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猫を呼ぶことなかれ
しおりを挟むさくや亭の台所には、来客用の茶器がそろっている。家人とはべつに買いそろえてあるところを見ると、さっきの少年のように、来訪者へのもてなしは、日常的なのかも知れない。それこそ、おれのような窓口を住みこみで配置するほどに……。戸棚の抽斗に、茶菓子も用意してあった。もぐら堂という老舗の焼印がはいったまんじゅうである。うまそうだったので、ひとつ味見をする。薄皮の中身は、こしあんだった。咽喉の奥でサラサラと融けてゆく。さっぱりした甘さもちょうどいい。
急須や湯呑みを持ってもどった螢介は、少年の気配を見うしなって途惑った。床の間に、だれもいない。玄関に靴もない。そこにあったはずの白いレインコートも消えていた。
「あいつ、なにしに来たんだ」
帰ったのなら、わざわざ探す必要はない。亭主には、ありのままを報せればいい。ニャアと、猫の鳴き声が聞こえた。硝子戸をあけると、門柱の陰に黒猫が雨宿りをしていた。……あれ? いま、鍵がかかっていたよな? 少年は、この玄関から出ていったはずだ。内側から鍵をあけた螢介は、妙な気分になる。……まさか、幽霊みたいにすり抜けたのか?
「おい、そこの猫。男の子を見たか? 白いレインコートを着た、中学生くらいの男の子だ」
動物にたずねておきながら、螢介は真顔で返事を待った。黒猫には見おぼえがある。雑木林へ足を踏み入れた螢介は、黒猫の気配をたよりに進んだおかげで迷わずにすんだ。さくや亭の飼い猫だろうか。玄関先の軒下に、飯茶碗が置いてある。いまは空だが、なにかよそってもらえそうだ。
「猫、こっちへおいで。そこはぬれるだろう」
雨は雷雨になっている。軒下とはいえ、ぬれそぼって丸くなる姿を見た螢介は、家のなかへはいるように云った。……無視かよ。黒猫は知らん顔だ。きのうからさくや亭に住みこむ螢介を、警戒して近づこうとしない。きっぱりと拒絶された螢介は、そっと玄関扉をしめた。鍵をどうするべきか悩んだが、かけずに奥の間へもどった。
卓袱台の急須と湯呑みを片づける。まんじゅうはひとりで全部食べた。どうにも、朝から腹が減る。なにを食べても足りないような、底なしの胃袋がエネルギー摂取を催促してやまない。
水音がする。雨とはちがう。耳を澄ませると、風呂場でだれかが湯につかっているようだった。亭主は留守で、勝手口から帰宅したようすは見られない。不審に思った螢介は、まず、脱衣所を静かにのぞきこんだ。タオルや足ふきは置いてあるが、脱いだ服がない。浴室と脱衣所を仕切る磨硝子に、入浴中の人物の輪郭が浮かびあがる。……耳としっぽがある。さっきの黒猫か? おいおい、それはさすがにないだろう。たぶん、ぜったい。
「天蔵くんも、いっしょにはいったらどうだい」
不意すぎる登場に、螢介は腰が抜けた。いつのまにか、背後に亭主が立っている。黒いスーツ姿で、書類かばんをさげていた。雷鳴が天井の電灯をゆすぶり、蔽いの塵がハラハラと落ちてくる。
「はいるって、だれと……」
立てないが声はでた。亭主は笑い声になり、螢介の頬を冷たい指でひと撫でした。
「あの子は、きみが誘ったのだろう。責任をもって面倒をみるように。食費なら、別途請求しないでおくよ。サービスだ」
なんのことかさっぱりだ。……あの子って、いったいだれだ? いま、風呂にはいってるやつは何者だ。
「あんたは人間なのか?」
……おそらく、悪人じゃない。むしろ、この界になくてはならない人だ。そんな気がした。すると、
「いやだな」と、亭主の声が聞こえた。こんどは笑っていない。「きまっているじゃないか」
まったく話がかみ合わない。螢介は、湯をあびる人影を見つめ、顔をしかめた。あれは軒下にいた黒猫だ。……やっぱり、呼ばなければよかった。なんて、もう遅いか。
〘つづく〙
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