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1537年 7歳までは神のうち
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さて1巻の終わりに、やっと登場した我らが大将 大友宗麟公(1530~1587年)。
江戸時代のヨーロッパでは織田信長よりも有名な大名で、なんとドイツには宗麟公と宣教師フランシスコザビエルが謁見した絵画が存在する。
もっとも絵師は日本に来た事がないので想像で書いており、ローマ時代の立派な冠に目の覚めるような緋色のローブに身を包んだ西洋風の宗麟公の絵姿なのだが…
日本でも『悪名は無名に勝る』の言葉通り、当時邪教認定されたキリスト教を信じていた大名として名前は少し知られていた。
この大看板を杉谷はどう料理するのか?
大友興廃記を片手に見ていこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
酷い志しで大神氏のおまけとして大友家の記録を書いた『大友興廃記』
留吉としては店先に出したくはなかった。
しかし家老である佐伯氏の祖先を侮辱してしまった手前、貸し出しをしないわけにはいかない。
留吉の場合売り上げの一部を作者に還元する形で商売していたので金を出して本を刷ったり仕入れるわけではない。
場所を貸すだけで仕入れの費用はかからないのだから、ダメで元々、義理を果たすための冷やかし置きである。
「まあ、これで売れなければ諦めもつくというものでしょう」
そう思いながら留吉は写本を店先に出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何故売れる?」
留吉は首を傾げていた。
貸本というのはある程度試し読みした上で借りるかどうか決めるものである。
ならば、このような題名詐欺作品など売れるわけがないと思っていた。
しかし、思ったよりは借りられているのだ。
釈然としないまま売り上げを渡しにいくと
「…誠に不本意ではありますが、それなりに読まれてます」
と本人の目の前で告げた。
「こんな題名詐欺の様な本が売れるなど、何かの間違いであってほしかったのですが…」
と著者の目の前で作品の批判をする留吉。
「ふむ。それだけ大友家への興味がある者が多かったという事じゃろうか?」
批判された杉谷も首どころか頭を傾げていた。
杉谷としては自分の本が売れるという希望は最初から捨てざるを得なかった。
なので初めの1巻に伝えたい話を全力で書く事で『佐伯氏の名前だけでも伝われ!売れなくても良いから立ち読みだけでも読まれる範囲で佐伯様の名が広まれ!』という後ろ向きな決意と『それでも読むほどの書痴ならば続きを読まないといけないような内容にしてしまえ』という姑息な計算があった。
つまり、購入されなくても『題名と中身が全然違う本』として話題になる事を望んだのである。
なのに売れるとは不思議な話だ。
2人は首を傾げた。
種明かしをすれば、佐伯が「このたび当家の主君を題材とした本が出る」と同僚や家臣へ陰ながら宣伝をしたり、家来に命じて借りさせたりすることで「同僚が勧めるのなら読まないわけにはいかぬなぁ」とつきあいで読む人間が少なからずいたためだ。
今で言うステルスマーケティング。略してステマである。
筆者も二度自費出版で活字本を出したことがあるが、この身近な人間の応援というものにだいぶ、いや かなり助けられた。
無名の人間の作品がいきなり売れるなど普通はない。
新聞社に献本して名前だけでも紹介してもらったり、郷土史研究会の推薦や協力、組織票、親戚がまとめて購入してくれることで、その売り上げ実績が追加注文に繋がるのである。
『普通なら3冊売れれば恩の字の自費出版本が20冊完売したのだから次の注文を』と、今は実店舗が無くなった大分市の老舗書店 晃星堂の店主に追加で本を置かせて頂いたのもそのおかげである。
ご購入いただいたみなさま方、そして口コミで応援して下さった方々、誠にありがとうございます。
かように小規模出版とは泥臭い地道な努力がものを言う世界だったりするのである。
本の面白さが単純に売り上げに直結するなら、広告業と言う商売が成りたつわけがないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「釈然とせぬが、売れたのなら次の話を書こう」
そんな事は知らない杉谷はそう言って次巻の構想を練り始めた。
とりあえず、1巻の最後で宗麟を登場させたのだから2巻では当然宗麟を活躍させなければならない。
そこで宗麟の幼少時代を描くことにした。
だが、戦国武将の幼少時の逸話など杉谷も佐伯も知るわけがないのが実情だった。
たくさんの書き損じた反故紙に囲まれて杉谷はウンウン唸っていると。
筆をとって『宗麟公は英明』と書いたかと思えば「いや、違う」と紙を丸める。
再び白紙を前に「宗麟公は乱暴目にあまり旧来の家臣の手に余るほどだった」と書いては見たものの「これも違う」と反故が増える。
「ダメだ書けん!」
ついには引っくり返って寝ころんだ。
「どうしたんですか?旦那」
と訪ねて来たのは御用聞きの甚吉だった。
「どうしたもこうしたもない。宗麟公の幼少時代が書けんのだよ」
と寝そべったまま杉谷は答える。
「へええ、殿様のガキの頃の話ですか」
「人の家の殿様をつかまえてガキとはなんじゃ、ガキとは」
遠くでウグイスが鳴く声を聞きながら、杉谷は失礼な物言いに抗議した。
「へえすいません。では御曹司のお話ですか」
「うむ。その御曹司の御記録が全く残っとらんのじゃ。おまけに宗麟公の幼少のみぎりには、うちの父上もまだ生まれておらん時代だ」
なので佐伯様の家に何か記録が残っていないか尋ねた所「全く残っていない」との返答だった。
本執筆の依頼と応援はするが、史料は無い。
実際に筆者がとある地方の郷土史執筆を依頼された時にもこのような事があった。
書けと言うなら、ある程度の準備くらいはしてほしいものである。
杉谷はしばらく悩んでしまいには虚空を見つめて
「『子供は7歳までは天のもの』という言葉がある」
と言った。
江戸時代の幼児の死亡率の高さを表した言葉だ。
細菌の知識もなく、伝染病や栄養の知識不足により体の弱い子供は庶民も大名も一定の確率で早死にしていた。
そのため、幼い子供は死の可能性が常につきまとい、記録に残ることもほとんどなかった。
史実の大友宗麟が書状で登場するのも1536年 宗麟が7歳の時に当時の将軍の息子、足利義輝が誕生した事を祝う書状が初めてである。(※)
それまで外交的な文書での名は見られず、書状の数も少ない。
「それゆえに幼い若君の話はよほどの重臣でも知らぬというわけだ」
なるほど。と甚吉は思い、あることに気がついた。
「では旦那。宗麟公の子供の頃なんてわからないじゃないですか。それなのにどうやって書くというのですか?」
「そこなのだよなぁ…」
と真剣に悩んでいる。
――そんな基本的な事も決めずに、この方は『大友興廃記』などと大仰な本を書いたのか
あまりの無計画さに甚吉は呆れた。
しかし、杉谷は抗議するように言った。
「違うぞ。記録がないから困っているのではない」
と。
「誰も知らないということは、なにを書いても間違いだとは言えないのじゃ。だから自由になんでも書けるということ。つまりどのような話を創作すれば読者の人気が高まるか考えていたのじゃ」
誠実さの欠片もない返答が返って来た。
「なるほど。で、周りに積まれている本はなんなのですか?」
「うむ、唐国の古典や他家の記録から使えそうな逸話はないか探しているのじゃ」
堂々と剽窃を宣言する杉谷。
まあ、洗練された話と言うのは伝統芸能のように使いまわされる。
おとぎ話など、世界各国に似たような話があり、その土地その土地でアレンジが少しされている程度だ。
「だから名前と地名を入れ替えればよいのだが、宗麟公は織田信長のような乱暴者と、その反対に真面目で聡明な子供のどちらで書こうか悩んでおってな」
そういいながら、杉谷は人気のある軍記から使えそうな話はないか色々と見繕っていた。
この時代に著作権などない。
「例えば、宗麟公は素晴らしく聡明だったとしよう」
「はあ」
「そこである日、乳母が神社で『若君が九州の大名になれますように』と祈ったとする」
「どっかで聞いた話ですねぇ」
「だがそこで宗麟公は乳母を咎める。『九州の大名とは小さい事だ。そこで何故 日の本の大名と言わぬ。九州の統一とはそれだけの大望を得て初めて成せるのだぞ』とこう諭すわけじゃ」
「かぁー、可愛げのないガキですねぇ」
せっかく乳母さんがお祈りしてくれたのにダメだしである。憎たらしい事この上ない。
「なんだと」
「あ、いえ物の道理の分かったおび坊ちゃんですね」
「うむ。ところがこうした立派な話を書くと生意気だという輩が出てくる」
と杉谷は頷きながら、予想されるクレームを挙げる。
「なんでえ、やっぱり可愛げがねえんじゃねえか」
「なんか言ったか?」
「いえいえ。何も言ってません」
王道話でも、題材によっては失敗になる事もある。自分が書く物語ではどのように話を選ぶか?それはかなり難しい選択だ。
なお、この話は毛利元就や伊達政宗にも似たような逸話がある。九州が中国・奥羽に変わるだけである。
「他にも色々ネタはあるのだが、宗麟公をどのような人物に書くかが難しいのだ」
と悩んでいたのである。
「だったら一番人気のある話を使えばいいんじゃないですかい?」
甚吉は深く考えずに言った。
「服だって時代によって流行りの色や模様があるんですよ?今一番売れてる話を使えばいいんじゃないですかねぇ」
素人だが売れる物は一瞬で見抜く商売人である甚吉ゆえに、人気の本質をついていた。
良い作品が出来ると多くの模倣が生まれる。それは似たような話を求める大衆心理があるからだ。
「だから『うつけ』とよばれた織田信長様みたいに『宗麟公は乱暴で粗雑な振る舞いをしてました。でもそれは深い考えがあっての事なのです』としたらどうですか?」
いっそのこと名前だけ書き換えて出せば売れますよ。と言い放った。
「その方が、大衆には受け入れられるか」
そういって杉谷は筆を滑らせた。
一応杉谷にも誇りのかけらが残っていたようで、多少の独自色を出した。
『義鑑公の一男、義鎮公は幼少の時、行跡荒く、手習いにも心を入れず、近侍の侍をその頃流行のタイ捨流の弟子にして、いつも試合をさせた。
14・5歳のまだ手綱の秘術も知らない時に、かんの強い馬に乗ろうとしたり、何事にもおじず、老中たちは「あまりにも強すぎる大将は却ってよくない。五郎さまの代には当家はどうなる事か」と心配して義艦に注進した。
義鑑は文書で注意したが、しばらくすれば元に戻る。(義鎮は)いつも鷹狩、川狩り鹿狩りの遊山で、幼少より人とは変わった方だった。』
と、一見乱暴そうに見える者の合戦の稽古や武芸に励む、武将としては好ましい気性の荒い性格にはしたものの、信長程の突拍子もない人物には描かなかった。
ここから九州のうち6国を治める立派な大名に成長するとなれば、ただの乱暴ではなく深い考えがあるのだろうと思わせる事が出来る。
余談だがタイ捨流の創設者:丸目蔵人佐は1540年生まれ。上泉信綱に弟子入りし、1567年に新陰流の免許を受け、同年肥後相良家に仕え諸国を遍歴した。
つまりタイ捨流は1567年以前には存在せず、1530年生まれの宗麟が幼少時に学べるはずがなかったりする。
また『強すぎる大将は却ってよくない』とは甲陽軍鑑の武田勝頼評と同じである。
このように大友興廃記の序盤は王道の固まりで構成された。
『大友宗麟は乱暴者で大人の手におえない』という若き日の織田信長の踏襲。
そして、乳母が九州の主になれますように、と祈ったら「なぜ日本の主と願わない。そこまで大きな願いをして、 はじめて九州を治められるのだ」と利発さを発揮するのは毛利や伊達家などの有名大名の逸話でも多く見られる話だ。
このような王道の剽窃は現代なら大問題に発展するが、本の流通も少なく民衆も情報の発信力が小さかった時代ではさほど問題とはならなかったのだろう。
だが、起こってもいない事態を無理矢理あてはめようとすると次の様な喜劇も生まれる。
「あとは宗麟公が成長するために、不行儀を諌めて死ぬ家臣が必要じゃのう」
一般的に、織田信長は守役といわれた平手政秀が信長の奇行を憂い、自身の死で諌めたという逸話が当時有名であり、主君のために命を賭ける究極の忠義と称賛されていた。
…太田牛一が書いた信長公記の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされているが、美談でない話は無かった事にされている時代である。
このような家臣は大友家には存在しない。
「まあ、宗麟公が家督を継ぐ際に討伐された家老がおったから、あ奴の死を踏み台にして成長した事にするか」
「どのような理由で亡くなられたのですか?」
「うむ。詳しい事は分かっておらんのだがな、宗麟公の御父上は家臣から殺されたのじゃ」
宗麟が20歳の時に、二階崩れの変という事件が起こる。
これは宗麟の父である大友義鑑が家臣2人から殺害され、宗麟が跡を継ぐという事例である。
何故家臣が宗麟の父を殺したのか?その理由が不明だったので『大友記』という軍記では、
『後妻に骨抜きにされた義鑑は、後妻との間に生まれた子供を跡継ぎにしようとして家老の入田に命じて事前に口裏合わせをしてたが、反対した家臣がいたので殺害した所、その仲間から返り討ちにあった』
という話にしている。
「ちなみに史実では、宗麟公は「家老の入田親子の悪行ゆえ、父が死んだ」として討伐しておる」
「討伐と諌死では天と地ほどの差がありますねぇ」
「いっそのこと、この家老の死を乗り越えて名君だったことにするか」
使える物は死者でも使えとばかりに杉谷は構想を練りはじめた。
そのため、家督を継いだ宗麟は口うるさい家老に無実の罪を着せて討伐してしまっている。
その死をきっかけに他の家老たちが諌め状を提出し、反省した宗麟は名君になると言う展開になっている。
入田が死ぬ必要性はない。
このように、民衆が好む物語を無理矢理寄せ集めて描き、内容的に問題を抱えてながら物語は書きすすめられていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうして1637年の初め頃に2巻が完成し、留吉の元に届けられた。
『大友興廃記 二巻』
そう大書された本を見て、留吉は
「これでやっとお客様から『題名と内容が違う』と怒られずにすみますか」
と言いながら表紙をめくった。
そして、大きくため息をつき
「…………あの野郎」
と言った。
だれもが、大友宗麟の物語から始まると思った大友興廃記2巻。
その表紙の裏の紙には『(佐伯)惟勝・惟常兄弟合戦 並 杉谷遠江守が事』と題名が書かれていたのである。
「大神興廃記の次は佐伯興廃記に杉谷興廃記にしやがった……」
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(※)先哲史料大友宗麟1巻 2号 3月11日付け書状より
江戸時代のヨーロッパでは織田信長よりも有名な大名で、なんとドイツには宗麟公と宣教師フランシスコザビエルが謁見した絵画が存在する。
もっとも絵師は日本に来た事がないので想像で書いており、ローマ時代の立派な冠に目の覚めるような緋色のローブに身を包んだ西洋風の宗麟公の絵姿なのだが…
日本でも『悪名は無名に勝る』の言葉通り、当時邪教認定されたキリスト教を信じていた大名として名前は少し知られていた。
この大看板を杉谷はどう料理するのか?
大友興廃記を片手に見ていこう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
酷い志しで大神氏のおまけとして大友家の記録を書いた『大友興廃記』
留吉としては店先に出したくはなかった。
しかし家老である佐伯氏の祖先を侮辱してしまった手前、貸し出しをしないわけにはいかない。
留吉の場合売り上げの一部を作者に還元する形で商売していたので金を出して本を刷ったり仕入れるわけではない。
場所を貸すだけで仕入れの費用はかからないのだから、ダメで元々、義理を果たすための冷やかし置きである。
「まあ、これで売れなければ諦めもつくというものでしょう」
そう思いながら留吉は写本を店先に出した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何故売れる?」
留吉は首を傾げていた。
貸本というのはある程度試し読みした上で借りるかどうか決めるものである。
ならば、このような題名詐欺作品など売れるわけがないと思っていた。
しかし、思ったよりは借りられているのだ。
釈然としないまま売り上げを渡しにいくと
「…誠に不本意ではありますが、それなりに読まれてます」
と本人の目の前で告げた。
「こんな題名詐欺の様な本が売れるなど、何かの間違いであってほしかったのですが…」
と著者の目の前で作品の批判をする留吉。
「ふむ。それだけ大友家への興味がある者が多かったという事じゃろうか?」
批判された杉谷も首どころか頭を傾げていた。
杉谷としては自分の本が売れるという希望は最初から捨てざるを得なかった。
なので初めの1巻に伝えたい話を全力で書く事で『佐伯氏の名前だけでも伝われ!売れなくても良いから立ち読みだけでも読まれる範囲で佐伯様の名が広まれ!』という後ろ向きな決意と『それでも読むほどの書痴ならば続きを読まないといけないような内容にしてしまえ』という姑息な計算があった。
つまり、購入されなくても『題名と中身が全然違う本』として話題になる事を望んだのである。
なのに売れるとは不思議な話だ。
2人は首を傾げた。
種明かしをすれば、佐伯が「このたび当家の主君を題材とした本が出る」と同僚や家臣へ陰ながら宣伝をしたり、家来に命じて借りさせたりすることで「同僚が勧めるのなら読まないわけにはいかぬなぁ」とつきあいで読む人間が少なからずいたためだ。
今で言うステルスマーケティング。略してステマである。
筆者も二度自費出版で活字本を出したことがあるが、この身近な人間の応援というものにだいぶ、いや かなり助けられた。
無名の人間の作品がいきなり売れるなど普通はない。
新聞社に献本して名前だけでも紹介してもらったり、郷土史研究会の推薦や協力、組織票、親戚がまとめて購入してくれることで、その売り上げ実績が追加注文に繋がるのである。
『普通なら3冊売れれば恩の字の自費出版本が20冊完売したのだから次の注文を』と、今は実店舗が無くなった大分市の老舗書店 晃星堂の店主に追加で本を置かせて頂いたのもそのおかげである。
ご購入いただいたみなさま方、そして口コミで応援して下さった方々、誠にありがとうございます。
かように小規模出版とは泥臭い地道な努力がものを言う世界だったりするのである。
本の面白さが単純に売り上げに直結するなら、広告業と言う商売が成りたつわけがないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「釈然とせぬが、売れたのなら次の話を書こう」
そんな事は知らない杉谷はそう言って次巻の構想を練り始めた。
とりあえず、1巻の最後で宗麟を登場させたのだから2巻では当然宗麟を活躍させなければならない。
そこで宗麟の幼少時代を描くことにした。
だが、戦国武将の幼少時の逸話など杉谷も佐伯も知るわけがないのが実情だった。
たくさんの書き損じた反故紙に囲まれて杉谷はウンウン唸っていると。
筆をとって『宗麟公は英明』と書いたかと思えば「いや、違う」と紙を丸める。
再び白紙を前に「宗麟公は乱暴目にあまり旧来の家臣の手に余るほどだった」と書いては見たものの「これも違う」と反故が増える。
「ダメだ書けん!」
ついには引っくり返って寝ころんだ。
「どうしたんですか?旦那」
と訪ねて来たのは御用聞きの甚吉だった。
「どうしたもこうしたもない。宗麟公の幼少時代が書けんのだよ」
と寝そべったまま杉谷は答える。
「へええ、殿様のガキの頃の話ですか」
「人の家の殿様をつかまえてガキとはなんじゃ、ガキとは」
遠くでウグイスが鳴く声を聞きながら、杉谷は失礼な物言いに抗議した。
「へえすいません。では御曹司のお話ですか」
「うむ。その御曹司の御記録が全く残っとらんのじゃ。おまけに宗麟公の幼少のみぎりには、うちの父上もまだ生まれておらん時代だ」
なので佐伯様の家に何か記録が残っていないか尋ねた所「全く残っていない」との返答だった。
本執筆の依頼と応援はするが、史料は無い。
実際に筆者がとある地方の郷土史執筆を依頼された時にもこのような事があった。
書けと言うなら、ある程度の準備くらいはしてほしいものである。
杉谷はしばらく悩んでしまいには虚空を見つめて
「『子供は7歳までは天のもの』という言葉がある」
と言った。
江戸時代の幼児の死亡率の高さを表した言葉だ。
細菌の知識もなく、伝染病や栄養の知識不足により体の弱い子供は庶民も大名も一定の確率で早死にしていた。
そのため、幼い子供は死の可能性が常につきまとい、記録に残ることもほとんどなかった。
史実の大友宗麟が書状で登場するのも1536年 宗麟が7歳の時に当時の将軍の息子、足利義輝が誕生した事を祝う書状が初めてである。(※)
それまで外交的な文書での名は見られず、書状の数も少ない。
「それゆえに幼い若君の話はよほどの重臣でも知らぬというわけだ」
なるほど。と甚吉は思い、あることに気がついた。
「では旦那。宗麟公の子供の頃なんてわからないじゃないですか。それなのにどうやって書くというのですか?」
「そこなのだよなぁ…」
と真剣に悩んでいる。
――そんな基本的な事も決めずに、この方は『大友興廃記』などと大仰な本を書いたのか
あまりの無計画さに甚吉は呆れた。
しかし、杉谷は抗議するように言った。
「違うぞ。記録がないから困っているのではない」
と。
「誰も知らないということは、なにを書いても間違いだとは言えないのじゃ。だから自由になんでも書けるということ。つまりどのような話を創作すれば読者の人気が高まるか考えていたのじゃ」
誠実さの欠片もない返答が返って来た。
「なるほど。で、周りに積まれている本はなんなのですか?」
「うむ、唐国の古典や他家の記録から使えそうな逸話はないか探しているのじゃ」
堂々と剽窃を宣言する杉谷。
まあ、洗練された話と言うのは伝統芸能のように使いまわされる。
おとぎ話など、世界各国に似たような話があり、その土地その土地でアレンジが少しされている程度だ。
「だから名前と地名を入れ替えればよいのだが、宗麟公は織田信長のような乱暴者と、その反対に真面目で聡明な子供のどちらで書こうか悩んでおってな」
そういいながら、杉谷は人気のある軍記から使えそうな話はないか色々と見繕っていた。
この時代に著作権などない。
「例えば、宗麟公は素晴らしく聡明だったとしよう」
「はあ」
「そこである日、乳母が神社で『若君が九州の大名になれますように』と祈ったとする」
「どっかで聞いた話ですねぇ」
「だがそこで宗麟公は乳母を咎める。『九州の大名とは小さい事だ。そこで何故 日の本の大名と言わぬ。九州の統一とはそれだけの大望を得て初めて成せるのだぞ』とこう諭すわけじゃ」
「かぁー、可愛げのないガキですねぇ」
せっかく乳母さんがお祈りしてくれたのにダメだしである。憎たらしい事この上ない。
「なんだと」
「あ、いえ物の道理の分かったおび坊ちゃんですね」
「うむ。ところがこうした立派な話を書くと生意気だという輩が出てくる」
と杉谷は頷きながら、予想されるクレームを挙げる。
「なんでえ、やっぱり可愛げがねえんじゃねえか」
「なんか言ったか?」
「いえいえ。何も言ってません」
王道話でも、題材によっては失敗になる事もある。自分が書く物語ではどのように話を選ぶか?それはかなり難しい選択だ。
なお、この話は毛利元就や伊達政宗にも似たような逸話がある。九州が中国・奥羽に変わるだけである。
「他にも色々ネタはあるのだが、宗麟公をどのような人物に書くかが難しいのだ」
と悩んでいたのである。
「だったら一番人気のある話を使えばいいんじゃないですかい?」
甚吉は深く考えずに言った。
「服だって時代によって流行りの色や模様があるんですよ?今一番売れてる話を使えばいいんじゃないですかねぇ」
素人だが売れる物は一瞬で見抜く商売人である甚吉ゆえに、人気の本質をついていた。
良い作品が出来ると多くの模倣が生まれる。それは似たような話を求める大衆心理があるからだ。
「だから『うつけ』とよばれた織田信長様みたいに『宗麟公は乱暴で粗雑な振る舞いをしてました。でもそれは深い考えがあっての事なのです』としたらどうですか?」
いっそのこと名前だけ書き換えて出せば売れますよ。と言い放った。
「その方が、大衆には受け入れられるか」
そういって杉谷は筆を滑らせた。
一応杉谷にも誇りのかけらが残っていたようで、多少の独自色を出した。
『義鑑公の一男、義鎮公は幼少の時、行跡荒く、手習いにも心を入れず、近侍の侍をその頃流行のタイ捨流の弟子にして、いつも試合をさせた。
14・5歳のまだ手綱の秘術も知らない時に、かんの強い馬に乗ろうとしたり、何事にもおじず、老中たちは「あまりにも強すぎる大将は却ってよくない。五郎さまの代には当家はどうなる事か」と心配して義艦に注進した。
義鑑は文書で注意したが、しばらくすれば元に戻る。(義鎮は)いつも鷹狩、川狩り鹿狩りの遊山で、幼少より人とは変わった方だった。』
と、一見乱暴そうに見える者の合戦の稽古や武芸に励む、武将としては好ましい気性の荒い性格にはしたものの、信長程の突拍子もない人物には描かなかった。
ここから九州のうち6国を治める立派な大名に成長するとなれば、ただの乱暴ではなく深い考えがあるのだろうと思わせる事が出来る。
余談だがタイ捨流の創設者:丸目蔵人佐は1540年生まれ。上泉信綱に弟子入りし、1567年に新陰流の免許を受け、同年肥後相良家に仕え諸国を遍歴した。
つまりタイ捨流は1567年以前には存在せず、1530年生まれの宗麟が幼少時に学べるはずがなかったりする。
また『強すぎる大将は却ってよくない』とは甲陽軍鑑の武田勝頼評と同じである。
このように大友興廃記の序盤は王道の固まりで構成された。
『大友宗麟は乱暴者で大人の手におえない』という若き日の織田信長の踏襲。
そして、乳母が九州の主になれますように、と祈ったら「なぜ日本の主と願わない。そこまで大きな願いをして、 はじめて九州を治められるのだ」と利発さを発揮するのは毛利や伊達家などの有名大名の逸話でも多く見られる話だ。
このような王道の剽窃は現代なら大問題に発展するが、本の流通も少なく民衆も情報の発信力が小さかった時代ではさほど問題とはならなかったのだろう。
だが、起こってもいない事態を無理矢理あてはめようとすると次の様な喜劇も生まれる。
「あとは宗麟公が成長するために、不行儀を諌めて死ぬ家臣が必要じゃのう」
一般的に、織田信長は守役といわれた平手政秀が信長の奇行を憂い、自身の死で諌めたという逸話が当時有名であり、主君のために命を賭ける究極の忠義と称賛されていた。
…太田牛一が書いた信長公記の首巻に拠れば、政秀は信長と次第に不和になり、信長の実直でない様を恨んで自刃したとされているが、美談でない話は無かった事にされている時代である。
このような家臣は大友家には存在しない。
「まあ、宗麟公が家督を継ぐ際に討伐された家老がおったから、あ奴の死を踏み台にして成長した事にするか」
「どのような理由で亡くなられたのですか?」
「うむ。詳しい事は分かっておらんのだがな、宗麟公の御父上は家臣から殺されたのじゃ」
宗麟が20歳の時に、二階崩れの変という事件が起こる。
これは宗麟の父である大友義鑑が家臣2人から殺害され、宗麟が跡を継ぐという事例である。
何故家臣が宗麟の父を殺したのか?その理由が不明だったので『大友記』という軍記では、
『後妻に骨抜きにされた義鑑は、後妻との間に生まれた子供を跡継ぎにしようとして家老の入田に命じて事前に口裏合わせをしてたが、反対した家臣がいたので殺害した所、その仲間から返り討ちにあった』
という話にしている。
「ちなみに史実では、宗麟公は「家老の入田親子の悪行ゆえ、父が死んだ」として討伐しておる」
「討伐と諌死では天と地ほどの差がありますねぇ」
「いっそのこと、この家老の死を乗り越えて名君だったことにするか」
使える物は死者でも使えとばかりに杉谷は構想を練りはじめた。
そのため、家督を継いだ宗麟は口うるさい家老に無実の罪を着せて討伐してしまっている。
その死をきっかけに他の家老たちが諌め状を提出し、反省した宗麟は名君になると言う展開になっている。
入田が死ぬ必要性はない。
このように、民衆が好む物語を無理矢理寄せ集めて描き、内容的に問題を抱えてながら物語は書きすすめられていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうして1637年の初め頃に2巻が完成し、留吉の元に届けられた。
『大友興廃記 二巻』
そう大書された本を見て、留吉は
「これでやっとお客様から『題名と内容が違う』と怒られずにすみますか」
と言いながら表紙をめくった。
そして、大きくため息をつき
「…………あの野郎」
と言った。
だれもが、大友宗麟の物語から始まると思った大友興廃記2巻。
その表紙の裏の紙には『(佐伯)惟勝・惟常兄弟合戦 並 杉谷遠江守が事』と題名が書かれていたのである。
「大神興廃記の次は佐伯興廃記に杉谷興廃記にしやがった……」
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
(※)先哲史料大友宗麟1巻 2号 3月11日付け書状より
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弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。
飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。
大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。
愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。
だが、彼女は、立ち上がる!
人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。
奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ!
これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!
――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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