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雨を呪うことなかれ
しおりを挟むきょうも雨がふっている。さくや亭という大きな屋敷に住みこんで働くことになった天蔵螢介は、学ラン姿で亭主の留守を預かっていた。
「あのさ」
スーツ姿の亭主を玄関で見送るさい、当座の着がえを手配してもらえないか、たずねた。……家をでるとき、パジャマとか持ってくればよかったぜ。学校へ行くのに、ふつうは用意しないけど。どこかで買ってくるよと請けおった亭主は、やたら光沢のある革靴を履き、「そうそう」と云って、ふり向いた。
「黒猫に、名前をつけてあげるといい。きみの力になるだろう。それから、少年が訪ねてきたら、床の間ではなく、わたしの室に通してあげなさい。廊下の突きあたりだ」
「わかりました。……あの子ども、またくるんですか?」
念のため、ここの亭主には敬語を使うようにした。おれの雇い主だしな。ときどき、うっかり忘れるのは性分だ。気にしないでほしい。ちなみに、きのうの件は、夕食時に報告してある。書道教室の看板をだしておきながら、どこかへ出かけてゆく亭主だが、夜にはちゃんと帰ってくる。昼間の顔は知らないが、帰宅した亭主に変わったようすはない。おかしな言動は、あえてスルー。おれが知りたいのは、亭主の謎めいた素性などではない。
房飾りのついた黒傘を手にする亭主は、螢介の質問には答えず、硝子戸をあけた。ふりしきる雨のなか、なんの迷いもなく歩いてゆく。玄関先の軒下に、飯茶碗が置いてある。この辺りの地域をなわばりにする黒猫用だと思われたが、いまや、さくや亭の一員に加えられている。……たしかに、名前がないと呼ぶのに不便だな。黒いから、クロでいいか? そういえば、あいつってメスか? オスか? どっちだったっけ。
少年が訪ねてくるまでひまを持てあます螢介は、黒猫をさがすことにした。野生で暮らす時間が長いのか、ご飯のときしか姿を見せない。とはいえ、家猫になるさいは人間に化けて湯をあびるという、大胆な行動をとっている。磨硝子ごしに見たかぎり、上半身にふたつのふくらみはなかった。小さな子どもくらいの背丈だったが、白黒の陰影だけで性別まで判断するのはむずかしい。
「クロ」
仮の名前として、声に出して呼んでみる。「クロ、どこだ」と、くり返しても返事はない。……もしかしたら、すでに名前があるのかもしれない。名づけ親がいる場合、クロでは反応しないだろう。試しに「ネコ」と、シンプルに呼んでみる。カタンッ。物音がした。反応ありだ。居間の押入れからである。……オーケー、そこにいるんだな。
「ネコ、あけるぞ」
〘つづく〙
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