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猫を呼ぶことなかれ
しおりを挟むおれは、いま、とてつもなく非常識な存在だ。黒猫を追ってたどりついた場所は、すでに息たえている天蔵螢介を人間として採用した。そのおかげで、彼の奇妙な仕事は始まった。
求人の貼紙を見て訪ねた[さくや亭]は、たいして儲からない古びた書道教室で、本業によって発生する利鞘が、懐をうるおしている……らしい。仕事が終われば帰れるはずもなく、極楽に逝けるわけでもない螢介は、云いなりにからだを動かすだけである。
「……いいかげんな商売だな」
亭主のことばを信じるなら、留守中の窓口応対がアルバイトの内容である。面接(簡単な説明)を終えた亭主は、黒いレインコート姿で雨のなかを出かけてゆく。三十代半ばといった容姿だが、だてのような眼鏡が顔の印象をぼかしている。……たぶん、美形だ。室は貸してもらえたが、屋敷の全貌はつかめない。無駄にひろいのだ。
ブーブーッ。だれか来た。
螢介が「どちらさまですか」と玄関口でたずねると、硝子戸の向こうで小さな影がゆらめいた。
「お約束どおりに来ました。さくや先生は、おいでですか?」
鍵をあけると、十二、三歳くらいの子どもが立っていた。書道教室の生徒だろうか。着ていた白いレインコートをがさごそと脱いで、螢介に「こんにちは」と頭をさげる。礼儀正しい少年だ。激しい雨のなかを歩いてきたのに、たいしてぬれていない。……細かいことを気にしたら負けか?
「悪いけど、亭主は留守なんだ。伝言があれば伺うよ」
「待たせてもらいます。そのように約束されましたので」
「……帰りは何時になるか、おれも解らないんだけど」
「かまいません」
少年は丁寧語を使うが、なんとなく厚かましい。目的を達するまで居座るつもりだ。タオルは必要なさそうだったので、螢介は庭に面した床の間へ案内した。……どの道、この雨だしな。出直すよう追い返すには気がひける。卓袱台には硯と墨、巻紙と筆が置いてある。
「お茶を淹れてくるけど、熱いのは平気?」
螢介は、くだけた口調できく。神経が疲れるため、子ども相手に敬語は使わない。銘仙の座布団の上に坐る少年は、答えるかわりにうなずいた。いまのところ、態度も表情もおちついている。螢介の立場を質問されるまえに台所へ姿を消しておく。
平日の午后だというのに、高校生(学ランのおれ)と中学生(たぶん、一年生くらい)が学校へ行かないのは、お互いさまだ。事情なんて人それぞれだから、いちいちたずねる必要はない。聞いたところで、気まずくなるだけだ。……もしくは、気の毒にと思われる。学校へいかないという判断は、世間が思うよりずっと爽快なんだけどね。おれの場合は、教室ほど空気の悪い場所はない。学校へ行くたび、病気になった。心もからだも。勉強には相性がある。得意なやつがひきうければいい。
〘つづく〙
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