」
マオは憎々しげに舌打ちをした。
「どうした? まだ死ぬことに抵抗を感じているのか?」
そう問われて、マオは改めて自分の人生を振り返った。
死ぬことが怖いか、嫌かと尋ねられれば、その答えは決まっている。
「いえ……むしろ、ようやく解放されたという感じです。妙にすっきりした気分だ」
自分の心の変化に戸惑いながらも、マオはそう言った。
こんな非日常的な空間で悪魔と向かい合っているというのに、マオの心は落ち着いたものだった。
「そうか……案の定、クズみたいな人生だったようだな」
「……どうでしょうね。クズみたいなヤツに振り回されはしましたけど」
マオの心に、小さな怒りの炎が灯る。それを自覚したマオは、意識してその炎を鎮めようとした。
「それで、僕はどうなるんですか? 話ではどこか別の世界に連れて行かれることになっていたと思いますが」
その問いに、悪魔は晴れ晴れしい笑顔を見せた。
「ああ、その通りだ。だがその前にマオ。お前、自分の今の姿を自覚しているか?」
「……少なくとも人間じゃありませんよね」
自分の頭を触りながらそう答えた。頭には立派な角の感触がある。
背中に意識を向ければ翼が生えていることが分かるし、自由に動かそうと思えば動かせることも理解できた。尻尾も同様だ。
悪魔はニヤニヤと笑いながら、マオの答えを楽しそうに待っている。
「これは……悪魔、ですか?」
「正解だ! マオ、お前には俺の力を与えてやった。その力でやってもらいたいことがあるんだ」
「ちょっと待ってください。僕は人間として生まれ変わるんじゃなかったんですか?」
「うん? いつ、誰がそんなことを言ったんだ? 俺は生まれ変わると言っただけのはずだが」
「……本当に、詐欺師ですよね……」
マオは紅い目で悪魔を睨みつける。
その視線を、悪魔は気持ち良さそうに受け取った。
「違うな。人間どもが悪魔の真似事をしてるのさ」
「どっちでもいいですよ。それで、僕にやってもらいたい事とは?」
マオの尻尾がゆらゆらと揺れる。
内心の苛つきが、表に表れているようだった。
「ああ。異世界に行って、人族どもを皆殺しにしてきて欲しいんだ」
「はぁ?」
その意想外の注文に、マオは大きな疑問の声を上げる。
元人間の自分に、人間を殺してきてもらおうとは、随分といい趣味をしている。
「実は、その世界の魔王に頼まれてな……長く続く人族との戦争を終わらせるために、力を貸して欲しいと」
「はぁ」
マオは間の抜けた返事をした。魔王とか、異世界とか、戦争とか言われても、自分にはまったく関係のない話だ。実感が湧かず、想像することもできなかった。
「だが、悪魔たちにもルールはある。よその世界の事情に、悪魔が直接手を出してはならないんだ。好き好んで混乱や破滅を齎そうとするヤツが、悪魔には大勢いるからな」
「でしょうね」
ジトっとした目を悪魔に向ける。
性悪という意味では、こいつもそんな悪魔たちに引けを取らないだろうと、マオは思っていた。
「そこで、お前の出番という訳だ。俺の力をある程度コピーしてやったお前なら、そんな世界くらいきっと簡単に滅ぼせる。俺の代わりに、お前に働いてもらうんだ」
「…………なぜ、僕なんですか?」
顔を顰めながら、マオは尋ねた。
尻尾はいよいよ不機嫌そうに、パタパタと小刻みに揺れている。
「何故とは?」
「僕以外でも良かったでしょう。それこそ、もっと極悪人の犯罪者とか」
マオが生きていた地球にだって、人殺しが好きで好きでたまらない連中がいる。
人間を虐殺してもらいたいなら、そんな連中を送り込む方がよっぽど話は簡単だ。
「ふむ……まあ、ガキの頃のお前があまりにも馬鹿で、騙しやすかったというのもあるが……」
「あ?」
突然の罵倒に、マオは額に青筋を浮かべて低い声を出した。
もともと中性的な容姿をしていて、可愛らしいと言われることの多い彼ではあるが、怒った時の眼つきだけは、誰もが恐れおののいてきた。
バイト先の先輩曰く、「ヤバい犯罪者と同じ目をしている」そうだ。
「そうだな……元々腐りきった連中が落ちたところで、大して面白くないだろう?」
「……どういうことですか?」
「悪人が悪いことをして喜んでる。そんな自慰を見せられても、俺はまったく楽しくない。不快で気持ち悪いだけだ」
「自慰って……」
マオは呆れたような声を出す。
悪魔は構わず続けた。
「それよりも、お前みたいな根っからの善人が、人間特有の腐り方に触れて、とことん落ちていく様を見ている方がよっぽど面白い。異世界というものに理解があって、悪魔崇拝なんかもしていない。そんなお前だから、ちょうど良かったんだ」
「……ドン引きですよ。何ですか、その腐りきった性癖。思ったよりタチの悪い悪魔だったんですね」
「性癖ではなく悪癖だ。悪魔だからな」
マオの侮蔑交じりの視線を受け流しながら、悪魔は楽しそうに笑った。
そして、マオのことを指差す。
「お前もたっぷりと人間の悪意に触れただろう。心の底から絶望し、そして憎んだはずだ。お前も思ったように、お前ほど惨めな人生を歩んできた者などそうはいない」
くつくつと笑いながら、悪魔はマオの人生を罵った。
マオはそんな悪魔を黙って見つめている。
「憎み、怒り、恨んだはずだ。自分の人生を滅茶苦茶にし、苦痛しか与えてこなかった人間どもを。どうだ? 皆殺しにしてやりたいと思わないか?」
「思いませんよ」
「…………は?」
マオのはっきりとした拒絶の言葉に、悪魔は口を開けたまま動きを止める。
そんな悪魔に向かって、マオは話し出した。
「だから、皆殺しにしたいなんて思いません。惨めな人生だったことは認めますが、だからといって幸せな他人まで恨むつもりはない」
そんなマオの言葉に、悪魔は初めて笑顔以外の表情を見せる。
ぎろりとマオを睨んで、低い声を出した。
「……何故だ。お前はあれだけ絶望し、生きる希望も失っていただろう。あれだけの目にあわされて、なぜ人間に復讐してやろうとしない?」
「……確かに、ちょっと前の僕ならそう思っていたかもしれません。世界で一番不幸なのは自分だと本気で思っていたし、世界には敵しかいなくて、全員死んじゃえばいいと思ったことだってあります」
マオは足元を見つめながら、そう語りだした。
それは、落ちているわけもない希望を探して歩いていた時と同じ目線。
深く俯いて、あてどなく彷徨っていた時と同じだ。
「けど死んでみて、ようやく思い出したんです。辛い記憶ばっかりが際立って忘れてしまっていたけど、すべてが朧気な夢のようになってしまった今、自分には素敵な思い出も残されていたんだと、やっと気付くことができたんです」
真央は顔を上げる。
視線をあげてみれば、目の前に広がる世界は、そう悪いことばかりでもなかったはずだ。
「バイト先の店長が、よく好意で賄いを作ってくれました。あの味はよく覚えています。本当に美味しかったし、嬉しかった」
真央の心に、ひとつの温もりが蘇る。
「女の子に告白されたこともありますよ。家のこともあって付き合ったりはできなかったけど、僕のひそかな自慢です」
温もりがさらに大きくなる。
人間だった頃の感情が、息を吹き返したようだった。
「子どもの頃は、友達だってたくさんいました。みんなと一緒に日が暮れるまで遊んだ記憶は、僕の宝物だと思っています」
公園でボール遊びをしたり、駄菓子屋でだべったり。家に荷物を置いてきて、また学校に集まって遊んだこともある。
ゲームや自転車などは買えなかったけど、みんな快く自分を仲間にいれてくれた。
「たしかに、世の中にはどうしようもないクズも大勢います。でも、決してそれだけじゃない。僕の人生を美しく彩って、輝かせてくれていた人は、本当はたくさんいたはずなんだ」
真央は目を閉じる。
楽しかった思い出が次から次へと頭の中を流れていって、自然と笑みが零れていた。
「……僕が自分の人生を惨めだと思ったのは、死んでしまうまで、そんなことにも気付けなかったからです。僕が自分の幸福に気付けない馬鹿だったから、惨めだと言ったんです。たくさんの優しくて素晴らしい人たちと出会えた僕の人生自体は、決して惨めなものなんかじゃない」
真央は力強くそう言いきった。
彼の瞳には清々しい力が宿り、強い意志を感じさせた。
「本当は、もっと早く気付くべきだった。 ……ああ、気付いてもどうせ十九歳で死んじゃうんでしたっけ。それでも、感謝の言葉くらいは伝えておきたかった」
悪魔は無表情で真央のことを見つめている。
クレヨンで塗りつぶしたようなその濁った瞳には、深い深い失望と落胆があった。
「悪魔……悪いけど、キミの思惑通りにはならないよ。今まで人のためだけに生きてきて、山ほど後悔が残ってしまったんだ。今度は全力で、自分のために生きてやる。キミの言うことなんて絶対聞かないし、自分の意思でやりたいようにやってやる。好き勝手に生きるって、いかにも悪魔の契約者らしいだろ?」
いたずらを成功させたようにニヤリと笑って、真央は悪魔にそう言った。
「その世界の魔王の願いなんて知ったことか。僕は人間とは戦わない。再び死ぬまで、自分の正義に従って生きてみせる」
真央の言葉に、悪魔は小さく溜息をついた。
威勢よく啖呵を切った真央だが、悪魔がその気になれば、この場で真央の魂を八つ裂きにすることも出来るのだろう。
冷や汗を流しながら、悪魔の言葉を待つ。
「……そうかそうか。それは立派な心掛けだな」
意外にも、悪魔は笑顔でそう言った。
それは決してつくり笑いではなく、心の底からこの状況を楽しんでいるようだった。
「ふふふ……マオ。お前は本当に、俺を楽しませてくれる」
「…………」
その笑みと余裕の意味が分からず、真央は思わず身構える。
そんな真央の反応を愉快そうに見つめて、悪魔は目を細めながら言った。
「お前がそうしたいなら、そう生きてみるといい。俺は応援しているぞ」
真央は眉を顰めた。
何かを隠しているのは明確だ。もう、疑うことを知らなかった子どもの頃とは違う。
だが何を考えているのかまでは、読み取ることは出来なかった。
「お前が向こうの世界で立派に生きていくためにも、与えた俺の力はそのまま使わせてやろう。目一杯、自分のための人生を楽しんでくるといい」
ニコニコと笑いながら、悪魔はそう言った。
不気味な笑みに寒気がする。
悪魔が手を一振りすると、バチバチという音が真っ暗な空間に響き渡り、やがて空中が裂け始めた。
「さあ、お別れだ。俺はお前のことを見守っているぞ、マオ。気高く生きて、俺を楽しませてくれ」
真央の体が、ズルズルと穴の中に引きずり込まれていく。
思わず抵抗しようとするが、むしろこの場に残ろうとする方が危険なのではないかと考え直し、逆に自分から穴に向かって歩いていった。
「……何を企んでるのか知りませんけど。僕はあなたの望むようなことは絶対にしませんからね」
最後にそう言って、真央は穴の中に姿を消した。
真央の姿が消えると、穴はひとりでに閉じていき、やがて元通りの真っ暗で静かな空間に戻った。
「…………くっ。ふふふふっ……」
ひとりその空間に残った悪魔は、小さく肩を震わせると、やがて堪えきれなくなったのか、大きな哄笑をあげた。
「クッハアハハハハハハハハハ!!! ああ、流石マオ! 俺が見込んだ男だ!!」
狂ったように笑いながら、悪魔は目を血走らせていなくなった真央に思いをはせる。
「まったく……予想以上だな。まだ俺を楽しませてくれるか……」
悪魔が想像していたよりも、真央は強く、そして「いい人」だった。
そんな真央が絶望し、怒りと憎しみに支配されながら、すべてを蹂躙していく姿を想像する。考えただけで興奮し、口から涎が溢れ出てきた。
「ウヒヒヒヒヒッ……ヒッ……ああ、楽しみだ。楽しみだナァ……」
悪魔は顔中を喜悦に歪ませながら、いつかくる最高の悦楽を夢想する。
その瞬間を今から待ち遠しく感じつつ、悪魔はゆっくりと目を閉じた。
「人間とは戦わない……? フフッ、出来るものならやってみろ。どれだけ綺麗ごとを言っても、悪魔の本質はお前の中に眠っている。お前の言う『自分の正義』とやらがいつ崩壊していくのか……楽しみに待っているぞ……新しい魔王、マオ……」
異世界へと旅立っていった真央を思いながら、悪魔は一度眠りにつく。
いつか必ずやってくるであろう、最高の瞬間に備えて。
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