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スーツの下の化けの皮/二幕
第85話
しおりを挟む姫季を脱がせた最初の男は、石津だった。それはあくまで、絵のモデルとして必要な過程につき、性交渉が目的ではない。しかし、ふたりは肉体関係へと発展している。思うに、姫季が受け身である性質を見ぬいた石津は、望まれるかたちで抱き合ったにちがいない。幸田自身も、姫季の魅力はテキスタイルデザイナーとしての確固たる素質と、どこか不安定な心情を併せもつアンバラス加減ではないかと推察している。
「……幸田さん」
今もなお、不安そうな表情でこちらを見つめる姫季に、幸田の胸は少し苦しくなった。誰かの支えがなければ、姫季は、かんたんに倒れてしまう。そんな危うさを漂わせる存在感は、本人の意思とは無関係である。彼の身に起きた過去の苦い出来事は潜在意識にあり、ふとした瞬間に表面化するのだろう。幸田は、どこまでも姫季を甘やかしてやりたい気持ちになるが、それでは、社会人としての教訓に欠ける。世の中で生活を送る多くの人々は、辛抱の連続である。なにもかも、思いどおりに生きることは難しい。そのため、個人の限界を知り、また、足りない部分を補えるパートナーにめぐり逢い、助け合うことができたならば、それは幸運な人生だといえる。
「姫季くん」
身なりを整えた幸田は、自分のために用意されたスーツの素材を見つめ、くすッと笑った。姫季の頭の中には、いつも恋人の姿がある。少なくとも、スーツが完成するまでの間、袖を通す人物を強く意識するはずだ。なにより、幸田よりも姫季のほうが、躰のサイズに詳しい。もはや、互いに隠すものなどない。こうして信頼関係を築けたのは、幸田にとっても、幸いな出来事だった。
「……おれ、石津さんと逢って話す。……おれが好きな人は幸田さんだから、いつまでも引きずっていたくない」
姫季は、勇気をもって告げる。幸田が沈黙を保つことで、考えをめぐらせる猶予が与えられた。
「なにも、きみひとりで解決しようとしなくていいんだ。これは、ふたりの問題にしよう」
「……でも、あなたを巻き込みたくない」
「とっくに巻き込まれているから気にするな」
「え?」
「俺も、きみが大事なんだ。過去に悩むより、未来に目を向けようか」
「幸田さん……」
姫季は、思わず幸田の胸にしがみついた。すると、力強い心音を耳に捉えることができた。
✰つづく
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