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広野に咲く花の色
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ローレッタは自室のバルコニーの手すりに両腕を乗せ、その上に顔を伏せた。途端に目頭が熱くなって、じわりと湧いた涙が膜のように碧眼を被う。
「どうしてなの……どうしてなの、ダドリー様」
誰に聞かせるつもりもない呟きが霧散した。どうしようもない悔しさがローレッタの胸中を占めて、その息苦しさで柳眉が寄る。
ローレッタの婚約者であるダドリー。現在十六歳の彼女より五つ年上の彼は、自国の同盟国であるアガパンサス王国の第一王子だ。その地位に相応しい教養と、生まれ持った美貌とを兼ね備えた麗しい青年である。
だが、彼には欠点があった。とにかく性格と口が悪いのだ。
ローレッタとの逢瀬の度にそれは発揮された。幾度心を傷付けられたのか、もはや彼女には分からない。
昨日だって、逢瀬のために着てきたお気に入りの赤いドレスに対して「まったく似合っていない。お前は鏡を見ないのか? そんな服は売り払って国庫金の足しにしろ」と言ってきたのだ。
「大嫌いだわ」
婚約を解消したいと思うのは何度目だろうか。近い将来、ダドリーと夫婦にならなければいけないのだと考えるだけで眩暈がする。
彼と婚約してからまだ一年しか経過していない。ならば、まだ最悪の未来から逃れる手立てはあるのではないか――。
ローレッタがそう考え始めたところで、彼女専属の侍女の一人であるバーバラの、入室の許可を求める声が聞こえてきた。
ローレッタはバルコニーから離れて部屋の中に戻ると、陰鬱な感情を隠さないまま返事をして、バーバラに入室の許可を出した。室内に入ってきたバーバラは、何やら厚紙製の大きな箱を抱えている。ローレッタは物憂げな表情のまま侍女に訊ねた。
「その箱は?」
「はい。こちらは先ほど届きました、ダドリー殿下から姫様への贈り物でございます」
予想外の返答にローレッタの碧い双眸が見開かれる。
実はダドリーと婚約してから今日に至るまで、彼女は贈り物など貰ったことがなかったのだ。
妹のミランダは婚約者から頻繁に花や服、アクセサリーなどを贈られているというのに。だからローレッタは、ミランダを妬ましく思うことが何度もあった。今はもう、妬ましく思うことに飽きてしまっていたが。
あのダドリーからの初めての贈り物。ローレッタは期待を抱かぬようにと己に言い聞かせながら、バーバラが箱に結んである大きな青いリボンを解いていく様子を見守った。数秒の後に箱が開かれて中身が露わになる。
中に入っていたのは、深いピンク色の楚々としたドレスだった。吃驚と共にローレッタがドレスを持ち上げると、ぱたと音を立てて手帳サイズの厚紙が落ちた。バーバラが早々と拾い上げる。それはメッセージカードだった。
“トラディスカンティア王国の姫君ローレッタ様へ。貴女には赤よりも広野に生きるジャノメエリカのような色が似合う。このドレスのような色だ。どうか参考までに。アガパンサス王国第一王子ダドリーより”
バーバラから手渡された厚紙。そこに書かれた美しい字に目を走らせながら、ローレッタは体温が徐々に上がっていくのを感じた。
ジャノメエリカは、彼女の自国であるトラディスカンティアのあちこちに群生する美しい花だ。寒さが近付いた頃に一斉に花開いて大地を覆う様は、見事に尽きる。寒気の中でも健気に咲く姿は生命力に溢れていて力強い。
ローレッタは、ダドリーと出会って間もない頃にしたデートのことを思い出した。それはトラディスカンティアの名所を見て回るという、自国の姫たるローレッタからしたら退屈にしか感じられない逢瀬だった。
同盟国の王子であり、何度もこの国に訪れる機会のあったダドリーもそれは同じだったようで、少しも楽しそうではなかったのを覚えている。
けれど、デートの最後に訪れたジャノメエリカが咲き乱れている広野にいた時だけは、ダドリーの表情が明らかに違っていた。とても穏やかで、優しい顔をしていたのだ。
もっとも、「ここは美しいな。お前よりもずっと綺麗だ」という言葉がすべてを台無しにしてしまったのだが。
ダドリーが美しいと称えた広野に咲く花の色。それがローレッタに似合うのだと、彼は思ってくれている。その事実が嬉しくないはずがなかった。
明日は大雨が降るのではないかと疑いながらも、ローレッタは婚約者からの贈り物を腕の中に閉じ込めた。
「どうしてなの……どうしてなの、ダドリー様」
誰に聞かせるつもりもない呟きが霧散した。どうしようもない悔しさがローレッタの胸中を占めて、その息苦しさで柳眉が寄る。
ローレッタの婚約者であるダドリー。現在十六歳の彼女より五つ年上の彼は、自国の同盟国であるアガパンサス王国の第一王子だ。その地位に相応しい教養と、生まれ持った美貌とを兼ね備えた麗しい青年である。
だが、彼には欠点があった。とにかく性格と口が悪いのだ。
ローレッタとの逢瀬の度にそれは発揮された。幾度心を傷付けられたのか、もはや彼女には分からない。
昨日だって、逢瀬のために着てきたお気に入りの赤いドレスに対して「まったく似合っていない。お前は鏡を見ないのか? そんな服は売り払って国庫金の足しにしろ」と言ってきたのだ。
「大嫌いだわ」
婚約を解消したいと思うのは何度目だろうか。近い将来、ダドリーと夫婦にならなければいけないのだと考えるだけで眩暈がする。
彼と婚約してからまだ一年しか経過していない。ならば、まだ最悪の未来から逃れる手立てはあるのではないか――。
ローレッタがそう考え始めたところで、彼女専属の侍女の一人であるバーバラの、入室の許可を求める声が聞こえてきた。
ローレッタはバルコニーから離れて部屋の中に戻ると、陰鬱な感情を隠さないまま返事をして、バーバラに入室の許可を出した。室内に入ってきたバーバラは、何やら厚紙製の大きな箱を抱えている。ローレッタは物憂げな表情のまま侍女に訊ねた。
「その箱は?」
「はい。こちらは先ほど届きました、ダドリー殿下から姫様への贈り物でございます」
予想外の返答にローレッタの碧い双眸が見開かれる。
実はダドリーと婚約してから今日に至るまで、彼女は贈り物など貰ったことがなかったのだ。
妹のミランダは婚約者から頻繁に花や服、アクセサリーなどを贈られているというのに。だからローレッタは、ミランダを妬ましく思うことが何度もあった。今はもう、妬ましく思うことに飽きてしまっていたが。
あのダドリーからの初めての贈り物。ローレッタは期待を抱かぬようにと己に言い聞かせながら、バーバラが箱に結んである大きな青いリボンを解いていく様子を見守った。数秒の後に箱が開かれて中身が露わになる。
中に入っていたのは、深いピンク色の楚々としたドレスだった。吃驚と共にローレッタがドレスを持ち上げると、ぱたと音を立てて手帳サイズの厚紙が落ちた。バーバラが早々と拾い上げる。それはメッセージカードだった。
“トラディスカンティア王国の姫君ローレッタ様へ。貴女には赤よりも広野に生きるジャノメエリカのような色が似合う。このドレスのような色だ。どうか参考までに。アガパンサス王国第一王子ダドリーより”
バーバラから手渡された厚紙。そこに書かれた美しい字に目を走らせながら、ローレッタは体温が徐々に上がっていくのを感じた。
ジャノメエリカは、彼女の自国であるトラディスカンティアのあちこちに群生する美しい花だ。寒さが近付いた頃に一斉に花開いて大地を覆う様は、見事に尽きる。寒気の中でも健気に咲く姿は生命力に溢れていて力強い。
ローレッタは、ダドリーと出会って間もない頃にしたデートのことを思い出した。それはトラディスカンティアの名所を見て回るという、自国の姫たるローレッタからしたら退屈にしか感じられない逢瀬だった。
同盟国の王子であり、何度もこの国に訪れる機会のあったダドリーもそれは同じだったようで、少しも楽しそうではなかったのを覚えている。
けれど、デートの最後に訪れたジャノメエリカが咲き乱れている広野にいた時だけは、ダドリーの表情が明らかに違っていた。とても穏やかで、優しい顔をしていたのだ。
もっとも、「ここは美しいな。お前よりもずっと綺麗だ」という言葉がすべてを台無しにしてしまったのだが。
ダドリーが美しいと称えた広野に咲く花の色。それがローレッタに似合うのだと、彼は思ってくれている。その事実が嬉しくないはずがなかった。
明日は大雨が降るのではないかと疑いながらも、ローレッタは婚約者からの贈り物を腕の中に閉じ込めた。
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