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13.こころ
しおりを挟む大切な人に、いちばん大切な人に『好き』だと言われることが、これほどしあわせなことだとは思わなかった。
優しくされて。温もりを分け合って。笑うと笑い返してくれる。
嬉しくて、切ないほどに嬉しくて――とてもしあわせな時間。
同時に、ほんのちょっと臆病になる。
終わらせてしまうのが、とても怖くなってしまった。
彼に近づく度に、距離が埋まる度に、欲が湧いてわがままになる。
このままわたしの限界が来るまで一緒にいたい。手を繋いだまま穏やかに目を瞑って終わりたい。
何もせず。しあわせな夢に留まるの。
できることなら、ずっと一緒に。
そんな欲張りなことを考えてしまったから、きっと罰が下ったのだ。
***
「ん……」
ジャラ、とどこかで聞き慣れた音で目が覚める。
目を開いても薄暗い場所に、まだ夜なのかと辺りを見渡してようやく自室ではないと気づいた。
冷たい石床。手足に嵌められた枷。壁の上部にある窓から光が差し込み、ああ悪い夢を見ているのだと思った。
ここは、かつてわたしがいた場所だ。
記憶がはじまった場所――『聖女候補』を収容する地下牢。
「起きたか」
声のする方へ、石床に転がりながらぼんやりと顔を向ける。
鉄格子の向こうから、シド司教が鬱然とした瞳でわたしを見ていた。
未だ状況が掴めないわたしに、彼はため息を零すと眼鏡を持ち上げながら名を呼ぶ。
「――エレノアか。女神の名とは随分大それた名前を貰ったな」
違う。これは夢じゃない。
徐々に覚醒していく意識で、シド司教がなぜわたしの名を知っているのか考える。
「ローウェンになにしたの……!」
身体を起こし、人形であることすら忘れシド司教へと詰め寄った。
鎖の音が地下牢に反響する。
鉄格子を掴み険しい表情をするわたしを、冷ややかに見下ろしながら彼は答えた。
「牢にぶち込んだだけだ。まあ、数日後にはネズミ共の餌になってるかもしれんがな」
「出して! ローウェンは何もしてない!」
「いいや、したさ」
シド司教の目がすっと細まる。
わたしの胸を指差し、忌々しげに言い放った。
「お前に心を与えた」
ぞくり、と背筋が凍る。
シド司教の目はひどく憎悪と苦痛に満ちていて、目の下のクマがそれを増長しているように見えた。
鉄サビだらけの鉄格子をぎゅっと握り、首を振る。
「違う、わたしが勝手に……!」
「『心』とは何か、考えたことはあるか?」
シド司教はわたしの言葉を遮り、よく分からない問いかけをしてきた。
答えに窮する様子を鼻で笑うと、わたしに背を向ける。
「精神的なもの、意思、感情。または心臓の代名詞として用いられることもある。だが僕は思うんだ。『心』の大元とは記憶にあると」
「……?」
「経験、知識が意思を生み出し、体験が感情を作る。ならばそれを失えば、心などあっけなく消える――そう思わないか。次代の聖女」
ドクドクと、鼓動が早まる。
ローウェンの顔が浮かぶ。わたしに多くを与えてくれた人。
逆を言えば。
わたしはローウェンが与えたものしか持っていない。
もしそれが消えたら、わたしには何も残らない。ただ空虚であった自分に戻る。何も知らず、何も得ようとせず、何もしないただの人形の自分に。
「待って……」
シド司教は、人形に心があるのが許せない。だからそれを消そうとしているんだ。
震える口で懇願した。それだけはやめて、と。
彼は懐から無色な石を取り出す。
石の表面には見たこともない紋様が刻印されていた。
「これには失われた精神干渉魔法が刻まれている。使用するには莫大な魔力、複雑な制御が必要だが……僕なら可能だ」
「お願い、シド司教……やめ、やめて……ぜんぶ話します。ほんとうのこと、全部話すから……だからそれだけは、!」
牢から距離を取り、シド司教はわたしへ向き直る。
「――その抵抗が、君に不要なものを持ってしまった証拠だ」
石がシド司教の手のひらで小刻みに振動した後、宙に浮き上がった。
彼の指が、縦に一線。横に一線動く。
途端、わたしの視界が真っ白になるほど、紋様部分が強く発光した。
「っ、!」
光に包まれ、なにも見えない。
右に左に視線を動かしても、真っ白の世界がどこまでも続いているだけだ。
「シド司教……?」
恐る恐る彼の名を呼ぶが、返事がない。
鉄格子があった部分に手を伸ばすが、何も掴めない。
こわい。
言い知れない恐怖が迫り上がってくる。
「一体なにが……」
ふと。
どこまでも広がる真っ白の世界に、ぽつんと影が見えた。
足を動かす。近づく距離に小走りになる。駆け寄る先には、会いたくて会いたくてたまらなかったローウェンがいた。
「ローウェン! ……ローウェン!」
愛おしい人の名を叫ぶ。
ローウェンは、見慣れたベッドの側で『わたし』の手を取り微笑んでいた。
『好きだよ、エレノア』
ああ、とても嬉しかった気持ちがぶり返す。
心がいちばん満たされたのを思い返す。
大好きな人に、好きだと言われた、わたしの大切な大切な思い出。
ずっと交わしたかった口付けをして、本当はそのままもっと深くまで繋がりたかったけれど。でもローウェンがとても優しく笑ってくれたから、それでもう十分だと思った。
突如、ローウェンが音も立てず、ふわっと煙のように消えてしまう。
慌てて手を伸ばそうとするが、足元の『白』が崩れて、底の見えない黒が現れ、その先へ行くのを阻んだ。
後退るわたしの後ろから、今度は違うローウェンが現れる。
『できるわけないだろ! こいつは俺にとって妹みたいなもんなんだ!』
豪華なベッドの上で、わたしに覆いかぶさりながら聖女の命令に抗うローウェンが、そう叫んだ。
男女の営みに関しては無知だったけれど、ローウェンにならどんなことをされたって大丈夫だと、身を委ねていた。
でも彼に『妹のよう』と言われ、少し心が軋んだのを憶えている。
気持ちを返して欲しかったわけではない。ローウェンにも同じように想って欲しかったわけでは、決してなかったけれど。
――でも、ローウェンに女の子として大切に想われる人はいいなあ、と心のどこかで羨望した。
目の前の景色が、揺らぐ。
「あ……消えちゃう」
ローウェンがふわり、と霧散し、景色に同化する。
ベッドがあった場所は昏い昏い闇の中へ崩れ落ち、白い世界が崩壊していく。
じわりとインクを垂らしたように、黒が侵食していくのが見えた。
逃げないと。
踵を返し、白いところを目指して走る。走った先にはローウェンがいた。
『まあ、名前は大事なモンだしな。いつか大切な人ができたら名付けてもらえ』
大切な人、がよく分からないけれど。
いつかローウェンにわたしだけの名前で呼んでもらえたら嬉しいな、と漠然と思った。
彼の名前を呼ぶと、胸がポカポカ温かくなるから。
ローウェンにもわたしを呼んだとき、そうなってもらいたいなと思った。
消える。消える。
跡形もなく、ふわふわ霧のように無くなる。ガラガラ足元が崩れて、黒が白を飲み込んでいく。
落ちないように気をつけて進むと、目の前に白い人形をぎゅうっと抱きしめるローウェンが現れた。
『怖かったろ』
大司教様を殴り飛ばした彼は、『声』に抗う人形を大事そうに胸に抱えている。
人形はポロポロ涙を零していた。自分でもなぜ泣くのか理解できない様子で、ただ抱きしめられていた。
とても温かったのを、憶えている。
2つの影が、ゆらゆらと揺らめいて消えていく。
わたしはそれを黙したまま見送ると、広がる黒を見渡した。いよいよ白い部分が少なくなってきた。
どこへ向かっているのか、どうして歩いているのか分からない。
それでも歩ける場所を探して進むうちに。
迫ってくる黒から逃げるうちに。
もうわたしの立つところにしか、白い地面が残っていないことに気づいた。
目の前では、見知らぬ男が人形の頭を撫でている。
『いっぱい食って大きくなれよ、チビ!』
人間は、笑顔でそう言っていた。
わたしは光の無い目で見上げる。どうしてわたしの頭を撫でたのだろう。どうして人間のように接するのだろう。理解不能の行動だ。
聞いてみたいけれど、許可がないので口を開けない。
足場が崩れる。
最後の白に、亀裂が走る。
『いつか――……』
何かとても大切なことが、手からすり抜けた気がする。それも数秒後にはどうでもよくなった。
人間が、煙みたいにモヤモヤ揺れて、ふわりと消える。
それを合図に、わたしは黒い闇の中に落ちた。
***
無色だった石は乳白色に変わり、紋様から光が失われる。
宙から落下するそれを乱雑に手で受け止め、牢の中で倒れたまま動かない人形を見下ろした。
端で見守っていた同僚の一人が、戸惑いがちに声をかけてくる。
「シド司教、記憶消去は……」
「成功だ。事前に話した通り経過観察した後、検査室へ移せ。異常が見られなければ塔に戻す」
踵を返そうとした足を止め、ああ、と思い出し同僚へ問うた。
「あの馬鹿な男の身辺調査はどうだ?」
「はい。すでにあらかた調べてあります。ローウェン……彼は脱走した忌み子でした。行き倒れていたところを聖道騎士団魔獣討伐隊に拾われ、縁故で騎士団に入団。整備係に配属され、聖女護衛騎士へ昇格。人物関係すべて洗いましたが、情報漏洩は無さそうです。それと……」
言い淀む彼に、「なんだ」と端的に告げ先を促す。
「胸に隷属の証がありました。聖女が刻んだようです」
はあ、と深い溜め息がこぼれた。
魔法の使用を教皇によって禁じられている以上、隷属を通して命令をすることはできないが、逆を言えば解除することもできない。
それを刻んだ主人が死ぬか、刻まれた奴隷側が死ぬか、主人側が契約を解除するか――融通の効かない拘束魔法であるが故に、奴隷制度が遠い昔に失われた際に自然淘汰された魔法だというのに、厄介な。
もはや昔より魔力も薄まってきた昨今は、使える者などそういない。
「教皇猊下を通して、聖女に解除を――……」
いや。
言いかけて、はたと止める。
解除させるよりも維持させた方がいいだろう。猛獣は飼い馴らせばいい。僕ならば、それが可能だ。
隷属の証を上書きする。どうせ聖女は有効に使えないのだから、土台を利用して上に新たな証を被せてしまえばいい。
あの愚かな男には、『予備の生贄』として生かしておくよりも、自分がしでかした事の顛末を見届けさせる方がよほどいいだろう。
ふ、と小さく嗤う。
「主人変更をする。あいつがいる牢へ案内してくれ」
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