群青のしくみ

渚紗みかげ

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12.緑青と光也/2

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 ヘンな匂い、と呟く彼を、光也は知っている匂いのはずなのに、とくすりと笑った。知らない匂いではないはずだった。油の、どこかつんとする匂い。
「油絵具だよ」
「絵具、」
「僕らは慣れているけれど」
 美術部の倉庫には、これまで卒業していった先輩が置いていた絵が無造作に持ち込まれていた。他にも、大量の使いかけの油絵具、水彩絵の具、絵の具が固まって、ただの棒になってしまった絵筆、パレット、ナイフ、色々。油彩の道具を持っていない一年生は、自分で新しいものを買ってもよかったし、ここから好きなものを選んで勝手に持っていっても構わなかった。そのおかげで、この時期残っているのは粗悪なものばかりになってしまっているが。
「絵って……、どんな」
「どんなって。……見たことないの。あの子の絵」
「…………見えないんだよ、あそこからじゃ」
「違うな」
 は、とまた彼は怪訝な表情でこちらを見てくる。光也はふ、っと笑いながら、「見ようとしなかっただけでしょう」と、彼へ尋ねた。「見ようと思えばいつだって見られた。暇なときに美術室までやってくればいい。あそこの鍵はいつも開いてる。窓の外ではなく、内側に入って来ればよかったじゃないか。でも君はそれをしなかった。なぜ?」
「何でって……」
「理由のないものに無理に理由を探そうとしても、それはただ嘘をその場で吐くことにしかならない。興味がなかったんだ。そうだろう」
「………………そういうわけじゃ」
「じゃあ、どういうわけなんだい? ……まあいいよ。木立の絵だ。夏の匂いがするくらいの季節の」
「木立、」
「それに、人影がいくつか。……誰かはわからない。人がいる、ってわかるだけ。そういう寂しい絵」
 初耳、とその顔に書いてある。本当に見たことがなかったらしい。本当は違う。そんな絵なんてどこにもない。彼はわかった、と頷いて、あるはずのない絵を探し出す。光也も同じように、重ねられたカンヴァスの間に指を差し入れた。にちゃりと、べたついた絵の具が粘着質な音を立てる。まだ乾いていないうちに持ち込んだのだろう。
「……アンタは」
「光也」
「……光也は、……シ……眞夜の友達?」
「僕はそうだと思っているけれど、シンの方はどうかはわからないな。まあ、同類ではあるよ。……呼びづらいならいつものように呼ぶといい」
「…………。シンちゃん、どこの学校いくか知ってる?」
「知っているよ。でも、君には教えない」
「なんで」
「興味のない人間に教えたところでそれが何になるの。……君はシンとずっと一緒にいたのに、シンのこと何も知らない。興味がないから。シンもそれをわかってる。人の気持ちって、どちらかに傾いてしまったらダメなんだ」
「だめ、」
「そうだよ。同じだけ好きで、同じだけ嫌いじゃないと。偏っていけばいくほど、滑り落ちてく」
「…………何が、」
「心が」
 ぱらぱら、と窓の外を叩く軽い音。光也は顔を上げ、薄暗くなってしまった曇りガラスの向こうを見た。「君は、そうやって滑っていったものが、最後にどうなると思う」と、光也は尋ねた。随分歪んでしまった友人を一人、思い浮かべながら。
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