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マスクをはずして
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政府は3/13以降の新型感染症対策としてのマスクの着用について、屋内・屋外共に、個人の判断を基本とする方針を決定した。
と、わたしは、14日の今日になって、朝のニュースで知った。最近は仕事で疲れてしまっていて、なかなかニュースをチェックする余裕がなかったのだ。
わたしの職場は都内のカジュアルなレストランで、今週は卒業式シーズンということもあって、普段より団体のお客様が多い。だから何かと大変な時期で、ちょっとストレスも溜まっていた。
そういえばミーティングのときにマネージャーさんがマスクがどうとか言っていたような気もするけれど、いつからノーマスクが解禁なんだとか、具体的な日付までは覚えていなかった。なぜって、わたしたちはどのみちしばらくはマスクが必須ということになったからだ。
だから世間がどうであろうと、あまり関係がなかった。
いつも通りに仕事を終えて、制服から私服に着替える。時刻は夜の10時。忙しいといってもうちは飲食店にしては比較的早めの時間に上がれるから助かる。
とっても疲れる日だったけど、それでも今日のわたしは元気いっぱいだ。まだまだ頑張れる。だってこのあとには、お楽しみが待っているから。
スマホを確認すると、LINEの通知があった。
……悠さんだ。
『いつものところで、待ってるね』
そのシンプルなメッセージを見ただけで、思わず顔がニヤけてしまう。ああ、マスクをしていて良かった。きっとわたしは、今ものすごく、恥ずかしい顔をしているだろうから。
*
わたしと悠さんが初めて出会ったのは、半年前。
ちょうどその頃わたしは、ずっと好きだった職場の先輩に告白して玉砕、失恋の真っ只中だった。
何日も泣いて、先輩と顔を合わせたくないからもう仕事に行きたくなくて、でも行かなきゃいけないから頑張ってなんとか行って、そんな毎日を過ごしていた。
そんなある日、落ち込んでいるわたしを心配して、チーフの紗月さんがわたしをライブに誘ってくれた。
わたしは音楽のこととか、何もわからない素人だから、ちょっと躊躇したけれど、紗月さんの大学時代の友達が歌うというので、気になって一緒に行くことにしたのだ。
ライブ会場は職場からすぐ近くの場所だった。紗月さんとわたしは揃って早番にしてもらって、その夜、初めてのライブに行った。
語彙力のないわたしは、そのときの感動をうまく言葉にすることがいまだにできない。とにかく、圧倒されてしまったのだった。
わたしが特に心動かされたのは、とある曲の歌詞だった。
ずっと好きだった人に振られてしまったというような失恋の悲しみを歌った曲で、まさにその時のわたしの心情にぴったりだったのだ。
ライブのあと、紗月さんはさっきまで歌っていた友達のバンドメンバーとわたしを引き合わせた。
『この子、ボロボロ泣いてたからさ』なんて恥ずかしいことをバラされて、赤面していたら、同じように照れた様子の人と目が合った。
その人が、あの曲の歌詞を書いた本人、悠さんだったのだ。
悠さんのパートはギターだった。今日は3人のバンドだったけど、そのほかにソロで弾き語りなんかもしているとのことだった。
「よかったら、これ。今度またここで、歌うから」
悠さんはそう言って、ライブの日程が書かれた小さな紙を渡してくれた。
わたしは思わず、下を向いてしまう。
悠さんの衣装は赤くて眩しくて、わたしはまともに目を合わせることができなかったのだ。
それから、わたしは悠さんのライブに通うようになった。もちろん、仕事があるから毎回とはいかないけれど、少ない休みの日をわざわざライブの日程に合わせるほどには、それはわたしの楽しみになっていた。
そんなあるときのライブの後のことだった。
その日は紗月さんが一緒だったから、友人を待つからと言ってまた出待ちをしていたら、流れでバンドメンバーの3人とこの後飲もう、なんて話になってしまった。
あまりの急展開にわたしはすごくドキドキしてしまって。だって憧れの人とこんなに近くでお話できるなんて、夢にも思わなかったから。
だけど、5人で音楽の話をしたり、もっと他愛のない、日常のなんでもない話をしたりしているうちにすっかり打ち解けていた。
悠さんとわたしの帰り道と、他の3人とは乗る電車の路線が違っていたから、解散した後は悠さんと2人で電車に乗った。
「春香ちゃん、いつも来てくれてありがとうね」
そう言って悠さんはニコッと笑う。その笑顔は、普段ステージで見せるカッコいい姿と違って、すごく可愛く見えて。なんだかドキッとしてしまう。
2人きりの時間はそれが初めてだったけど、もっと緊張するかと思っていたのに、なぜだかわたしはすっかり落ち着いていて。不思議な感覚だった。
途中電車が揺れて、偶然手が触れたりして、ドキドキして。
その頃にはもう、とっくに気づいていた。これは単なる憧れを通り越して、わたしはすっかり悠さんに恋をしてしまっていたのだと。
電車が最寄駅に着く前に、悠さんは言った。
「あのさ、もしよかったら……」
さっきまでよく通る声で歌っていた人とは思えないほど、すごく、遠慮がちな小さな声で。
「連絡先、教えて?」
返事はもちろん、決まっていた。
それから、わたしと悠さんは、個人的に連絡を取り合うようになっていった。
ライブとか音楽の話だけじゃなくて、今日何を食べたとか、道端で猫が寝転んでいて可愛かったとか、本当になんでもない話をした。
悠さんからは三日に一度くらいLINEが来て、わたしは少し時間を空けてからそれに返事をする。そのうちに、今度一緒に出かけようということになって、2人きりでご飯を食べたり、映画を観たり、他の人のライブに行ってみたりもした。
わたしと悠さんは6つも歳が離れているけれど、びっくりするくらい色々な趣味が一致していた。音楽はもちろんのこと、食べ物の好みとか、子供の頃に読んでいた漫画とか、そういうことまで。
だから2人でいても話は尽きなくて。悠さんといるとわたしはいつも心から笑えたし、悠さんも同じように楽しんでいるように見えた。
悠さんは昼間は会社員をしながら、夜や土日にライブ活動をしていて、わたしは夜が忙しいレストランの店員で。一緒に遊ぶためにお休みを合わせることも難しいからと、そのうち悠さんは、わたしの仕事終わりに会いにきてくれるようになった。
夜10時の勤務終了後に、駅近くのお店で終電の時間までおしゃべりして、一緒に電車に乗って帰ったりもした。
そんなふうにして過ごしていれば、わたしのほうもつい、期待をしてしまう。
悠さんは、わたしのことを一体どう思っているのだろう、と。
もちろん、嫌いな相手とここまで時間を共にするわけはないから、少なくとも多少の好感は抱いてくれているはずだけど。でもそれが果たして、恋愛的な気持ちなのかどうなのか、わたしにはわからなかったし、わたしのことが恋愛対象になるのかどうかすらもわからない。
そもそもわたしは人と付き合ったことがないし、誰かに好きになってもらったこともないから。そういう雰囲気とやらもまるでわからないのだ。それに、下手に告白して、また前の時みたいになってしまったらと思うと、とてもとてもそれを確かめる勇気はないのだった。
*
「お待たせしました」
息を切らせていつもの駅前のお店に行くと、窓際の席でいつものブラックコーヒーを飲みながら、悠さんが待っていてくれた。
「お仕事、お疲れ様」
「疲れました……」
「じゃあ、甘いものでも食べちゃう?」
「食べる!」
もう遅い時間だっていうのに、わたしたちは甘い甘いパフェを注文してしまう。
「シェアしちゃう?」
なんて悠さんが言うから、2人で別のものを頼んで、半分ずつ分けたりした。
こんなご時世で、普段はマスクをつけているから、こんなふうに食事をするときに悠さんの口元が見えると、なんだかドキッとしてしまう。
でも同時にわたしのほうも見られていることを思えば、もっともっと恥ずかしくなってしまうのだけど。
「そういえば今日、ホワイトデーなんだよね」
パフェを食べ終わる頃、悠さんは突然そんなことを言い出した。
「あ、そうですね。お店、めっちゃ混んでて大変でした」
「やっぱりそうだよね。……じゃあ、たくさん頑張った春香に、これ。プレゼント」
そう言って悠さんは小さな包みを取り出す。中身はホワイトチョコレートのトリュフのようだった。まさにホワイトデーという感じだ。
「ありがとうございます!」
「いえいえ。バレンタインにチョコくれたでしょ。そのお返しだから」
悠さんはにっこり笑って言う。
そっか、『お返し』か。ちょっとだけ、胸の奥がチクっとなる。
先月のバレンタインデーでわたしは、気合を入れた手作りのチョコ菓子を悠さんに渡したのだ。手書きのお手紙を添えて。
それはわたしからの遠回しな告白のつもりだった。だけどその意味に、悠さんは気づいていないのだろうか。それとも気づいていて、無視しているのだろうか。
そんなわたしの想いも知らず、悠さんは時計を見ながら残酷な言葉を吐く。
「そろそろ、時間だね。行こうか」
終電の時間まで、あと十五分ほど。駅のホームが混雑するから、そろそろ向かった方がいいのは間違いなかった。まあ、どうせどこから乗ろうと満員電車なのだけど。
改札を通ると、ホーム上はいつも以上に混雑していた。
ああ、さてはホワイトデーのデートをしたカップルたちが、この時間までお楽しみだったに違いない。なんだか面白くない気分になる。
そのうちに電車が到着した。
「春香、気をつけて」
悠さんは乗車時に人波ではぐれないように、優しくわたしの手を引いてくれる。もう、こういう接触、ずるい。
でもおかげで、奥の方のあまり苦しくない位置に乗ることができた。
「疲れてるのに、遅くまで、ありがとうね」
電車に揺られながら、悠さんはそんなことを言ってくる。密着して立っているから、耳元でささやかれている感じになって、くすぐったい。
「だ、大丈夫です。わたしまだまだ、全然元気なので!」
そんなことを大袈裟に言って、ドキドキをごまかす。ただでさえカッコいい悠さんの低音ボイスを、こんなに間近で聴いてしまったら、わたしはもうどうにかなってしまいそうで。
「そっか、なら、よかった」
そう言って笑う悠さんの顔を、わたしはまともに見ることができなかった。
数駅が過ぎて、まもなくターミナル駅に着くところだった。悠さんはここで乗り換えるから、もうお別れの時間。名残惜しいなと思っていたのだけど、なぜか降りるはずの駅で、悠さんは降りようとしない。
戸惑っているうちに、ドアが閉まってしまった。
「え、悠さん……乗り換えは?」
「ああ、ちょっと、めんどくさくなっちゃって」
「え、だってこれ、終電ですよ? どうするんですか」
言いながら、少し期待している自分がいた。胸がうるさいくらいに鳴る。
「春香、元気ならさ」
悠さんは声をひそめて。そしてわざわざ、わたしの耳元でささやいた。
「ちょっと、付き合ってよ」
わたしの大好きなその、低音ボイスで。
電車に揺られること、数十分。わたしの最寄駅すらも通り過ぎて、終点まであと一駅というところで、悠さんはわたしの手を引いていく。
「え、ここ……?」
てっきり、終点の繁華街かなんかに行くんだとばかり思っていたのに、下ろされたその駅は、有名な大きな公園のある駅。というか、こういう言い方をしたら大変申し訳ないけど、公園しかない駅。
「公園、行こうよ」
え、こんな時間に?
わたしの頭の中が疑問符でいっぱいになっているあいだに、悠さんは駅前のコンビニで温かい飲み物を買ってきてくれていた。
悠さんは妙に楽しそうで、だからわたしも、なんだか楽しくなってしまった。
公園に行くと、意外にも人がいた。酔っ払った大学生とおぼしき集団や、池のほうを眺めていちゃいちゃしているカップルとか。
悠さんはそんなことは一切気にしていない様子だった。そのうちに、他に人気のない場所にベンチを見つけたので、わたしたちはそこに座ることにした。
いくら今日が例年よりもだいぶ暖かい日だったとはいえ、さすがに深夜のこの時間ともなると、冷える。わたしは温かいココアを、悠さんはブラックコーヒーを飲んで一息つく。
深夜の公園は静かで、昼間はスワンボートに乗る人で賑わう池も、今は落ち着いた雰囲気で。昼間よりも、今のほうが、好きかもしれない、なんて思う。
でもそれは、今ここに悠さんがいるからなのかもしれない。そこのところはもう、判別がつかなかった。
それにしても、悠さんはなぜこの場所にわたしを連れてきたのだろう。このあとどうするつもりなんだろう。そんなことを考えて、頭の中がパンクしそうになっていると、悠さんは口を開いた。
「付き合ってくれて、ありがとうね」
今更、そんなことを言う。
「べつに……いいですけど。どうして、公園なんですか?」
わたしがそう問いかけると、悠さんは慌てたように言う。
「……だって春香、前に言ってたじゃん。理想のデートのシチュエーション。『公園デートが好き』だってさ」
「いや、そりゃ、言いましたけど……。……って、デート? ……ええっ!?」
思わず驚いてしまう。悠さん、これ、デートのつもりだったの? って。
もしかして、今までのも、デートって思ってくれてたの? って。
そう思ったら急に、顔が熱くなってくる。ああ、マスクが暑苦しい。だけどこんな顔を見られるのはもっと嫌だから、絶対にマスクを外すわけにはいかない。
「……春香、もしかして、今までのもデートだと思ってなかったの……? 嘘でしょ!?」
悠さんは悠さんで、もう頭を抱えてしまっている。
「あーやだもう……私だけ? 恥ずかしい……もう……」
それでわたしは、やっと気づくことができたんだ。
ああそうか、悠さんも、同じ気持ちだったんだって。
「悠さん」
マスクの上からさらに手で顔を覆っている悠さんの手に触れる。
「こっち向いてください。……ちゃんと言ってくれないと、わからないですよ」
わたしがそう言うと、悠さんはやっと顔を上げてくれた。
「悠さんはミュージシャンでモテるから、わたし、てっきり遊ばれてるのかと思ってました」
「なにその偏見。……そんなわけないじゃん」
不服そうに言われる。
「だいたい、遊ぶつもりなら、もうとっくに……ああ、もう」
ひと通り騒いだせいで暑くなったのか、悠さんは自分のマスクを外してしまう。
「とっくに、なんですか?」
「もう、こっちの気も知らないで……」
「それはこっちのセリフです」
なんだかわからないけど、両想いだってわかったっていうのに、ついつい言い合いになってしまう。
「まあ、仕方ないか。……春香は、初めて、なんだもんね」
2人してしばらく騒いだあとに、もう諦めた、というように悠さんはそう言って。
それから、まっすぐにわたしの目を見つめて、言った。
「……いい?」
もう返事なんか、要らなかった。
悠さんが、わたしの頬に触れる。布一枚を挟んで。
ちょっとだけ不満そうな顔をしたと思ったら、そのままわたしの耳に触れてくる。
「……んっ……ひゃっ」
くすぐったさに身をよじっているあいだに、耳にかけられていた紐が外され、わたしの口元が露わになる。すごく、恥ずかしい。
さっきよりも外気に当たっている面積が増えているっていうのに、わたしの身体は奥のほうから熱を帯びていく。
「……まだ、邪魔だな」
そう小さく呟くと、悠さんは反対側の耳にも触れる。正確には耳に触れたんじゃなくて、紐を外そうとしただけなんだけど。
「……や、やぁっ」
さっきのくすぐったさのせいで過剰反応してしまって。わたしが逃げてしまったせいでマスクを上手く外せなくて。
結局もう一度また、くすぐったい目に遭うことになった。
「ゆ、悠さん……恥ずかしいです」
「春香、可愛い」
ニコッと笑いながらそう言うと、ゆっくり、本当にゆっくりと、悠さんの顔が近づいてくる。
思わず、目をつむってしまって。
……唇に、何かが触れる。
何かなんて、確かめなくても、もうわかっていた。
おそるおそる目を開けると、悠さんはまっすぐこっちを見ていて。
「やっと、届いたね」
そう言って笑うのだ。
「……はい」
わたしは思わずまた、下を向く。
深夜の公園は真っ暗なはずなのに、それは眩しくて、とても見ていられなかったから。
と、わたしは、14日の今日になって、朝のニュースで知った。最近は仕事で疲れてしまっていて、なかなかニュースをチェックする余裕がなかったのだ。
わたしの職場は都内のカジュアルなレストランで、今週は卒業式シーズンということもあって、普段より団体のお客様が多い。だから何かと大変な時期で、ちょっとストレスも溜まっていた。
そういえばミーティングのときにマネージャーさんがマスクがどうとか言っていたような気もするけれど、いつからノーマスクが解禁なんだとか、具体的な日付までは覚えていなかった。なぜって、わたしたちはどのみちしばらくはマスクが必須ということになったからだ。
だから世間がどうであろうと、あまり関係がなかった。
いつも通りに仕事を終えて、制服から私服に着替える。時刻は夜の10時。忙しいといってもうちは飲食店にしては比較的早めの時間に上がれるから助かる。
とっても疲れる日だったけど、それでも今日のわたしは元気いっぱいだ。まだまだ頑張れる。だってこのあとには、お楽しみが待っているから。
スマホを確認すると、LINEの通知があった。
……悠さんだ。
『いつものところで、待ってるね』
そのシンプルなメッセージを見ただけで、思わず顔がニヤけてしまう。ああ、マスクをしていて良かった。きっとわたしは、今ものすごく、恥ずかしい顔をしているだろうから。
*
わたしと悠さんが初めて出会ったのは、半年前。
ちょうどその頃わたしは、ずっと好きだった職場の先輩に告白して玉砕、失恋の真っ只中だった。
何日も泣いて、先輩と顔を合わせたくないからもう仕事に行きたくなくて、でも行かなきゃいけないから頑張ってなんとか行って、そんな毎日を過ごしていた。
そんなある日、落ち込んでいるわたしを心配して、チーフの紗月さんがわたしをライブに誘ってくれた。
わたしは音楽のこととか、何もわからない素人だから、ちょっと躊躇したけれど、紗月さんの大学時代の友達が歌うというので、気になって一緒に行くことにしたのだ。
ライブ会場は職場からすぐ近くの場所だった。紗月さんとわたしは揃って早番にしてもらって、その夜、初めてのライブに行った。
語彙力のないわたしは、そのときの感動をうまく言葉にすることがいまだにできない。とにかく、圧倒されてしまったのだった。
わたしが特に心動かされたのは、とある曲の歌詞だった。
ずっと好きだった人に振られてしまったというような失恋の悲しみを歌った曲で、まさにその時のわたしの心情にぴったりだったのだ。
ライブのあと、紗月さんはさっきまで歌っていた友達のバンドメンバーとわたしを引き合わせた。
『この子、ボロボロ泣いてたからさ』なんて恥ずかしいことをバラされて、赤面していたら、同じように照れた様子の人と目が合った。
その人が、あの曲の歌詞を書いた本人、悠さんだったのだ。
悠さんのパートはギターだった。今日は3人のバンドだったけど、そのほかにソロで弾き語りなんかもしているとのことだった。
「よかったら、これ。今度またここで、歌うから」
悠さんはそう言って、ライブの日程が書かれた小さな紙を渡してくれた。
わたしは思わず、下を向いてしまう。
悠さんの衣装は赤くて眩しくて、わたしはまともに目を合わせることができなかったのだ。
それから、わたしは悠さんのライブに通うようになった。もちろん、仕事があるから毎回とはいかないけれど、少ない休みの日をわざわざライブの日程に合わせるほどには、それはわたしの楽しみになっていた。
そんなあるときのライブの後のことだった。
その日は紗月さんが一緒だったから、友人を待つからと言ってまた出待ちをしていたら、流れでバンドメンバーの3人とこの後飲もう、なんて話になってしまった。
あまりの急展開にわたしはすごくドキドキしてしまって。だって憧れの人とこんなに近くでお話できるなんて、夢にも思わなかったから。
だけど、5人で音楽の話をしたり、もっと他愛のない、日常のなんでもない話をしたりしているうちにすっかり打ち解けていた。
悠さんとわたしの帰り道と、他の3人とは乗る電車の路線が違っていたから、解散した後は悠さんと2人で電車に乗った。
「春香ちゃん、いつも来てくれてありがとうね」
そう言って悠さんはニコッと笑う。その笑顔は、普段ステージで見せるカッコいい姿と違って、すごく可愛く見えて。なんだかドキッとしてしまう。
2人きりの時間はそれが初めてだったけど、もっと緊張するかと思っていたのに、なぜだかわたしはすっかり落ち着いていて。不思議な感覚だった。
途中電車が揺れて、偶然手が触れたりして、ドキドキして。
その頃にはもう、とっくに気づいていた。これは単なる憧れを通り越して、わたしはすっかり悠さんに恋をしてしまっていたのだと。
電車が最寄駅に着く前に、悠さんは言った。
「あのさ、もしよかったら……」
さっきまでよく通る声で歌っていた人とは思えないほど、すごく、遠慮がちな小さな声で。
「連絡先、教えて?」
返事はもちろん、決まっていた。
それから、わたしと悠さんは、個人的に連絡を取り合うようになっていった。
ライブとか音楽の話だけじゃなくて、今日何を食べたとか、道端で猫が寝転んでいて可愛かったとか、本当になんでもない話をした。
悠さんからは三日に一度くらいLINEが来て、わたしは少し時間を空けてからそれに返事をする。そのうちに、今度一緒に出かけようということになって、2人きりでご飯を食べたり、映画を観たり、他の人のライブに行ってみたりもした。
わたしと悠さんは6つも歳が離れているけれど、びっくりするくらい色々な趣味が一致していた。音楽はもちろんのこと、食べ物の好みとか、子供の頃に読んでいた漫画とか、そういうことまで。
だから2人でいても話は尽きなくて。悠さんといるとわたしはいつも心から笑えたし、悠さんも同じように楽しんでいるように見えた。
悠さんは昼間は会社員をしながら、夜や土日にライブ活動をしていて、わたしは夜が忙しいレストランの店員で。一緒に遊ぶためにお休みを合わせることも難しいからと、そのうち悠さんは、わたしの仕事終わりに会いにきてくれるようになった。
夜10時の勤務終了後に、駅近くのお店で終電の時間までおしゃべりして、一緒に電車に乗って帰ったりもした。
そんなふうにして過ごしていれば、わたしのほうもつい、期待をしてしまう。
悠さんは、わたしのことを一体どう思っているのだろう、と。
もちろん、嫌いな相手とここまで時間を共にするわけはないから、少なくとも多少の好感は抱いてくれているはずだけど。でもそれが果たして、恋愛的な気持ちなのかどうなのか、わたしにはわからなかったし、わたしのことが恋愛対象になるのかどうかすらもわからない。
そもそもわたしは人と付き合ったことがないし、誰かに好きになってもらったこともないから。そういう雰囲気とやらもまるでわからないのだ。それに、下手に告白して、また前の時みたいになってしまったらと思うと、とてもとてもそれを確かめる勇気はないのだった。
*
「お待たせしました」
息を切らせていつもの駅前のお店に行くと、窓際の席でいつものブラックコーヒーを飲みながら、悠さんが待っていてくれた。
「お仕事、お疲れ様」
「疲れました……」
「じゃあ、甘いものでも食べちゃう?」
「食べる!」
もう遅い時間だっていうのに、わたしたちは甘い甘いパフェを注文してしまう。
「シェアしちゃう?」
なんて悠さんが言うから、2人で別のものを頼んで、半分ずつ分けたりした。
こんなご時世で、普段はマスクをつけているから、こんなふうに食事をするときに悠さんの口元が見えると、なんだかドキッとしてしまう。
でも同時にわたしのほうも見られていることを思えば、もっともっと恥ずかしくなってしまうのだけど。
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そんなわたしの想いも知らず、悠さんは時計を見ながら残酷な言葉を吐く。
「そろそろ、時間だね。行こうか」
終電の時間まで、あと十五分ほど。駅のホームが混雑するから、そろそろ向かった方がいいのは間違いなかった。まあ、どうせどこから乗ろうと満員電車なのだけど。
改札を通ると、ホーム上はいつも以上に混雑していた。
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そのうちに電車が到着した。
「春香、気をつけて」
悠さんは乗車時に人波ではぐれないように、優しくわたしの手を引いてくれる。もう、こういう接触、ずるい。
でもおかげで、奥の方のあまり苦しくない位置に乗ることができた。
「疲れてるのに、遅くまで、ありがとうね」
電車に揺られながら、悠さんはそんなことを言ってくる。密着して立っているから、耳元でささやかれている感じになって、くすぐったい。
「だ、大丈夫です。わたしまだまだ、全然元気なので!」
そんなことを大袈裟に言って、ドキドキをごまかす。ただでさえカッコいい悠さんの低音ボイスを、こんなに間近で聴いてしまったら、わたしはもうどうにかなってしまいそうで。
「そっか、なら、よかった」
そう言って笑う悠さんの顔を、わたしはまともに見ることができなかった。
数駅が過ぎて、まもなくターミナル駅に着くところだった。悠さんはここで乗り換えるから、もうお別れの時間。名残惜しいなと思っていたのだけど、なぜか降りるはずの駅で、悠さんは降りようとしない。
戸惑っているうちに、ドアが閉まってしまった。
「え、悠さん……乗り換えは?」
「ああ、ちょっと、めんどくさくなっちゃって」
「え、だってこれ、終電ですよ? どうするんですか」
言いながら、少し期待している自分がいた。胸がうるさいくらいに鳴る。
「春香、元気ならさ」
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「ちょっと、付き合ってよ」
わたしの大好きなその、低音ボイスで。
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「え、ここ……?」
てっきり、終点の繁華街かなんかに行くんだとばかり思っていたのに、下ろされたその駅は、有名な大きな公園のある駅。というか、こういう言い方をしたら大変申し訳ないけど、公園しかない駅。
「公園、行こうよ」
え、こんな時間に?
わたしの頭の中が疑問符でいっぱいになっているあいだに、悠さんは駅前のコンビニで温かい飲み物を買ってきてくれていた。
悠さんは妙に楽しそうで、だからわたしも、なんだか楽しくなってしまった。
公園に行くと、意外にも人がいた。酔っ払った大学生とおぼしき集団や、池のほうを眺めていちゃいちゃしているカップルとか。
悠さんはそんなことは一切気にしていない様子だった。そのうちに、他に人気のない場所にベンチを見つけたので、わたしたちはそこに座ることにした。
いくら今日が例年よりもだいぶ暖かい日だったとはいえ、さすがに深夜のこの時間ともなると、冷える。わたしは温かいココアを、悠さんはブラックコーヒーを飲んで一息つく。
深夜の公園は静かで、昼間はスワンボートに乗る人で賑わう池も、今は落ち着いた雰囲気で。昼間よりも、今のほうが、好きかもしれない、なんて思う。
でもそれは、今ここに悠さんがいるからなのかもしれない。そこのところはもう、判別がつかなかった。
それにしても、悠さんはなぜこの場所にわたしを連れてきたのだろう。このあとどうするつもりなんだろう。そんなことを考えて、頭の中がパンクしそうになっていると、悠さんは口を開いた。
「付き合ってくれて、ありがとうね」
今更、そんなことを言う。
「べつに……いいですけど。どうして、公園なんですか?」
わたしがそう問いかけると、悠さんは慌てたように言う。
「……だって春香、前に言ってたじゃん。理想のデートのシチュエーション。『公園デートが好き』だってさ」
「いや、そりゃ、言いましたけど……。……って、デート? ……ええっ!?」
思わず驚いてしまう。悠さん、これ、デートのつもりだったの? って。
もしかして、今までのも、デートって思ってくれてたの? って。
そう思ったら急に、顔が熱くなってくる。ああ、マスクが暑苦しい。だけどこんな顔を見られるのはもっと嫌だから、絶対にマスクを外すわけにはいかない。
「……春香、もしかして、今までのもデートだと思ってなかったの……? 嘘でしょ!?」
悠さんは悠さんで、もう頭を抱えてしまっている。
「あーやだもう……私だけ? 恥ずかしい……もう……」
それでわたしは、やっと気づくことができたんだ。
ああそうか、悠さんも、同じ気持ちだったんだって。
「悠さん」
マスクの上からさらに手で顔を覆っている悠さんの手に触れる。
「こっち向いてください。……ちゃんと言ってくれないと、わからないですよ」
わたしがそう言うと、悠さんはやっと顔を上げてくれた。
「悠さんはミュージシャンでモテるから、わたし、てっきり遊ばれてるのかと思ってました」
「なにその偏見。……そんなわけないじゃん」
不服そうに言われる。
「だいたい、遊ぶつもりなら、もうとっくに……ああ、もう」
ひと通り騒いだせいで暑くなったのか、悠さんは自分のマスクを外してしまう。
「とっくに、なんですか?」
「もう、こっちの気も知らないで……」
「それはこっちのセリフです」
なんだかわからないけど、両想いだってわかったっていうのに、ついつい言い合いになってしまう。
「まあ、仕方ないか。……春香は、初めて、なんだもんね」
2人してしばらく騒いだあとに、もう諦めた、というように悠さんはそう言って。
それから、まっすぐにわたしの目を見つめて、言った。
「……いい?」
もう返事なんか、要らなかった。
悠さんが、わたしの頬に触れる。布一枚を挟んで。
ちょっとだけ不満そうな顔をしたと思ったら、そのままわたしの耳に触れてくる。
「……んっ……ひゃっ」
くすぐったさに身をよじっているあいだに、耳にかけられていた紐が外され、わたしの口元が露わになる。すごく、恥ずかしい。
さっきよりも外気に当たっている面積が増えているっていうのに、わたしの身体は奥のほうから熱を帯びていく。
「……まだ、邪魔だな」
そう小さく呟くと、悠さんは反対側の耳にも触れる。正確には耳に触れたんじゃなくて、紐を外そうとしただけなんだけど。
「……や、やぁっ」
さっきのくすぐったさのせいで過剰反応してしまって。わたしが逃げてしまったせいでマスクを上手く外せなくて。
結局もう一度また、くすぐったい目に遭うことになった。
「ゆ、悠さん……恥ずかしいです」
「春香、可愛い」
ニコッと笑いながらそう言うと、ゆっくり、本当にゆっくりと、悠さんの顔が近づいてくる。
思わず、目をつむってしまって。
……唇に、何かが触れる。
何かなんて、確かめなくても、もうわかっていた。
おそるおそる目を開けると、悠さんはまっすぐこっちを見ていて。
「やっと、届いたね」
そう言って笑うのだ。
「……はい」
わたしは思わずまた、下を向く。
深夜の公園は真っ暗なはずなのに、それは眩しくて、とても見ていられなかったから。
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楠富 つかさ
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中学二年生の佑奈は、母子家庭で家事をこなしながら日々を過ごしていた。友達はいるが、特別に誰かと深く関わることはなく、学校と家を行き来するだけの平凡な毎日。そんな佑奈に、同じクラスの大波多佳子が積極的に距離を縮めてくる。
佳子は華やかで、成績も良く、家は裕福。けれど両親は海外赴任中で、一人暮らしをしている。人懐っこい笑顔の裏で、彼女が抱えているのは、誰にも言えない「寂しさ」だった。
「ねぇ、明日から私の部屋で勉強しない?」
放課後、二人は図書室ではなく、佳子の部屋で過ごすようになる。最初は勉強のためだったはずが、いつの間にか、それはただ一緒にいる時間になり、互いにとってかけがえのないものになっていく。
――けれど、佑奈は思う。
「私なんかが、佳子ちゃんの隣にいていいの?」
特別になりたい。でも、特別になるのが怖い。
放課後、少しずつ距離を縮める二人の、静かであたたかな日々の物語。
4/6以降、8/31の完結まで毎週日曜日更新です。
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