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佐伯興廃記の終わり
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19巻を書いた時に、佐伯にある杉谷の家は一番盛り上がった。
なぜならこの巻は佐伯が舞台だからだ
「日向合戦の後に宮崎から海賊が来ただ!うちの爺様たちが木立(佐伯市木立川)の入り江に入ってきた奴ら、26人をやっつけただ!」
「なるほど。それはいつの頃かのう?」
「たしか日向合戦の次の年と言うとった」
となると天正7年か。
そう思いながら杉谷は筆を走らせる。
首2;首藤 主水佐、泥谷 次郎・ 新三・志摩守、高畑 次郎左衛門尉
首1;泥谷 甚次・甚九、吉良 舎人、広末 與三左衛門尉、大力、長慶坊、藤左衛門尉、八郎兵衛、次郎五郎、弥三郎、甚四郎、五郎三郎、甚左衛門、五郎左衛門、右衛門三郎、六郎右衛門
天正7年7月21日
進入してきた26人の敵を討ち取った者たちの名前を書くと歓声があがる。
・・・・・・・・・
またある時、杉谷は佐伯の山を這い上った。
「ひぃ…ひぃ…」
因尾6人の武士は栂牟礼城に篭り、残った百姓らは「城に篭っては兵糧が尽きるし、因尾井上の穴園に隠れよう」と話し合った。
7町の険阻で九十九折の道を登ると一面の岩壁に山が重なって高くそびえ、岩壁の10間(20m)上に窓のような岩穴がある。
中は石畳のように平たく百姓は穴の口まで橋をかけ、大木に綱を付けて登り、鳥しか来られないような要害を作った。石落しやつり弓などの備えをし、水が岩の滴り2人分しか手に入らないので大樽に水を貯めて籠城したという。
杉谷の祖先が暮らしていた佐伯因美村には穴囲砦と呼ばれる山上の洞窟がある。
そこで佐伯の農民たち数十人は島津軍700人を撃退したのだという。
この話を聞いた時、杉谷は
「いくら物語といってもそんな荒唐無稽な話はかけぬよ」
と言ったところ、実際に現地に案内された。
傾斜45度~50度の急な崖。
セメント質の脆い白色の石が転がる斜面を一歩一歩上っていくと、4町(400m)ほど上の右側に洞窟がある。
「あそこが、ひいじいさまたちが籠城した穴でさあ」
と言われた。
途中までは二本の足で登れたが、途中から四つ足で地を掴まないと転げ落ちそうになる。
ようやく上りきった山の上のさらに崖の上10間(18m)に綱がたれ下がっている。
「ここに…籠もっておられたのか?」
――これは鳥でもないと入れないだろう。
杉谷はそう思った。それほど入るのが困難な場所だった。
「ここに石を綱で固定して、敵が来たら落としただよ。それで100人の薩摩兵が微塵に砕かれたんで、やつらここには二度とこなかってひいじいさま達は言うとったらしい」
この時代の人間の死に様で「砕かれた」という言葉はふつうは使わない。
だが杉谷にはその惨状が容易に想像できた。
足を踏み外せば真っ逆様に落ちそうな高い崖。
そこから転げ落ちる岩が数珠繋ぎに、登ってきた人間に襲いかかるのだ。
頭は砕け、死体に押されて転げ落ちた者達も所々で岩だらけの斜面で体を打ち、文字通り「砕けた」のだろう。
これがこの村で一番の武勇伝であり、残したい功名なのだという。
これを書かない手は無い。
この勇戦を『土民穴囲に籠もる事』と題し、杉谷は
「天正14年12月上旬に薩摩が700人で因尾表に放火しながら山探しをし、生捕りに案内をさせた。麓から攻めれば石綱を同時に30切って落し、100名を微塵に砕いたので薩摩勢は退却して2度と来ず、土民ながら無二の覚悟で難なく運を開いた。」
と評し、その勇戦を称えた。
現在、この穴囲砦の洞窟は樹木に覆われ、崖の入り口付近に看板があるだけである。
杉谷が記録に残さなければ、ここが古戦場だと分かる人間は誰もいなくなったかもしれない。
筆者は大友興廃記の記録を頼りに2017年に実際に登ってみたが、洞窟までは危険で入れなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「結局薩摩の奴らは俺たち御先祖様の活躍で進軍をあきらめたらしいだ。さらに佐伯の殿様が兵をお出しになって、あそこの神社で陣を敷いてた連中をやっつけただ」
そう言って案内されたのは川が消える場所、三竈江神社の前だった。
「ここに伏兵を置いて川に追い落として、反対側に上がろうとした兵を、あの鳥居の左右から一網打尽にしたそうだよ」
という。その時の大将は日向の武士だったらしく、柳井家が討ち取ったらしい。
「そういえば、もう一人の新名ってお侍は杉谷様んとこのが討ち取ったんでなかっただか?」
そう言って書状を見ると 杉谷兵部丞という名があった。
自分の一族の系図には無い名前だが、分家なのだろう。
「お、ここにも杉谷様の名があるぞ」
首2つ。の下に杉谷源四郎の名がある。
他にかかれた名は
(大将)首1;●戸高将監 討取 柳井 左馬介●新名 討取 杉谷 兵部丞●田北 宮内内侍 討取 後藤勘進
首2; 杉谷 源四郎、枡井 兵衛門尉、三代 勘解由、稗田 右馬介、柳生雅楽介・外記允、河野 藤兵衛尉
首1;枡井 弥右衛門尉・外記・兵庫頭、後藤 勘進、深田 左京進、稗田 嘉右衛門尉、吉良 舎人介、柳井 喜右衛門尉、柳井 市之助、染矢 五郎右衛門尉、柳井 左馬介内侍・雅楽介内侍、甚左衛門、覺右衛門、太郎右衛門、次郎右衛門、彦兵衛、五郎三郎、次郎右衛門
この村が残っているのは彼らが奮闘したおかげなのだろう。
「これはうちの爺様の名前か?」
と子供が書状を見て聞いてきた。
「おうよ。この方はうちの爺さまのさらに爺様にあたる方じゃぞ」と父親が誇らしげに言う。
彼らの名を書き記す事はない。
だが、彼らの子孫がこの書状を見たときに、今日のように先祖の功績に思いを馳せることができるよう、杉谷は一人残らず名前を写した。
筑後の立花家の軍記では絶対に見られない、豊後国佐伯の中でだけ語られる勇者たちの名が読めるのは大友興廃記だけであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
他にも『和談の使を討つ』という騙し打ちの話も書いた。
薩摩の兵は佐伯の制圧をあきらめ、野津院(今の臼杵市野津原)を通って府内に進もうとした。
そこを佐伯の兵が襲撃し、さんざん追い払った。
これはイカンと薩摩から佐伯へ和睦の使者が来たそうだが、当主の佐伯惟定は家中の侍30人を集め
『我は若輩だが戦とは喧嘩口論のような意趣遺恨があるべきでない事は知っている。だが薩摩は祖父・親・伯父の仇である。その上宗麟公への逆心はすべきではない。手切れの返事と討ち果たしの2つに他はあるまい。各々はどう思う?』
と言うと、惟定の母が
『先程、物越しに聞いていたが敵大勢で敵討ちが叶わなければこの城を枕に惟定の腹を切らせ我自害する他はない。皆未練の心あるべからず』
と気色を変えて言った。
家中の侍も同意し使者を討ち果たすべきと決め、使者に和睦を結ぼうと騙して寺にさそいこみ皆殺しにしたという。
「………それは少し書くのをためらうのう」
正々堂々と戦う名誉を重んじるようになった世でそれはないだろう。と杉谷は若干思った。だが
「何を言われますかい。薩摩の奴らだってだまし討ちは当たり前でしたぞ。武略ですだ。武略」
と村人たちは興奮して言う。
彼らのせいで祖先が日向で討たれたり佐伯の邸宅をやかれたのだろう。
そうは言ってものう。と杉谷はためらっていたが、
「…そういや、そん時の案内役が、たしか杉谷帯刀様と言ってた気がするだ」
といったとたんに
「立派な武略じゃな。それは後世に残さねばならぬ」
杉谷はあっさりと手のひらを返した。
高橋記によると高橋紹運の嫡子、高橋統増は島津と戦った際に城の明け渡しと引き替えに解放される約束だったのに、それに違反した島津に捕らえられ薩摩の奥へ送られたらしい。
戦場での約束違反は日常茶飯事だ。武士は犬であれ畜生であれ勝つが本にて候。なのである。
20人の敵を案内するという一歩間違えれば逆に己が殺される役割を遂行した杉谷帯刀。
「さて、使者を切ったため島津家久は2万の兵で(佐伯の)轟に陣をとって堅田まできただ」
佐伯惟定の守る城から2里離れた場所であり泥谷の地名を有す地である。
ここで佐伯を補佐した家臣達は地の利を生かして所々に兵を伏せ、道に不案内な島津兵を攪乱した。
自分が話した佐伯の民達。普段生活して通行する道土地。平穏そのものの山々。
そこでかつて起こった大戦を一筆で後世にのこさんとばかりに、杉谷は書き記した。
宇山に潜んだ兵は、わざと敵を通り過ごし、敵が攻めてくれば引き、敵が引けば攻める。
山や川を利用して、小軍が大軍を翻弄したのである。
徹底したゲリラ戦法で数の劣る佐伯軍は島津を撃退した。
「それは猪鹿を狩るようだった」
と杉谷は記している。
ここで杉谷兵部丞という人物が活躍した事で大友興廃記における杉谷姓の出番は終わる。
これが杉谷興廃記の最後であった。
このあと佐伯惟定は山田と相談して、日向との境に逃げた島津軍と戦う。
そして秀吉の軍が到来するまえに日向まで追い散らし自領を守った。
豊後各地を荒らしまわった島津はついに豊後からいなくなり平穏を取り戻した。
この巻で佐伯の記述は終わり、惟定は大戦果を挙げた所で記述が止まる。
緒方三郎から佐伯惟重まで、長い長い佐伯物語はこれで終わった。
これ以上豊後佐伯氏を詳しく書いた本はこれから先生まれる事が有るだろうか。という程、濃密な本が完成したのである。
「惟重様。20年以上かかりましたが、ここに由緒ある佐伯様の名を後世に伝える本が出来上がりました。物語自体はまだ少し続きますが、主命の達成をここにお伝え申し上げます」
そう言って東方へ深々と頭を下げた。
また杉谷猪兵衛にも同じように祖先の霊を祀る本が出来上がった事を報告した。
佐伯興廃記と杉谷興廃記は19巻で完成したのである。
なぜならこの巻は佐伯が舞台だからだ
「日向合戦の後に宮崎から海賊が来ただ!うちの爺様たちが木立(佐伯市木立川)の入り江に入ってきた奴ら、26人をやっつけただ!」
「なるほど。それはいつの頃かのう?」
「たしか日向合戦の次の年と言うとった」
となると天正7年か。
そう思いながら杉谷は筆を走らせる。
首2;首藤 主水佐、泥谷 次郎・ 新三・志摩守、高畑 次郎左衛門尉
首1;泥谷 甚次・甚九、吉良 舎人、広末 與三左衛門尉、大力、長慶坊、藤左衛門尉、八郎兵衛、次郎五郎、弥三郎、甚四郎、五郎三郎、甚左衛門、五郎左衛門、右衛門三郎、六郎右衛門
天正7年7月21日
進入してきた26人の敵を討ち取った者たちの名前を書くと歓声があがる。
・・・・・・・・・
またある時、杉谷は佐伯の山を這い上った。
「ひぃ…ひぃ…」
因尾6人の武士は栂牟礼城に篭り、残った百姓らは「城に篭っては兵糧が尽きるし、因尾井上の穴園に隠れよう」と話し合った。
7町の険阻で九十九折の道を登ると一面の岩壁に山が重なって高くそびえ、岩壁の10間(20m)上に窓のような岩穴がある。
中は石畳のように平たく百姓は穴の口まで橋をかけ、大木に綱を付けて登り、鳥しか来られないような要害を作った。石落しやつり弓などの備えをし、水が岩の滴り2人分しか手に入らないので大樽に水を貯めて籠城したという。
杉谷の祖先が暮らしていた佐伯因美村には穴囲砦と呼ばれる山上の洞窟がある。
そこで佐伯の農民たち数十人は島津軍700人を撃退したのだという。
この話を聞いた時、杉谷は
「いくら物語といってもそんな荒唐無稽な話はかけぬよ」
と言ったところ、実際に現地に案内された。
傾斜45度~50度の急な崖。
セメント質の脆い白色の石が転がる斜面を一歩一歩上っていくと、4町(400m)ほど上の右側に洞窟がある。
「あそこが、ひいじいさまたちが籠城した穴でさあ」
と言われた。
途中までは二本の足で登れたが、途中から四つ足で地を掴まないと転げ落ちそうになる。
ようやく上りきった山の上のさらに崖の上10間(18m)に綱がたれ下がっている。
「ここに…籠もっておられたのか?」
――これは鳥でもないと入れないだろう。
杉谷はそう思った。それほど入るのが困難な場所だった。
「ここに石を綱で固定して、敵が来たら落としただよ。それで100人の薩摩兵が微塵に砕かれたんで、やつらここには二度とこなかってひいじいさま達は言うとったらしい」
この時代の人間の死に様で「砕かれた」という言葉はふつうは使わない。
だが杉谷にはその惨状が容易に想像できた。
足を踏み外せば真っ逆様に落ちそうな高い崖。
そこから転げ落ちる岩が数珠繋ぎに、登ってきた人間に襲いかかるのだ。
頭は砕け、死体に押されて転げ落ちた者達も所々で岩だらけの斜面で体を打ち、文字通り「砕けた」のだろう。
これがこの村で一番の武勇伝であり、残したい功名なのだという。
これを書かない手は無い。
この勇戦を『土民穴囲に籠もる事』と題し、杉谷は
「天正14年12月上旬に薩摩が700人で因尾表に放火しながら山探しをし、生捕りに案内をさせた。麓から攻めれば石綱を同時に30切って落し、100名を微塵に砕いたので薩摩勢は退却して2度と来ず、土民ながら無二の覚悟で難なく運を開いた。」
と評し、その勇戦を称えた。
現在、この穴囲砦の洞窟は樹木に覆われ、崖の入り口付近に看板があるだけである。
杉谷が記録に残さなければ、ここが古戦場だと分かる人間は誰もいなくなったかもしれない。
筆者は大友興廃記の記録を頼りに2017年に実際に登ってみたが、洞窟までは危険で入れなかった。
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「結局薩摩の奴らは俺たち御先祖様の活躍で進軍をあきらめたらしいだ。さらに佐伯の殿様が兵をお出しになって、あそこの神社で陣を敷いてた連中をやっつけただ」
そう言って案内されたのは川が消える場所、三竈江神社の前だった。
「ここに伏兵を置いて川に追い落として、反対側に上がろうとした兵を、あの鳥居の左右から一網打尽にしたそうだよ」
という。その時の大将は日向の武士だったらしく、柳井家が討ち取ったらしい。
「そういえば、もう一人の新名ってお侍は杉谷様んとこのが討ち取ったんでなかっただか?」
そう言って書状を見ると 杉谷兵部丞という名があった。
自分の一族の系図には無い名前だが、分家なのだろう。
「お、ここにも杉谷様の名があるぞ」
首2つ。の下に杉谷源四郎の名がある。
他にかかれた名は
(大将)首1;●戸高将監 討取 柳井 左馬介●新名 討取 杉谷 兵部丞●田北 宮内内侍 討取 後藤勘進
首2; 杉谷 源四郎、枡井 兵衛門尉、三代 勘解由、稗田 右馬介、柳生雅楽介・外記允、河野 藤兵衛尉
首1;枡井 弥右衛門尉・外記・兵庫頭、後藤 勘進、深田 左京進、稗田 嘉右衛門尉、吉良 舎人介、柳井 喜右衛門尉、柳井 市之助、染矢 五郎右衛門尉、柳井 左馬介内侍・雅楽介内侍、甚左衛門、覺右衛門、太郎右衛門、次郎右衛門、彦兵衛、五郎三郎、次郎右衛門
この村が残っているのは彼らが奮闘したおかげなのだろう。
「これはうちの爺様の名前か?」
と子供が書状を見て聞いてきた。
「おうよ。この方はうちの爺さまのさらに爺様にあたる方じゃぞ」と父親が誇らしげに言う。
彼らの名を書き記す事はない。
だが、彼らの子孫がこの書状を見たときに、今日のように先祖の功績に思いを馳せることができるよう、杉谷は一人残らず名前を写した。
筑後の立花家の軍記では絶対に見られない、豊後国佐伯の中でだけ語られる勇者たちの名が読めるのは大友興廃記だけであった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
他にも『和談の使を討つ』という騙し打ちの話も書いた。
薩摩の兵は佐伯の制圧をあきらめ、野津院(今の臼杵市野津原)を通って府内に進もうとした。
そこを佐伯の兵が襲撃し、さんざん追い払った。
これはイカンと薩摩から佐伯へ和睦の使者が来たそうだが、当主の佐伯惟定は家中の侍30人を集め
『我は若輩だが戦とは喧嘩口論のような意趣遺恨があるべきでない事は知っている。だが薩摩は祖父・親・伯父の仇である。その上宗麟公への逆心はすべきではない。手切れの返事と討ち果たしの2つに他はあるまい。各々はどう思う?』
と言うと、惟定の母が
『先程、物越しに聞いていたが敵大勢で敵討ちが叶わなければこの城を枕に惟定の腹を切らせ我自害する他はない。皆未練の心あるべからず』
と気色を変えて言った。
家中の侍も同意し使者を討ち果たすべきと決め、使者に和睦を結ぼうと騙して寺にさそいこみ皆殺しにしたという。
「………それは少し書くのをためらうのう」
正々堂々と戦う名誉を重んじるようになった世でそれはないだろう。と杉谷は若干思った。だが
「何を言われますかい。薩摩の奴らだってだまし討ちは当たり前でしたぞ。武略ですだ。武略」
と村人たちは興奮して言う。
彼らのせいで祖先が日向で討たれたり佐伯の邸宅をやかれたのだろう。
そうは言ってものう。と杉谷はためらっていたが、
「…そういや、そん時の案内役が、たしか杉谷帯刀様と言ってた気がするだ」
といったとたんに
「立派な武略じゃな。それは後世に残さねばならぬ」
杉谷はあっさりと手のひらを返した。
高橋記によると高橋紹運の嫡子、高橋統増は島津と戦った際に城の明け渡しと引き替えに解放される約束だったのに、それに違反した島津に捕らえられ薩摩の奥へ送られたらしい。
戦場での約束違反は日常茶飯事だ。武士は犬であれ畜生であれ勝つが本にて候。なのである。
20人の敵を案内するという一歩間違えれば逆に己が殺される役割を遂行した杉谷帯刀。
「さて、使者を切ったため島津家久は2万の兵で(佐伯の)轟に陣をとって堅田まできただ」
佐伯惟定の守る城から2里離れた場所であり泥谷の地名を有す地である。
ここで佐伯を補佐した家臣達は地の利を生かして所々に兵を伏せ、道に不案内な島津兵を攪乱した。
自分が話した佐伯の民達。普段生活して通行する道土地。平穏そのものの山々。
そこでかつて起こった大戦を一筆で後世にのこさんとばかりに、杉谷は書き記した。
宇山に潜んだ兵は、わざと敵を通り過ごし、敵が攻めてくれば引き、敵が引けば攻める。
山や川を利用して、小軍が大軍を翻弄したのである。
徹底したゲリラ戦法で数の劣る佐伯軍は島津を撃退した。
「それは猪鹿を狩るようだった」
と杉谷は記している。
ここで杉谷兵部丞という人物が活躍した事で大友興廃記における杉谷姓の出番は終わる。
これが杉谷興廃記の最後であった。
このあと佐伯惟定は山田と相談して、日向との境に逃げた島津軍と戦う。
そして秀吉の軍が到来するまえに日向まで追い散らし自領を守った。
豊後各地を荒らしまわった島津はついに豊後からいなくなり平穏を取り戻した。
この巻で佐伯の記述は終わり、惟定は大戦果を挙げた所で記述が止まる。
緒方三郎から佐伯惟重まで、長い長い佐伯物語はこれで終わった。
これ以上豊後佐伯氏を詳しく書いた本はこれから先生まれる事が有るだろうか。という程、濃密な本が完成したのである。
「惟重様。20年以上かかりましたが、ここに由緒ある佐伯様の名を後世に伝える本が出来上がりました。物語自体はまだ少し続きますが、主命の達成をここにお伝え申し上げます」
そう言って東方へ深々と頭を下げた。
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