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傘を追うことなかれ
しおりを挟む「なんでこの傘が……」
ネイビーの房飾りがついている。橋の欄干に吊るしたものとそっくりだ。……ユッくんって、だれだ? 知らない名前である。螢介に兄弟や姉妹はおらず、近所に同学年の生徒もいない。正体の知れない人物が、母の密子に黒傘をとどけたようだ。しかも母は、それを息子のものとしてうたがわない。……おれの傘は淡青なんだけど。
くしゃみがでた。いつまでもぬれたままでは風邪をひく。泥水で汚れた学ランは洗濯機の手洗いモードで洗っておき、シャワーをあびて部屋へひきあげた。
……を
連れ帰ったんだね。
からかうような調子の声がして、ベッドを飛び起きた。ざわっと、白い影が窓の外をよぎる。……どうやら、いちど死にかけた人間には、それまでにない好奇心が身につくようだ。螢介は窓の鍵をあけ、暗闇へ顔をのぞかせた。鼓膜が痛むほどの耳鳴りがして、なにかが躰のなかで熱くなるのを感じたが、意識があったのはそこまでだった。
朝になり、また雨がふりだした。螢介は玄関で通学靴を履き、黒傘を手にとった。……気味悪いが、しかたない。おれの傘は学校にある。実のところ、それもうたがわしい。雨は、いつからふっていた? きのうの記憶さえ、あいまいだ。やや憮然としつつ傘をひろげ、郵便受けに目をとめる。雨水を吸った新聞紙が、半分ほどはみだしていた。朝いちばんに回収する父は、めずらしくまだ起きてこない。螢介は、掲示板のある公園へ向かった。
[アルバイト募集。空き部屋あり。食事補助あり。男子歓迎、委細面談にて。さくや亭]
求人の貼紙を見つけ、さっそく電話をかけた。家には帰れないため、住みこんで働ける場所が必要だった。面接にきてほしいと応対する声は、黒いレインコート姿の男でまちがいない。螢介は、すぐにピンときた。
「あなたの傘を、あずかっています」
いろいろと腑に落ちないため、電話口で男を非難した。「どうして、あんなことをしたんだ」「あんなこと?」「とぼけるなよ」「もしかして炎估のことかな?」「えんこ? そうじゃなくて、……なんの話?」「きみのことだよ、天蔵螢介くん」
そこで通話を終了した。妙なことがつづき、頭がおかしくなっている。……いまのはなんだ? おれは名乗ってないぞ。ひたすらぼんやりする螢介は、雨のなかを歩く猫を見かけた。艶のある黒猫で、人々のあいだをたくみにすり抜けていく。学校に用事のない螢介は、黒猫を尾行してみようと思いつき、あとをつけた。しばらくすると雑木林へはいりこまれてしまい、さすがに追いつけないとあきらめたが、ニャアという鳴き声にいざなわれ、足はとまらなかった。
「ここが、さくや亭……?」
突如としてあらわれたのは、大きな屋敷だった。白い靄をおびた玄関に、さくや亭という縦長の屋号がある。書の手ほどきを受けたことがある螢介は、熟れた筆に、ほんの一瞬見惚れた。……アルバイト募集の貼紙には、空き部屋ありと書いてあった。あやしい求人ならば、断ればよい。電話口の男は、面接にきてほしいと云っていた。螢介が呼び鈴を押すと、ブーブーッと、豚の鳴き声のような音がひびく。……ピンポンじゃないンだ。激しさを増した雨が、屋根から滝のように流れた。
……やはり、惜しいか。
増水した川にのみこまれたせいか、螢介のからだには、云い知れぬなにかが棲みついている。それは本人の意思に拘わらず、好き勝手に語りかけてくる。呼び鈴を押しても、応答はない。玄関の鍵はかかっていた。留守ならば待つしかない。黒傘を折りたたむと、学ランの肩口に玉水がはねた。
「きみ、ぼくを尾行しましたね」
ふりしきる雨のせいで油断した螢介は、横にならんだ男の声に仰天して咳こみ、三枚のウロコを吐いた。
〘つづく〙
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