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 教室をやっと見つけ、夜船結人よふねゆいとはまだ騒がしく声が響く部屋の中にそっと入った。危ないところだった。大学内の教室をまだ覚えていないせいで、数分前まで別の教室にいたのだ。十分前になっても全く人が来ないのをおかしいと思い、校内案内図を見直して正解だった。
 教室の中は広く、中央を空けて、そのスペースを囲むようにイーゼルと椅子が並べられている。既に大体の席が埋まり、残っているのは今いるドア近くの後方の席と、奥のいくつかだけになっていた。
「うわ。もう埋まってる」
 結人の後からやってきた生徒二人が、奥の方いこ、と歩き出した。となれば、と、結人は教室に入ってすぐの後方に置かれたイーゼルの前に向かう。立方体の木製の椅子に荷物を一度置いたところで、若い女性の教師が教室に入ってきた。手には茶色い紙に包まれた画用紙の束がある。授業の開始時間には、まだ少しだけ早い。
「画用紙と画板配るわよ。座る場所を決めたら前に来て。何処でもいいわ、早い者勝ちね。画板は割れてるのもたまにあるから、見つけたら横に出しておいて。人数分以上あるはずだから」
 初めての授業のはずだったが、教師はそう言うと手前にいた何人かに声をかけた。おそらくは担当の学科にいる生徒なのだろう。一年次、基礎的な授業は学科を問わず必須の科目になっており、このデッサンの授業もその一つだった。
 教師の声を聴き、がたがたと椅子が動き出す。画用紙と画板を受け取るための列が出来上がっていった。教師は渡すのを生徒何人かに任せて、教室内を誰かを探すようにざっと見る。画用紙を配っていた男子生徒に、「雨海あまがいは?」と尋ねた。
「え? 先輩ですか?」
「今日のモデル頼んでるのよ。いつもの子が急に風邪ひいちゃって」
「見てないっすよ。携帯鳴らしたらどうっすか」
「繋がったためしある?」
「オレわかんないっす。まだ教えてもらってないんで」
「新歓の時に聞いておきなさいよ」
 まだかかるだろうしちょっと探してくるわ、と、ロングスカートを翻し、教師が教室を出ていく。その教師の足音が遠のいていくのを聞きながら、列の最後尾に結人も並んだ。
 配られた画用紙数枚と画板を手に、結人は決めた席に戻る。持ち物は鉛筆と練消しゴムと消しゴム、カッターのみと言われていた。しばらく使っていなかった道具だ。黒く汚れたペンケースから鉛筆をだすと、カラン、とデザインナイフが一緒に落ちてくる。からからと、カッターはそのまま床を転がっていく。椅子から立ち上がろうとしたところで、そのカッターを拾い上げる白い手が目に入った。
「――これ、きみの?」
 薄いブランケットを片手に、すらりとした黒髪の青年が結人にカッターを手渡してくる。驚く結人を前に、青年は一瞬、同じように目を見開いたが、すぐに何もなかったかのようににこりと笑い、結人の手のひらにカッターを一方的に手渡していった。青年はまっすぐに部屋の真ん中へ歩いていく。
「あ、雨海先輩。さっき先生が探しに行きましたけど。どこ行ってたんすか」
「どこって。まだだろ、授業。早く来ても意味ないし。それに、時間ぴったりだし」
 青年がそう答えた瞬間、スピーカーから始業のチャイムが短く鳴り響く。そのチャイムが鳴り終わった後、先ほど教室を出ていった教師が慌ただしく戻ってきた。教室にいる青年を見つけ、呆れたような顔をする。
「こら、雨海。アトリエまで探しに行ったじゃないの。五分前には来てなさいと言ったでしょう」
「あれ? そうでした?」
「……まあいいわ。先に授業の説明をするから、とりあえず君はその辺に座ってなさい」
「はーい」
 教師に気の抜けた返事をし、青年は教室の隅に並べられた椅子に腰かける。教室の中をざっと見まわし、そして結人の視線に気づくと、きょとん、と僅かに目を見開き、すぐににこりと目を細めて笑った。結人の方をじっと見つめ、くちびるを僅かに動かす。何と言っているのか読み取ろうとしたところで、ざわついた教室に声が響き渡った。
「――えー、では。全員、画板と画用紙はもらった? まだもらっていない人は前にあるから、後で取りに来て。この授業では主にデッサンを行います。デッサンをしたことがある人が殆どだとは思うけれど、マネジメントコースで、したことがないって子も中にはいますよね。そんな子が急に石膏を描いても楽しくはないと思うので……、今日は初めての授業ということもあるし、人物クロッキー中心に描いてもらおうと思います」
 雨海くん、と教師が隅に座っていた青年を呼ぶ。中央に一つだけ、ぽつんと椅子が置かれていた。青年はまっすぐにその椅子に向かい、腰を下ろす。
「脱ぎますか?」
 彼は教師にそう尋ね、そのままでいいわよ、とぴしゃりと言われて小さく笑った。はーい、と呑気な返事をする。前の方から、くすりと笑い声が上がる。青年の冗談を流し、教師が壁にかかった時計を見上げた。
「それじゃあ、丁度十時から。十五分書いて、五分休憩。ポーズを変えて三回繰り返したら、残りの時間でみんなの描いたものを見て、感想を言い合ったりします。初めてやる人は? 手をあげて。順番に回るから」
 ぱらぱらと、周りの何人かが手をあげる。結人は手をあげなかった。こちらをじっと見つめる青年の視線に気づく。その視線から逃げるように、結人は手元の画用紙へ目を落とした。少しだけコツを説明した後、でははじめ、と教師が静かに言う。教室内が静まり返った。
 さりさり、カリカリと鉛筆の音だけが響く。最初はただ、まっすぐ椅子に座っているだけのポーズだ。青年が着ているシャツは少し大きめのものだったが、その下の体躯が長く薄く、ただの一つも鍛えられていないことくらいは見て取れる。青年の視線は教室の奥の窓へ向けられていた。
 結人からは彼の横顔が綺麗に見える。長い睫毛、少し色素の薄い瞳、高い鼻筋、薄いくちびる。おそらく、今この教室にいる大半の人間が、彼に対して抱いている感想が、「綺麗」か、「整った顔の人」だろうな、と結人は思う。のど元の薄い皮膚が一部隆起していなければ、男にしては少しばかり長いの髪の所為で、きっと性別もすぐにはわからなかっただろう。
 気づくと、じっと彼を見つめたままで手を止めていた。十五分、と時計を見、慌てて鉛筆を動かす。細部を書くよりもまず全体の形から、と、結人はさっと、画用紙に彼の輪郭を描いた。瞬く間に最初の十五分が過ぎ、次の十五分、その次の十五分も過ぎて、気づけば講評に入っていた。次の授業からは石膏のデッサンを行う、と言われて、チャイムを待って解散になる。いくつかの指は鉛筆の芯で黒く染まっていた。
 がたがたと音を立て、昼食を取るために食堂へと駆けていく何人かを見送り、結人は人もまばらになってから、ようやく教室を出た。その背中に、「結人」と声がかかる。結人はその場で足を止めた。振り返ると、口元に笑みを浮かべながらひょろりとした青年が立っている。近くに並ぶと、知っていた頃よりいくらか背が伸びていた。少なくとも、想像よりは視線に差がない。
「お。ちゃんと止まった。無視されるかと思ったよ」
「……しようと思った」
「久しぶりなのに」
 ひどいな、と苦笑しながら、彼はそっと距離を詰めてくる。「で、この後時間ある?」と、青年――雨海光也は結人へ微笑み、元から答えなど知っていたという表情で、あるよな、と腕を取ってきた。
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