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〘80〙無理難題
しおりを挟む「ない。」と、ハルチカ。
「ないのか。」と、ヒシクラ。
「ぜったい、ない。」と、ハルチカ。
「ああ、ないな。」と、ヒシクラ。
漫才ではなく、両者は真剣に話し合っていた。どうあっても垢抜けないハルチカに、ヒシクラはキリコを呼びとめ、誘惑の手本を披露してもらったが、同じことをやれとは云えなかった。ハルチカの愛嬌に魅力を感じる者は多いが、性的な色香を匂わせるには、生まれついての性質や、才能が問われる。
「参考には、できそうか?」
「参考にしたら失敗すると思う。……キリコは、やっぱりすごいね。哥さんの手ほどきを受けたなんて、信じられないや。」
「キリコも、最初から完璧だったわけじゃないぞ。おまえさんほど貧相な見た目ではなかったが、家庭環境に問題があってな。……アカラギいわく、夜鷹坂にくるまえから、肛交の経験はあったようだ。」
「……それって、」
相手は誰なの、と云いかけて口を噤むハルチカは、浅ましく哀れな欲望の犠牲者となったキリコを想像した。青い顔をして押し黙るハルチカに、ヒシクラは溜め息を吐いた。
「おまえさんは、ラギの性教育を受けるまえは、童貞だったろう。否、処女といったほうが、わかりやすいか? じぶんの持ちものをどう使おうと勝手だが、さいわい、おまえの貞操は守られたわけだ。」
「……守られた?」
「ちがうのか、」
ヒシクラは手を動かしながら会話に応じていたが、書き物をやめ、神妙な顔でハルチカを見据えた。
「相手にかぎらず、初夜ってのは鮮烈な記憶として残るものだ。アカラギとの性交は、不快だったか?」
「あ、あのときは、おれも突然のことすぎて、驚いて……、」
「ただの下働きに、ラギが親身に世話をする謂れがあるとすれば、適齢になったら、性教育を開始するためだ。おまえは、最初から男娼になる覚悟をもって、夜鷹坂に足を踏み入れたはずだ。ちがうか。」
「それは、ちがわないけど……。ダンナに拾われたときも、哥さんとの初夜も、よく思いだせないよ。突然のことすぎて、なにが起きたのか、今でも夢みたいな気分になる……。初日のお披露目で、ダンナに抱かれたときのほうが、はっきり憶えてるよ。……すごく怖くて緊張した、」
「ふむ、タカムラとのほうが強烈だったか。そうとも考えられるな。……まあ、ラギとの性通があるかぎり、おまえさんは毀れそうもないから、そこらへんの塩梅は、うまく作用してるようにみえるぜ。」
ただし、後悔してからでは遅い。あらゆる意味で経験が浅いハルチカは、突発的な出来事に対処する判断力が乏しいため、端的な思考におよんだ挙句、安易な行動に走りやすい。アカラギいわく、勝手に死ぬ(自滅する)とは、ハルチカの欠点ではなく、周囲が配慮すべき事柄だった。
「……哥さんだけじゃない。」
ポツリと、ハルチカはつぶやく。
「ここにきて、しんどいことも色々あるけれど、ダンナには生き方を変えてもらったし、おなかいっぱい食べられるし、哥さんの存在は、ありがたいと思ってる。……ヒシクラさんだって、きらいじゃない。」
「そこは好きって云えよ。」
「え?」
「愛の告白なら、はっきり云わないと伝わらないぜ。」
「誰が……!」
ヒシクラは、アカラギの次に好きな男である。ごく自然に芽生えた感情ではなく、交流を経て、互いを意識する間柄になった。ヒシクラに対して素直になれないハルチカは自己矛盾に陥ったが、タカムラの威圧的な態度や、ヒシクラの包容力、アカラギの気遣いとやさしさが、悩ましく感じた。
✓つづく
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