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螢介、聞書に挑ム
しおりを挟むかすれた声で少年が唄う。「夜になる、依るになる」「禍ごころ、深くなる」「ぼくの、ねたみ、深くなる」
毛筆で「る」を書くとき、一筆書きとなるため、ひらがなの筆づかいとしては、むずかしい字にあたる。料紙へ「る」の字を記す螢介は、指さきが痺れるような感覚に途惑った。
「よい筆だよ。そのままつづけて」
亭主の声は、はっきり聞こえたが、気配を感じられない。思わず横目で確認すると、かたわらに寄り添い、手もとを見つめていた。……よかった。このひとがいてくれて……。
螢介は安心して筆を動かし、少年の声に耳をかたむけた。「あっちからも、こっちからも、はずむ」「くるくるまわる」「いつまで、この道をたどればいい」「ぼくは、夜になる、蛇になる」
「……へ、蛇だって?」
ビクッと、螢介の指がはねる。筆をもつ手がふるえだし、もう字を書くことはできない。カツンッと、墨をふくんだ筆が床へ落下した。亭主は料紙をうけとり、足もとに転がる筆を拾った。
「天蔵くん」
「ち……がう……、おれは、蛇じゃない……」
「天蔵くん、正気になりたまえ」
「だから、ちがうって!」
怒気をあらわにして叫ぶ螢介は、無意識に腕をふりあげた。亭主は避けない。「どあほう」といって、炎估があいだに姿をあらわし、螢介の腕を叩きおとした。黒紋つきの着物に赤い短髪の炎估は、わざとらしくため息を吐いた。
「おまえがやったのか」
「なにを……だよ……」
「聞書をだよ」
「聞き……、書き……?」
炎估に問われ、螢介はハッとわれにかえった。「おれは、いったいなにを……」全身に汗をかいている。当惑する螢介に、「少し休憩しよう」と亭主が声をかけた。
「きみが助けた少年は、風估が見ているから安心おし。炎估、天蔵くんの着がえを持ってきてあげて」
亭主にうながされて風呂場へもどる螢介は、浴衣を脱いで湯船に浸かった。からだが、ひどく疲れている。……なんだ、これ。全身が怠い。……丸三日、徹夜をしたような気分だ。
聞書とは、話し手のことばを書き記して文章にまとめる作業だが、受けとめる書き手が対象者の思いをじぶんのなかにとりこみ、話し手の息づかいを再構成させる技法が求められる。語り手のことばを切りとるさい、なにをいちばん重要として書き残すのか、聞き手によって差異が生じやすい。
「……すっげぇ疲れた……」
亭主の指導のもと、初めて聞書に挑戦した螢介は、体力や気力が極端に消耗した。話し手の声を慎重に聞きとるさい、思いに同調する必要があるため、生身へ負担がかかる。相手の思いが強ければなおのこと、耳をかたむけるときは、注意をはらわなければならない。聞書によって、精神に破綻を来すおそれもあった。
螢介は、浴槽の縁に頭をのせ、いつしかまぶたを閉じていた。座敷から聞こえてくる声にしたがって筆を発したが、じぶんが料紙になにを書いたのか思いだせない。ただ、蛇ということばに、腕の力はぬけ落ちた。……蛇になる……? だれが? そう聞こえたのは、気のせいか?
「いつまで寝ている」
「……え?」
起きろと云われ、螢介は目を覚ました。湯船で眠ってしまい、炎估に脱衣所までひきあげられていた。ジャージを着せてある。炎估が、さくや亭から持ってきたもので、螢介の意識がないうちに着がえさせてあった。……まえにも、似たようなことがあったな。あのときは、ネコに、着せてもらったンだっけ。……うん?
「炎估は、おれのウロコがほしくないのか?」
眠っている間に剥がすことはできたはずだ。しかも、螢介は全裸だった。無防備な裏庭には目もくれず、螢介にジャージを着せた炎估は、腕組みをして眉を吊りあげた。十翼がその気になれば、螢介がどんなに抵抗しても奪いとれる。持ち主の状態にかかわらず、いつでもウロコを手にいれることができるのだ。愚問だと云われるまえに、「先生は?」と質問を変えた。
〘つづく〙
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