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ヘビースモーカーお姉さんが彼女を吸って禁煙する話
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白い煙を吸って、吐いて。大好きな人と肩を並べて。憧れていた光景に、喉の奥が熱くなって……咽せた。
「げほっ、ごほっ……」
「大丈夫? ほら、言わんこっちゃない」
煙草の煙で盛大に咽せた私を見て、樹里さんは笑う。
「……よく吸えますね、こんなの……」
「まあ、中学の時から吸ってるし……いや、嘘、なんでもない、聞かなかったことにして」
「聞いちゃいましたから、もう」
今日は私の二十歳の誕生日だった。
今隣にいる同じ軽音サークルの樹里さんは、ボーカル担当だというのに、一日三箱もの煙草を消費するヘビースモーカーだ。練習のない今日は、いつものように部室でダラダラしていたのだけど、今日が私の誕生日だということを知ると、お祝いをしようと言って、私を居酒屋に連れてきてくれた。
おつまみが美味しいと評判の個人経営の居酒屋に着いてみれば、今どき分煙のされていない店内だったけど、樹里さんが『吸わない人の前では吸わないことにしているから』などと言って外へ行こうとするので、つい『じゃあ、私も吸います』なんて言ってしまったのだった。
「まあ、真希も今日で二十歳だもんね。冒険してみたいお年頃か」
向かい側に座っていた彼女はそう言って、私の隣にすっと寄ってきて、煙草の吸い方を教えてくれる。
「ライターの使い方わかる?」
「さすがにそれくらいは、わかりますって」
吸いながらじゃないと火が点かないよ、とか、色々教わりながら、おっかなびっくり煙を吸い込んだ。その矢先のことだった。
「その様子じゃ、肺に入れるのはまだ無理そうね。どうする、まだ吸う?」
樹里さんは、盛大に咽せた私を笑いながらも、心配してくれている様子だった。
「いえ、いいです。もうやめときます」
「そうね、その方がいい」
そう言うと樹里さんはまた一本、煙草を取り出して火を点ける。まったく、こんなに吸って大丈夫なんだろうかと思う。お金とか、健康面とか。いろいろな面で。
私がそんなことを思っているあいだに、本日のメインの焼き鳥の盛り合わせと、お代わりの生ビールが届く。樹里さんは吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
「真希、焼き鳥は串から外す派?」
「私はそのままがいいです」
「奇遇だね、私も」
サークルの他のメンバーと来た時は、みんなとシェアするためにわざわざ串から外す人たちもいたけど、なんとなくそれは好きじゃなかった。だって、串から外したら、焼き鳥のアイデンティティが喪失してしまうんじゃないかと思うのだ。
「え、それが理由なの? 真希はまじめだねー」
大真面目に理由を言ったら、大笑いされた。私はそんなにおかしいことを言っただろうか。わからない。
「まあ、私と煙草みたいなもんかな、それじゃ」
「え、焼き鳥と串が、ですか?」
「そそ。私と煙草は切っても切れない関係ってとこだね」
「なるほど。そこまでですか……」
確かに、煙草を吸っている先輩の姿はかっこいい。どうかっこいいかと聞かれると描写するのはとても難しいのだけど、なんというか、絵になる、という感じなのだ。確かに樹里さんのアイデンティティが煙草だと言われると、納得してしまうかもしれないと思う。
「ところで、アイデンティティといえば、樹里さん、心理学のレポート出しました?」
「え、あ、なんだっけ、それ」
「週明けまでのやつなんですけど……。そんなんじゃ、またリテイクになっちゃいますよ」
「それはさすがに勘弁だな……これ以上留年するのはムリ」
「じゃあちゃんとやりましょうよ」
樹里さんは私の二歳上だけど、二年も留年しているから、私と同じ発達心理学Ⅰの授業を取っている。今学期の課題はフロイト、ピアジェ、エリクソンなどの発達理論を比較して、それぞれの違いや共通点などに着目してまとめる、というようなものだ。和訳本を使ってもいいとのことだったけど、一応しっかりと原典にあたらないといけないというので、なかなかヘビーな課題だった。
「真希、テキストって今持ってる?」
「あ、はい。タブレットに全部入ってますけど」
「さすが。……じゃあさ、今夜うちに泊まりにこない? それで、色々教えてよ」
「え、今からですか?」
「お願い! 頼むよー」
手を合わせて拝む仕草までするものだから、仕方ない。私は急遽、樹里さんの家にお泊まりすることになってしまった。
樹里さんの家は、居酒屋から歩いて十分ほどの距離にあった。これから勉強をしようというのに、なぜかコンビニで追加のお酒とおつまみを買っていくのだから、もうどうしようもない人だ。
「いやほら、ご褒美、用意しとかないとね」
「まあ確かに、それもそうですね」
樹里さんがおとなしく勉強する気になったというだけでも奇跡なのだから、多少のことには目をつむろう。
「あ、煙草買い忘れた」
「いいじゃないですか、後で。どうせコンビニ近いんだし」
「えー、アイデンティティがぁ……」
「はいはい、レポートやってからにしましょうね」
未練たらたらの樹里さんを引っ張って、彼女の住むアパートに向かう。オートロックもない木造アパートの二階で、女の人が一人で住むにはセキュリティとかが気になってしまいそうなものだけど、樹里さんはそういうことはあまり気にしないらしい。
「さて、やりましょう」
そう言って、タブレットの中のテキストを開く。テキストのPDFファイルには、既に私が重要そうなところに赤線を引いてあったから、とりあえずその辺りのキーワードを拾って読んでいけば、わりあい早く理解できるはずだった。
「仕方ない、やるか」
樹里さんはそう言うと、ノートパソコンを起動させる。なんとかレポートをやる気になったみたいだった。私は横で、樹里さんからの質問を受けつつ、部屋にあったバンドスコアを何冊か眺めて、暇をつぶしていた。
「とりあえず、大体読めた」
「え、もう読み終わったんですか? 早くないですか?」
「一応、アウトラインと大体の下書きはできたから、残りは明日にでも書き上げるよ。ありがとうね」
やっぱり、樹里さんは、変な人だ。真面目にやればすぐできちゃうくらい頭がいいのに、普段はどうしてこんなに不真面目なんだろうと思う。
「いやだってほら、ちょっとでも長く練習してたいじゃんね?」
私の疑問にはそう答えて、部屋に置いてあるギターに視線をやる。樹里さんは、歌も上手いけど、ギターも上手い。アイデンティティなんて言うなら、煙草よりもむしろこっちのほうがいいのに、なんて思うのだけど。
「防音じゃないから、歌えないのが難点だよね、ここは」
「そんな、学生の分際でそんなこと言ったらバチが当たりますよ」
「まあ、そうね。別にうちらは音大生ってわけでもないんだしね」
そんなことを話しながら、好きな音楽だとか、次のライブの話なんかでも盛り上がる。もういい加減夜も遅いし、お風呂を借りてそろそろ寝ようという雰囲気になっていた。
樹里さんのお布団を借りてゴロゴロしながら、ふと、思いついて訊いてみる。
「そういえば、樹里さんって付き合ってる人とか、いるんですか?」
「え、なにそれ、今更訊く?」
「いやだって、全然それっぽい話聞かないし。こんなに美人なのに」
「そうねえ、確かにねえ……」
まったく謙遜しないところは、さすがだ。
「あー、ちょっとベランダで煙草吸ってくるわ」
「え、そこで話逸らしちゃうんですか? ずるいですよ!」
窓を開けようとしたところで、つい引き留める。別に恋バナなんてどうでもよかったけれど、なんとなく一人にされるのは寂しかった。
「ダメですよ。今日それ、何本目ですか? ちょっとは健康に気を遣ってください。喉にもよくないですよ」
「うるさいなー。別に歌えるんだからいいでしょ、これくらい」
「そもそも、どうしてそんなに煙草、吸いたいんですか?」
「いや、だってほら、口寂しくなっちゃうから……」
そんなことを言う樹里さんは、ちょっとだけ恥ずかしそうにしているようにも見える。だからついつい、悪戯心が働いてしまう。
「やっぱり、口唇期なんですかねえ」
「え、は、はああ?」
さっきの課題の、フロイトの話で読んだから、さすがに何を言おうとしているのかはわかったらしい。今まで思いもしなかったのか、樹里さんは珍しく顔を赤らめていた。
「口寂しいなら、飴でも舐めたらいいのに」
「ほお。真希はそういうこと言っちゃうわけだ? 先輩に向かって」
「今更じゃないですか、そんなの」
私がそう言うと、樹里さんは急に真面目な顔になった。
「じゃあさ、そんなに言うなら……」
樹里さんは私の腕をつかんで、そのまま私を壁際へ追い詰める。
「代わりに、吸わせろよ」
そう言うと、私の唇に口づけた。有無を言わさないくらい強引な口調と、腕の力の強さに反して、柔らかい唇の中から私に入り込んでくる舌の動きは、すごく優しくて。
その心地よさに、思わず声が漏れた。
「んんっ……ふぅっ」
やっと唇を解放してくれたかと思うと、樹里さんは今度は私の首筋に舌を這わせてくる。
「なに、感じてんの」
「だって……いきなり、なんですか、これ」
形ばかりの抵抗を見せるけど、相手が樹里さんだから、好きな人だから、身体は熱くなるばかりだ。
樹里さんの舌はつめたくて、ぬるっとした感触と、首筋を吸われる感覚に、私の頭の働きはどんどん奪われていく。
「真希が悪いんだよ。こんな、一人暮らしの先輩の家へ、ノコノコ付いてくるから」
「ちょ、だって、樹里さんが泊まりに来てって言ったんじゃないですか」
そう抗議の声を上げるのだけど、首筋だけじゃなくて、今度は耳の中にまで舌を差し入れられて、さらにただでさえ蠱惑的な低音のボイスで囁かれたなら、息ができないくらい苦しくなってしまう。
「も……う、どんだけ、舐めるの好きなんですか」
「吸う方が、もっと好きだけどな」
そう言って、再び首筋を経由して今度は鎖骨へ、ゆっくり丁寧に丁寧に、焦らすように吸い付いてくる。まるで食事の後のデザートを楽しんでいるみたいに。
「ふふ。真希、可愛い」
「……ずるいです、こんな。私たち、付き合ってるわけでもないのに」
涙声で訴えると、樹里さんは急に動きを止める。
「じゃ、やめよっか」
「え……」
「寝よ、寝よ。おやすみ」
そんなことを言って、わざとらしく布団をかぶろうとする。既に点火された状態の身体を、このまま持て余して寝ろというのか。
悔しくて、苦しくて、涙が出そうになる。
「私は……樹里さんのこと、好きです……でも」
「でも?」
「付き合ってもないのに、こんなこといきなりされるのは、困ります」
「そっか。ごめん。……じゃあさ」
そう言うと、樹里さんは自分のかぶっていた布団を私にもかける。布団の中の暗い世界で、小さい子が仲良くかくれんぼするかのように、私と樹里さんは密着する。
「付き合おっか」
身体を密着させたまま、耳元でそう言われる。空気のたくさん混じった低音で。人の気も知らないで。
「いいですよ。じゃあその代わり……」
私は布団をはいで、自分から樹里さんにハグして言う。
「禁煙してください」
「……は、はい?」
「だから、私と付き合うなら、禁煙しましょう。はい、返事は?」
「……わかった。じゃあこれ、捨てるわ」
そう言うなり、樹里さんはポケットに入れていた煙草の箱を、まるごとゴミ箱に投げ入れる。
「え、早……」
私が驚いていると、樹里さんは言う。
「可愛い恋人の頼みだもんね。それに……」
樹里さんは再び私の首筋に触れながら言う。
「代わりに吸わせてくれるんでしょ?」
その微笑みは、今まで見た中で一番の妖艶なそれで。
「……はい」
顔を火照らせながら答えた私は、なすすべもなく、再び樹里さんの毒牙にかかってしまうのだった。
「ちょ、だめ、そこは、いきなり……」
「え、なんで? 吸わせてくれるって言ったよね?」
片手で胸の突起をいじられながら、もう片方は樹里さんの舌に弄ばれる。苦しくて苦しくて、もうダメって言っても、全然やめてくれない。
「まだ、全然足らないんだけど」
そう言いながら、ちゅ、と音を立てて吸ってくる。何度も何度もそこを執拗に責め立てられて、その度に、もう声を上げずにはいられない。
身体の奥からは、もうとろりとした液体が滲み出ていて、情けなく濡れたそこに、触れられたくてたまらなくなっていた。
「……こっち、触って欲しいの?」
今更気づいたかのようにそう言うけれど、樹里さんがわざとそうしているのは明らかだった。
すっかり準備のととのったそこに、樹里さんの指が優しく触れる。その瞬間、電撃が走るような快楽が突き抜ける。もう、我慢できない。
「樹里さん、私もう、ダメ……」
「仕方ない子だねぇ」
樹里さんは耳元でそう囁きながら、私のそこに指を差し入れる。
「弾いてあげるとしますか」
そんなことを言って動かす指使いは、器用すぎて嫌になるくらい。やっぱりさすが、ギターを弾くひとだ、なんてことを思う。そのことがこんなに憎らしく思うなんて、今まで思いもしなかった。
「それとも、歌う方がいい?」
さっきから耳元で声を出されるたびに、私がびくびくと反応していることなんてお見通しのようだった。耳に息を吹きかけられながら身体の中をかきまぜられて、ついに私の身体は大きく震えて、頭の中は真っ白になった。
「うう……もう、ずるいです」
呼吸を整えながらそう言う私に、樹里さんは何度も何度も口付ける。それがまた心地よくて、私は何回だって溶けてしまう。
「まだ、足りないから」
樹里さんもそう言って、何度だって私を求めてきたのだった。
結局その後、樹里さんは本当に煙草を一切吸わなくなってしまった。だけど、その代わり。
「真希。……ちょっと来て」
軽音サークルの練習中、ちょっとした休憩時間のたびにそう言って、私を外に連れだす樹里さん。
「樹里さん……またですか」
「だって仕方ないじゃん。口寂しくなっちゃったんだもん」
そう言って、私の唇を吸う。さすがに、その先まで吸おうとしてきたのは、全力で止めたけれど。
いつまで経っても口唇期の甘えん坊の恋人を、私は今日も愛しく思うのだった。
「げほっ、ごほっ……」
「大丈夫? ほら、言わんこっちゃない」
煙草の煙で盛大に咽せた私を見て、樹里さんは笑う。
「……よく吸えますね、こんなの……」
「まあ、中学の時から吸ってるし……いや、嘘、なんでもない、聞かなかったことにして」
「聞いちゃいましたから、もう」
今日は私の二十歳の誕生日だった。
今隣にいる同じ軽音サークルの樹里さんは、ボーカル担当だというのに、一日三箱もの煙草を消費するヘビースモーカーだ。練習のない今日は、いつものように部室でダラダラしていたのだけど、今日が私の誕生日だということを知ると、お祝いをしようと言って、私を居酒屋に連れてきてくれた。
おつまみが美味しいと評判の個人経営の居酒屋に着いてみれば、今どき分煙のされていない店内だったけど、樹里さんが『吸わない人の前では吸わないことにしているから』などと言って外へ行こうとするので、つい『じゃあ、私も吸います』なんて言ってしまったのだった。
「まあ、真希も今日で二十歳だもんね。冒険してみたいお年頃か」
向かい側に座っていた彼女はそう言って、私の隣にすっと寄ってきて、煙草の吸い方を教えてくれる。
「ライターの使い方わかる?」
「さすがにそれくらいは、わかりますって」
吸いながらじゃないと火が点かないよ、とか、色々教わりながら、おっかなびっくり煙を吸い込んだ。その矢先のことだった。
「その様子じゃ、肺に入れるのはまだ無理そうね。どうする、まだ吸う?」
樹里さんは、盛大に咽せた私を笑いながらも、心配してくれている様子だった。
「いえ、いいです。もうやめときます」
「そうね、その方がいい」
そう言うと樹里さんはまた一本、煙草を取り出して火を点ける。まったく、こんなに吸って大丈夫なんだろうかと思う。お金とか、健康面とか。いろいろな面で。
私がそんなことを思っているあいだに、本日のメインの焼き鳥の盛り合わせと、お代わりの生ビールが届く。樹里さんは吸い始めたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
「真希、焼き鳥は串から外す派?」
「私はそのままがいいです」
「奇遇だね、私も」
サークルの他のメンバーと来た時は、みんなとシェアするためにわざわざ串から外す人たちもいたけど、なんとなくそれは好きじゃなかった。だって、串から外したら、焼き鳥のアイデンティティが喪失してしまうんじゃないかと思うのだ。
「え、それが理由なの? 真希はまじめだねー」
大真面目に理由を言ったら、大笑いされた。私はそんなにおかしいことを言っただろうか。わからない。
「まあ、私と煙草みたいなもんかな、それじゃ」
「え、焼き鳥と串が、ですか?」
「そそ。私と煙草は切っても切れない関係ってとこだね」
「なるほど。そこまでですか……」
確かに、煙草を吸っている先輩の姿はかっこいい。どうかっこいいかと聞かれると描写するのはとても難しいのだけど、なんというか、絵になる、という感じなのだ。確かに樹里さんのアイデンティティが煙草だと言われると、納得してしまうかもしれないと思う。
「ところで、アイデンティティといえば、樹里さん、心理学のレポート出しました?」
「え、あ、なんだっけ、それ」
「週明けまでのやつなんですけど……。そんなんじゃ、またリテイクになっちゃいますよ」
「それはさすがに勘弁だな……これ以上留年するのはムリ」
「じゃあちゃんとやりましょうよ」
樹里さんは私の二歳上だけど、二年も留年しているから、私と同じ発達心理学Ⅰの授業を取っている。今学期の課題はフロイト、ピアジェ、エリクソンなどの発達理論を比較して、それぞれの違いや共通点などに着目してまとめる、というようなものだ。和訳本を使ってもいいとのことだったけど、一応しっかりと原典にあたらないといけないというので、なかなかヘビーな課題だった。
「真希、テキストって今持ってる?」
「あ、はい。タブレットに全部入ってますけど」
「さすが。……じゃあさ、今夜うちに泊まりにこない? それで、色々教えてよ」
「え、今からですか?」
「お願い! 頼むよー」
手を合わせて拝む仕草までするものだから、仕方ない。私は急遽、樹里さんの家にお泊まりすることになってしまった。
樹里さんの家は、居酒屋から歩いて十分ほどの距離にあった。これから勉強をしようというのに、なぜかコンビニで追加のお酒とおつまみを買っていくのだから、もうどうしようもない人だ。
「いやほら、ご褒美、用意しとかないとね」
「まあ確かに、それもそうですね」
樹里さんがおとなしく勉強する気になったというだけでも奇跡なのだから、多少のことには目をつむろう。
「あ、煙草買い忘れた」
「いいじゃないですか、後で。どうせコンビニ近いんだし」
「えー、アイデンティティがぁ……」
「はいはい、レポートやってからにしましょうね」
未練たらたらの樹里さんを引っ張って、彼女の住むアパートに向かう。オートロックもない木造アパートの二階で、女の人が一人で住むにはセキュリティとかが気になってしまいそうなものだけど、樹里さんはそういうことはあまり気にしないらしい。
「さて、やりましょう」
そう言って、タブレットの中のテキストを開く。テキストのPDFファイルには、既に私が重要そうなところに赤線を引いてあったから、とりあえずその辺りのキーワードを拾って読んでいけば、わりあい早く理解できるはずだった。
「仕方ない、やるか」
樹里さんはそう言うと、ノートパソコンを起動させる。なんとかレポートをやる気になったみたいだった。私は横で、樹里さんからの質問を受けつつ、部屋にあったバンドスコアを何冊か眺めて、暇をつぶしていた。
「とりあえず、大体読めた」
「え、もう読み終わったんですか? 早くないですか?」
「一応、アウトラインと大体の下書きはできたから、残りは明日にでも書き上げるよ。ありがとうね」
やっぱり、樹里さんは、変な人だ。真面目にやればすぐできちゃうくらい頭がいいのに、普段はどうしてこんなに不真面目なんだろうと思う。
「いやだってほら、ちょっとでも長く練習してたいじゃんね?」
私の疑問にはそう答えて、部屋に置いてあるギターに視線をやる。樹里さんは、歌も上手いけど、ギターも上手い。アイデンティティなんて言うなら、煙草よりもむしろこっちのほうがいいのに、なんて思うのだけど。
「防音じゃないから、歌えないのが難点だよね、ここは」
「そんな、学生の分際でそんなこと言ったらバチが当たりますよ」
「まあ、そうね。別にうちらは音大生ってわけでもないんだしね」
そんなことを話しながら、好きな音楽だとか、次のライブの話なんかでも盛り上がる。もういい加減夜も遅いし、お風呂を借りてそろそろ寝ようという雰囲気になっていた。
樹里さんのお布団を借りてゴロゴロしながら、ふと、思いついて訊いてみる。
「そういえば、樹里さんって付き合ってる人とか、いるんですか?」
「え、なにそれ、今更訊く?」
「いやだって、全然それっぽい話聞かないし。こんなに美人なのに」
「そうねえ、確かにねえ……」
まったく謙遜しないところは、さすがだ。
「あー、ちょっとベランダで煙草吸ってくるわ」
「え、そこで話逸らしちゃうんですか? ずるいですよ!」
窓を開けようとしたところで、つい引き留める。別に恋バナなんてどうでもよかったけれど、なんとなく一人にされるのは寂しかった。
「ダメですよ。今日それ、何本目ですか? ちょっとは健康に気を遣ってください。喉にもよくないですよ」
「うるさいなー。別に歌えるんだからいいでしょ、これくらい」
「そもそも、どうしてそんなに煙草、吸いたいんですか?」
「いや、だってほら、口寂しくなっちゃうから……」
そんなことを言う樹里さんは、ちょっとだけ恥ずかしそうにしているようにも見える。だからついつい、悪戯心が働いてしまう。
「やっぱり、口唇期なんですかねえ」
「え、は、はああ?」
さっきの課題の、フロイトの話で読んだから、さすがに何を言おうとしているのかはわかったらしい。今まで思いもしなかったのか、樹里さんは珍しく顔を赤らめていた。
「口寂しいなら、飴でも舐めたらいいのに」
「ほお。真希はそういうこと言っちゃうわけだ? 先輩に向かって」
「今更じゃないですか、そんなの」
私がそう言うと、樹里さんは急に真面目な顔になった。
「じゃあさ、そんなに言うなら……」
樹里さんは私の腕をつかんで、そのまま私を壁際へ追い詰める。
「代わりに、吸わせろよ」
そう言うと、私の唇に口づけた。有無を言わさないくらい強引な口調と、腕の力の強さに反して、柔らかい唇の中から私に入り込んでくる舌の動きは、すごく優しくて。
その心地よさに、思わず声が漏れた。
「んんっ……ふぅっ」
やっと唇を解放してくれたかと思うと、樹里さんは今度は私の首筋に舌を這わせてくる。
「なに、感じてんの」
「だって……いきなり、なんですか、これ」
形ばかりの抵抗を見せるけど、相手が樹里さんだから、好きな人だから、身体は熱くなるばかりだ。
樹里さんの舌はつめたくて、ぬるっとした感触と、首筋を吸われる感覚に、私の頭の働きはどんどん奪われていく。
「真希が悪いんだよ。こんな、一人暮らしの先輩の家へ、ノコノコ付いてくるから」
「ちょ、だって、樹里さんが泊まりに来てって言ったんじゃないですか」
そう抗議の声を上げるのだけど、首筋だけじゃなくて、今度は耳の中にまで舌を差し入れられて、さらにただでさえ蠱惑的な低音のボイスで囁かれたなら、息ができないくらい苦しくなってしまう。
「も……う、どんだけ、舐めるの好きなんですか」
「吸う方が、もっと好きだけどな」
そう言って、再び首筋を経由して今度は鎖骨へ、ゆっくり丁寧に丁寧に、焦らすように吸い付いてくる。まるで食事の後のデザートを楽しんでいるみたいに。
「ふふ。真希、可愛い」
「……ずるいです、こんな。私たち、付き合ってるわけでもないのに」
涙声で訴えると、樹里さんは急に動きを止める。
「じゃ、やめよっか」
「え……」
「寝よ、寝よ。おやすみ」
そんなことを言って、わざとらしく布団をかぶろうとする。既に点火された状態の身体を、このまま持て余して寝ろというのか。
悔しくて、苦しくて、涙が出そうになる。
「私は……樹里さんのこと、好きです……でも」
「でも?」
「付き合ってもないのに、こんなこといきなりされるのは、困ります」
「そっか。ごめん。……じゃあさ」
そう言うと、樹里さんは自分のかぶっていた布団を私にもかける。布団の中の暗い世界で、小さい子が仲良くかくれんぼするかのように、私と樹里さんは密着する。
「付き合おっか」
身体を密着させたまま、耳元でそう言われる。空気のたくさん混じった低音で。人の気も知らないで。
「いいですよ。じゃあその代わり……」
私は布団をはいで、自分から樹里さんにハグして言う。
「禁煙してください」
「……は、はい?」
「だから、私と付き合うなら、禁煙しましょう。はい、返事は?」
「……わかった。じゃあこれ、捨てるわ」
そう言うなり、樹里さんはポケットに入れていた煙草の箱を、まるごとゴミ箱に投げ入れる。
「え、早……」
私が驚いていると、樹里さんは言う。
「可愛い恋人の頼みだもんね。それに……」
樹里さんは再び私の首筋に触れながら言う。
「代わりに吸わせてくれるんでしょ?」
その微笑みは、今まで見た中で一番の妖艶なそれで。
「……はい」
顔を火照らせながら答えた私は、なすすべもなく、再び樹里さんの毒牙にかかってしまうのだった。
「ちょ、だめ、そこは、いきなり……」
「え、なんで? 吸わせてくれるって言ったよね?」
片手で胸の突起をいじられながら、もう片方は樹里さんの舌に弄ばれる。苦しくて苦しくて、もうダメって言っても、全然やめてくれない。
「まだ、全然足らないんだけど」
そう言いながら、ちゅ、と音を立てて吸ってくる。何度も何度もそこを執拗に責め立てられて、その度に、もう声を上げずにはいられない。
身体の奥からは、もうとろりとした液体が滲み出ていて、情けなく濡れたそこに、触れられたくてたまらなくなっていた。
「……こっち、触って欲しいの?」
今更気づいたかのようにそう言うけれど、樹里さんがわざとそうしているのは明らかだった。
すっかり準備のととのったそこに、樹里さんの指が優しく触れる。その瞬間、電撃が走るような快楽が突き抜ける。もう、我慢できない。
「樹里さん、私もう、ダメ……」
「仕方ない子だねぇ」
樹里さんは耳元でそう囁きながら、私のそこに指を差し入れる。
「弾いてあげるとしますか」
そんなことを言って動かす指使いは、器用すぎて嫌になるくらい。やっぱりさすが、ギターを弾くひとだ、なんてことを思う。そのことがこんなに憎らしく思うなんて、今まで思いもしなかった。
「それとも、歌う方がいい?」
さっきから耳元で声を出されるたびに、私がびくびくと反応していることなんてお見通しのようだった。耳に息を吹きかけられながら身体の中をかきまぜられて、ついに私の身体は大きく震えて、頭の中は真っ白になった。
「うう……もう、ずるいです」
呼吸を整えながらそう言う私に、樹里さんは何度も何度も口付ける。それがまた心地よくて、私は何回だって溶けてしまう。
「まだ、足りないから」
樹里さんもそう言って、何度だって私を求めてきたのだった。
結局その後、樹里さんは本当に煙草を一切吸わなくなってしまった。だけど、その代わり。
「真希。……ちょっと来て」
軽音サークルの練習中、ちょっとした休憩時間のたびにそう言って、私を外に連れだす樹里さん。
「樹里さん……またですか」
「だって仕方ないじゃん。口寂しくなっちゃったんだもん」
そう言って、私の唇を吸う。さすがに、その先まで吸おうとしてきたのは、全力で止めたけれど。
いつまで経っても口唇期の甘えん坊の恋人を、私は今日も愛しく思うのだった。
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