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畜生道
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あの日、あの瞬間から俺は人道から外れ、獣のような欲望を覚えてしまった。実の妹に対して欲情する異常者となり果てたのだ。
桜が散り始めた暖かい春の日。五歳年下の妹・由里香が婚約をした。
この婚約は、妹の意思とは関係なく父が勝手に決めたものだった。父いわく、「どうせ将来嫁いでしまい、寂しい思いをするのだとわかっているなら、せめて自分の気に入った男に娘をやりたい」そうだ。
そんな父に対して由里香は反抗した。専門学生になったばかりの妹は、勝手に将来の夫を決められたショックで、わんわん大泣きをして嫌だ嫌だと訴えている。その姿に哀れみを覚えた。
理不尽な婚約に対して悲しみを露わにしている妹を気の毒に感じた俺は、妹の肩を持った。
「なんで勝手に決めちゃうんだよ。由里香が可哀想だろ」
長男である俺の言葉にも、父は耳を貸さなかった。なんて頑固で身勝手な男なんだ。
母は既に他界していて、由里香には俺しか味方がいない状況だ。叔母や叔父は存命だが疎遠だし、助けを請うのは難しかった。
結局、由里香の婚約は決定的なものとなり、由里香は好きでもない男と将来結婚する事となってしまった――はずだった。
父親が勝手に決めた相手だという理由で、由里香は婚約者を嫌っていた。だが、それは最初のうちだけだった。
婚約者との接触を重ねるうちに、その気持ちに変化が生じ始めたようなのだ。
婚約から約三カ月後。
由里香は婚約者――名を坂田藤麻という――に会えるのを楽しみにしているとしか思えない素振りを見せるようになっていた。化粧や服、髪にも由里香の感情が滲み出ている。それは、婚約なんて嫌だ嫌だと騒いでいた頃がまるで嘘であったかのような変わりようだった。
その頃からだ。自分の中に、言葉に出来ない不快感が渦巻くようになった。
同時に、坂田藤麻に対する猛烈な嫌悪感が湧き始めた。由里香が坂田藤麻の話題を出す度に苛立ってしまう。会ったこともない坂田藤麻を殴りつけてやりたくなるくらいにだ。
それに耐えきれなくなったある日、俺は由里香に言った。
「悪い。坂田藤麻の話はしないでくれないか」
俺の言葉に由里香は瞠目した。当然の反応だ。婚約者の話をしないで欲しいだなんて、坂田藤麻のことが気に入らないと言っているのと同義なのだから。
「どうして? お兄ちゃんは坂田さんと会ったこともないのに……坂田さんの何が気に入らないの?」
由里香からの質問に、俺は答えられなかった。自分でもはっきりとした理由がわからなかったからだ。
「理由はわからない。でも、お前の口から坂田藤麻の話題が出ると無性に苛つく」
それを聞いた由里香は、なぜか微笑を浮かべながら俺を見た。
「やだ。お兄ちゃんったら、私が坂田さんの話ばかりするから嫉妬してるの?」
冗談めいた口調で喋る由里香をよそに、俺は電流が駆け抜けていったような感覚に囚われていた。――そうだ。これは嫉妬だ。容易に妹の心を奪っていった坂田に対する妬みだ。
「将来はお兄ちゃんのお嫁さんになりたいなあ」
幼い時分にそう言って笑っていた妹は、いつの間にか心身共に成長し、気が付けば立派な女になっていた。そのことを坂田藤麻の出現によって気づかされるなんて。
他の男に嫉妬するほどに、妹を愛しく思っていたことを知る羽目になるなんて。俺はなんて愚かな男なんだ。
その日から俺の苦悩は始まった。専門学生の実妹を女として見るようになってしまったのだ。
今までなんとも思っていなかった妹の身体の線が肉感的に感じられて、胸や尻に目が行ってしまう。なんということだ。
何度逸らしても、自然と両目は妹へと向いてしまう。――異常だ。そうとしか言えない。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
見られていることに気付いた由里香から声を掛けられて、はっとする。ああ、くそっ。
「いや、なんでもない」
そう言って、ごまかすことしか出来なかった。
それから、二年の月日が過ぎた。由里香の結婚まであと三ヶ月しかない。
もうその頃には、俺は妹との性行為を妄想して自慰が出来るくらいには病んでいた。
俺が由里香への欲望を深めていったのと比例するように、妹は坂田藤麻への愛を深めていったようだった。その証拠にいつからかは忘れたが、ヤツから貰ったらしき指輪を左手の薬指にはめるようになったのだ。
俺はその指輪が視界に入る度に、坂田藤麻への嫉妬が湧き上がった。坂田藤麻などこの世からいなくなってしまえばいいのに。そう思うくらい、俺はヤツを憎んでいた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
居間のソファに座ってぼーっとしていた俺に対し、隣に座ってテレビを観ていた由里香が声を掛けてきた。気が付けば、手に持ったマグカップの中のコーヒーがすっかりぬるくなってしまっていた。
「……ああ、大丈夫だ」
本当は少しも大丈夫ではなかった。頭の中は由里香への執着と、坂田藤麻への嫉妬でぐちゃぐちゃだ。由里香、由里香、由里香。どうして由里香は嫁いでしまうんだ。どうして坂田藤麻を好きになってしまったんだ!
苛々する。頭に血が昇っていくのがはっきりとわかる。
苛立ちが頂点に達した瞬間、俺ははっとした。自分が何を望んでいるのかを、唐突に自覚してしまったのだ。
由里香と結ばれたい。どこの馬の骨とも知れない相手に由里香を奪われるくらいならば、妹を自分のものにしてしまいたい。
そう思った途端、口の両端が上がるのが明確にわかった。ああ。苦しみから開放されるための答えは、こんなにも近くに転がっていたんだ。
「由里香」
俺はマグカップをテーブルの上へ置きながら、いつも以上に優しい声で妹の名前を呼んだ。まるで野良猫を招き寄せる時のように。
そうして頼りなげな撫で肩に手を伸ばし、あっという間にソファという地獄へと沈めたのだ。
ああ、すべてが終わり、新しい生活が始まる。さようなら、坂田藤麻。
桜が散り始めた暖かい春の日。五歳年下の妹・由里香が婚約をした。
この婚約は、妹の意思とは関係なく父が勝手に決めたものだった。父いわく、「どうせ将来嫁いでしまい、寂しい思いをするのだとわかっているなら、せめて自分の気に入った男に娘をやりたい」そうだ。
そんな父に対して由里香は反抗した。専門学生になったばかりの妹は、勝手に将来の夫を決められたショックで、わんわん大泣きをして嫌だ嫌だと訴えている。その姿に哀れみを覚えた。
理不尽な婚約に対して悲しみを露わにしている妹を気の毒に感じた俺は、妹の肩を持った。
「なんで勝手に決めちゃうんだよ。由里香が可哀想だろ」
長男である俺の言葉にも、父は耳を貸さなかった。なんて頑固で身勝手な男なんだ。
母は既に他界していて、由里香には俺しか味方がいない状況だ。叔母や叔父は存命だが疎遠だし、助けを請うのは難しかった。
結局、由里香の婚約は決定的なものとなり、由里香は好きでもない男と将来結婚する事となってしまった――はずだった。
父親が勝手に決めた相手だという理由で、由里香は婚約者を嫌っていた。だが、それは最初のうちだけだった。
婚約者との接触を重ねるうちに、その気持ちに変化が生じ始めたようなのだ。
婚約から約三カ月後。
由里香は婚約者――名を坂田藤麻という――に会えるのを楽しみにしているとしか思えない素振りを見せるようになっていた。化粧や服、髪にも由里香の感情が滲み出ている。それは、婚約なんて嫌だ嫌だと騒いでいた頃がまるで嘘であったかのような変わりようだった。
その頃からだ。自分の中に、言葉に出来ない不快感が渦巻くようになった。
同時に、坂田藤麻に対する猛烈な嫌悪感が湧き始めた。由里香が坂田藤麻の話題を出す度に苛立ってしまう。会ったこともない坂田藤麻を殴りつけてやりたくなるくらいにだ。
それに耐えきれなくなったある日、俺は由里香に言った。
「悪い。坂田藤麻の話はしないでくれないか」
俺の言葉に由里香は瞠目した。当然の反応だ。婚約者の話をしないで欲しいだなんて、坂田藤麻のことが気に入らないと言っているのと同義なのだから。
「どうして? お兄ちゃんは坂田さんと会ったこともないのに……坂田さんの何が気に入らないの?」
由里香からの質問に、俺は答えられなかった。自分でもはっきりとした理由がわからなかったからだ。
「理由はわからない。でも、お前の口から坂田藤麻の話題が出ると無性に苛つく」
それを聞いた由里香は、なぜか微笑を浮かべながら俺を見た。
「やだ。お兄ちゃんったら、私が坂田さんの話ばかりするから嫉妬してるの?」
冗談めいた口調で喋る由里香をよそに、俺は電流が駆け抜けていったような感覚に囚われていた。――そうだ。これは嫉妬だ。容易に妹の心を奪っていった坂田に対する妬みだ。
「将来はお兄ちゃんのお嫁さんになりたいなあ」
幼い時分にそう言って笑っていた妹は、いつの間にか心身共に成長し、気が付けば立派な女になっていた。そのことを坂田藤麻の出現によって気づかされるなんて。
他の男に嫉妬するほどに、妹を愛しく思っていたことを知る羽目になるなんて。俺はなんて愚かな男なんだ。
その日から俺の苦悩は始まった。専門学生の実妹を女として見るようになってしまったのだ。
今までなんとも思っていなかった妹の身体の線が肉感的に感じられて、胸や尻に目が行ってしまう。なんということだ。
何度逸らしても、自然と両目は妹へと向いてしまう。――異常だ。そうとしか言えない。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
見られていることに気付いた由里香から声を掛けられて、はっとする。ああ、くそっ。
「いや、なんでもない」
そう言って、ごまかすことしか出来なかった。
それから、二年の月日が過ぎた。由里香の結婚まであと三ヶ月しかない。
もうその頃には、俺は妹との性行為を妄想して自慰が出来るくらいには病んでいた。
俺が由里香への欲望を深めていったのと比例するように、妹は坂田藤麻への愛を深めていったようだった。その証拠にいつからかは忘れたが、ヤツから貰ったらしき指輪を左手の薬指にはめるようになったのだ。
俺はその指輪が視界に入る度に、坂田藤麻への嫉妬が湧き上がった。坂田藤麻などこの世からいなくなってしまえばいいのに。そう思うくらい、俺はヤツを憎んでいた。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
居間のソファに座ってぼーっとしていた俺に対し、隣に座ってテレビを観ていた由里香が声を掛けてきた。気が付けば、手に持ったマグカップの中のコーヒーがすっかりぬるくなってしまっていた。
「……ああ、大丈夫だ」
本当は少しも大丈夫ではなかった。頭の中は由里香への執着と、坂田藤麻への嫉妬でぐちゃぐちゃだ。由里香、由里香、由里香。どうして由里香は嫁いでしまうんだ。どうして坂田藤麻を好きになってしまったんだ!
苛々する。頭に血が昇っていくのがはっきりとわかる。
苛立ちが頂点に達した瞬間、俺ははっとした。自分が何を望んでいるのかを、唐突に自覚してしまったのだ。
由里香と結ばれたい。どこの馬の骨とも知れない相手に由里香を奪われるくらいならば、妹を自分のものにしてしまいたい。
そう思った途端、口の両端が上がるのが明確にわかった。ああ。苦しみから開放されるための答えは、こんなにも近くに転がっていたんだ。
「由里香」
俺はマグカップをテーブルの上へ置きながら、いつも以上に優しい声で妹の名前を呼んだ。まるで野良猫を招き寄せる時のように。
そうして頼りなげな撫で肩に手を伸ばし、あっという間にソファという地獄へと沈めたのだ。
ああ、すべてが終わり、新しい生活が始まる。さようなら、坂田藤麻。
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