あやし聞書さくや亭《十翼と久遠のタマシイ》

み馬下諒

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傘を追うことなかれ

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 どうして、そんな気になったのか。……ただ、川の流れる音や、雨のにおいは好きだった。……角がある蛇を見た。なんて、信じてもらえないよな。青っぽいウロコが魚みたいに光って、きれいだった。


「……さて、どうしようか」


 黒いレインコート姿の男(顔は見えないけれど、女の声ではない)は、何日も雨がふりやまず、増水した川にのみこまれそうになっている高校生(おれのことだよ)に、ひらいた傘をさしだす。……こいつ、ふざけているのか? おれはいま、からだにぴったりと重たく張りつく学ランのせいで、濁流の水面に顔だけ浮かせ、呼吸をするのもやっとの状況だ。水底にあるなにかのかたまりに片足がはさまって、すべり落ちた斜面をのぼることもできない。

 自力では助からない。だれが見ても天蔵あまくら螢介けいすけは危機的状況におちいっている。泥水をのんでわめきもしない螢介へ、橋から見おろす男がきく。


 どぶ川で溺れ死ぬか、
 なりわいを手伝うか、
 選んでもらえるかな。


 その二択に、腹をたてるひまもない。力つきてからだが沈む螢介は、運がなかったとあきらめた。水かさの増した川に近づいたのが悪い。角がある蛇なんて、いるわけない。全部まぼろしだったんだ。……神様、どうか。なんて、都合のいい願いごとはなしだ。天蔵螢介は、最初から向こう岸へ渡れない川べりを歩いていた。


 まだ……、かなくていい。
 きみには、働いてもらおう。


 男が、なにかっている。その声が聞こえるはずもないのに、思わぬ力で無理やりひきあげられた螢介は、のみこんだ泥水を吐きだした。午后ごご四時にしては、あたりは暗い。いつのまにか、雨もやんでいる。……おれ、死なずにすんだ? ハッとして顔をあげると、黒いレインコート姿の男は消えていた。橋のうえに、ひらいた傘が置いてある。風にゆれて、車道へと転がっていく。

 螢介はよろめきながら歩き、その傘を拾った。手開きのシンプルな黒傘だ。木彫の持ち手に、ネイビーの房飾ふさかざりがついている。螢介は、折りたたんで欄干らんかんに吊るした。房つきの黒傘は目印になる。おそらく、レインコート姿の男の愛用品だろう。溺死寸前の高校生に手をさしのべるわけでもなく、ただ見おろすだけで立ち去った男の傘など、拾得物として警察署へとどける義理はない。むろん、持ち帰る気にもなれなかった。

「……こんなもの、たんなる傘だ。いくらでも買う店はあるよな」

 万が一だれかに盗まれても、似たような黒い傘は売っている。この場に放置しても、責任は問われないはずだ。──突然の死を受けいれるには、時間を要するだろう。まず、本人が気づいていない。そのまま残したものは、彼自身のタマシイだということを。
 

 びしょぬれで帰宅した息子に、螢介の母が叱言こごとをならべる。……まったく、ケイちゃんったら、この雨のなかを、どうして学校に傘を置き忘れたりするの? さっき、ユッくんが持ってきてくれたのよ。高校生にもなって、じぶんの持ちものくらい、失くさないでちょうだいね。

 玄関に、見おぼえのある黒い傘が立て掛けてある。

「なんで……これが……」


〘つづく〙
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