ジョセフによる散文『グレリオ辺境伯と追放令息』

み馬下諒

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きびしい始まり

第10話

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 身長はリツェルとかわらないが、やけに腕力のある宿屋の息子は、鼻息を荒くして胴体にまたがってきた。

「やめろ! おれにさわるな……!」

「おとなしくしろよ。どうせ、いやがるのも演技なんだろ? 性奴隷のくせに、客を拒んでどうするんだ」

「ちがう、おれは貴族だ!」

「うそをつくな。シュミーズに裸足はだしで世間をうろつく貴族令息なんて、どこにいるんだよ」

 女主人の息子は、リツェルの細い首を軽く絞めてくる。本気ではないようだが、指さきが皮膚に食い込み、息がうまくできない。タドゥザのもとから逃げてきた矢先、こんな扱いを受けるとは、怒りさえこみあげた。裂いたシャツの胸もとをさぐられ、「おれに、さわるなぁ!」と大声をあげた。さいわい、足は動く。思いきり相手を蹴りつけて宿屋を飛びだすリツェルは、ふたたび全力で走った。

「はぁっ、はぁっ、……おれは貴族だ。性奴隷なんかじゃない!」

 かろうじて残っていたシャツのボタンを掛けたが、素足すあしに裸足という恰好は、やはり誤解をまねきやすい。どこかで服を手にいれる必要があったが、現在は無一文につき、むずかしい状況だ。

「どこに行けばいい……? おれは、これからどこに向かえばいいんだ……?」

 暗い夜道を走り抜け、いつのまにか森へ迷いこんだリツェルは、なつかしい故郷の景色を思い浮かべ、涙がこぼれそうになった。今となっては、アルベリク家に帰ることはできない。余計な面倒と迷惑をかけるだけである。さらに、イルシュタット州はひろい。もっと遠くまで逃げなければ、タドゥザの追っ手に見つかるかもしれない。

「はぁっ、はぁっ、……うっ!」

 足の裏に鋭い痛みがあった。なにかとがったものを踏みつけ、血が流れる。痛みに耐えて森のなかを歩くリツェルは、野生動物の鳴き声を聞いた。

「まさか、肉食獣か……?」

 人間の次は夜行性の動物に襲われる想像をして、ゾッとなる。なるべく早く道路へでたほうがいい。片足を引きずりながら、ひと晩じゅう歩きつづけた。太陽が東の空にぼるころ、ようやく街道を見つけたが、いきなり複数の野盗に囲まれた。

「なんでぇ、こいつ。汚ねぇな。……でも、よく見るときれいな顔をしてやがる。さては、どこからか逃げてきた奴隷か?」

「へっへっへ、そりゃいい。ちょうど発散したかったところだ。おい野郎ども。こいつをエサにして愉しもうぜ!」

 背後から腕をつかまれて地面へ押し倒されたリツェルは、「ふざけんな!」と叫び、力のかぎり抵抗した。突きだしたこぶしが野盗の顔に命中し、ひとりが吹っ飛ぶと、数人で襲いかかってきた。体力的に余裕もなければ方向感覚もないが、とにかく走って逃げた。

 川べりの遊歩道へたどりついたとき、太陽の光を反射する水面みなもがまぶしくて、無意識に顔をそむけた。リツェルは川の水で咽喉のどを潤すと、少しだけ足をとめ、上流へ向かって歩いた。ブラウバッハ渓谷の川沿いには貴族の居住群が建造されているため、なるべく避けたほうが無難だと判断した。途中にひろがるぶどう畑にしのびこみ、まだ熟していない実をかじって空腹をごまかし、丸三日かけてイルシュタット州から脱出した。そのころにはもう頭はクラクラとして、足取りも不安定だった。

 セドリックの不注意により、タドゥザ伯爵のもとから逃げだしたリツェルだが、すぐさま捜索部隊が出動した。とはいえ、万が一見つかったとしても、リツェルの身柄みがらを確保するためには、地方長官への書類提出と審議による許可が必須となる。もはや、タドゥザの権力がおよばない地域をさまよう青年の追跡は、卑怯な手を使わないかぎり、むずかしいと思われた。

 日が暮れると、雨が降りだした。躰のあちこちが痛むリツェルは、自分でもどこへ向かっているのかわからなかった。ただ、足をとめてはいけない気がした。しかし、ついに意識が朦朧として、その場に倒れた。


《つづく》
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