4 / 7
④
しおりを挟む
「あ、ここ、座ってもいいかな?」
藤乃が顔を上げると、そこにはハルタくんの姿があった。
「は、はいっ」と上ずった声で返事をして、藤乃は自分の身体を少し横にずらす。隣にできたスペースに、ハルタくんが腰かけた。その時、トンッと彼の膝が藤乃の肩に触れた。
「あっ、ごめん」と手を合わせたハルタくんに、藤乃は「い、いえっ」と、また上ずった声を発してしまう。藤乃がこうして彼の隣に座るのは、随分と久しぶりの事だった。
ハルタくんは自分で紙コップに緑茶を注ぎ、それを一気に飲み干して、二杯目を注ぎ足していた。喉が渇いていたのだろう。疲れた様子の彼に、藤乃は勇気を振り絞って話しかけた。
「あ、あの……社長の方は大丈夫、なの?」
藤乃がそう尋ねると、ハルタくんはこちらを向いて、また微笑んだ。いつもこうして、無意識に笑顔を作ってしまう人だった。
「会長がね、せっかくのお花見だから社員のみんなと一緒に楽しんでくれって。正直助かったよ。……社長につかまっちゃうと、なかなか離れられないから」
この会社に、会長なる人物は存在しない。おそらく、それはぬらりひょんのことだろう。その場にいる人間から、主人である、と認識されるぬらりひょんは、ハルタくんら社員の目には、社長よりも権力がある会長であるように見えている。いつもならお気に入りの社員を傍らに置いて離さない社長がハルタくんを自由にさせているのは、会長がそうおっしゃったから、ということだ。
「大変だね……。お仕事、だいぶ休めてないって聞いたけど、体は大丈夫?」
「……まぁ、休みが取れないのはみんなも一緒だし、なんとかはなっているよ。心配してくれてありがとう。あ、えぇっと……」
ハルタくんは考え込む様子を見せた。藤乃の名前を思い出せないのだ。藤乃にとって名前を忘れられてしまうのは割といつもの事であったが、やっぱり少し寂しかった。落胆する気持ちを隠して改めて名乗り、小さく乾杯をする。
「確か、同期だったよね。本当にごめん。どうして名前、忘れていたんだろう」
「い、いいの。私、影薄いし。気にしないで、ね」
「ありがとう、藤乃さん。……同期もさ、随分と数が減っちゃったよね。入社した頃は楽しかったなぁ。みんなで新メニュー考えたり、PR作戦練ったりして」
「……そうだね」
ハルタくんが懐かしそうに微笑む。けれどその笑みは、どことなく寂しい。
「……正直ね、これで本当にいいのかなって思う時があるよ。売り上げは好調だけど、社長は原価を切り詰めて安い食材を使う方向に舵を切っているし、味が落ちたんじゃないかってクレームを言われることも増えたんだ。ロクに教育も出来ていないアルバイトさんにキッチンを預けている店もあるみたい。かといってフォローに入る社員の体力は限界、みたいな状況だし……辞めていったみんなはこういう未来を予見していたのかなぁ」
その力無い微笑には、自嘲する雰囲気すらあった。
見た目からして優しい雰囲気があるハルタくんには、お人好し過ぎる面がある。あーしろ、こーしろという誰かの指示を、全部一人で抱え込んでしまうのだ。オーバーワーク気味の仕事量を、なんとか遂行できてしまうところがまた問題で、ここの社長のように「仕事は部下に振ってこそ!」と考えている相手とは抜群に相性が悪かった。あちらからしてみれば都合の良い手足。妙に気に入られてしまい、次々と業務を押し付けられることになる。
近頃は特にその傾向が顕著で、ハルタくんの仕事量は、明らかに彼の許容範囲を超えていた。藤乃は、どうにかしてハルタくんの助けになりたかった。けれど、その為にどうすればよいのかが分からない。
「最近、岩手のご実家には帰れてるの?」
「いや、近頃は全然……。あれ、僕、地元の話とかしたことあったっけ?」
「うん、前に。私も岩手の出だから、覚えていたんだ」
「そうだったんだ! うわぁ、なんか嬉しいなぁ」
ハルタくんは表情を綻ばせる。子供の頃の面影が残る笑顔だ。
「そういえば藤乃さんって、なんか僕の地元の友達に似てる。小さい頃の」
「えっ……そ、そう?」
ハルタくんがジッと藤乃の顔を見つめる。
藤乃はなんだか急に恥ずかしくなって、目をそらした。
「うん、すごく似てる。おかっぱ髪の女の子でさ、昔よく遊んだんだ。彼女、桜餅が大好きだった。実家の奥のお座敷で一緒に食べて……」
その時だった。
和やかだった酒宴の席に、突如として怒声が響き渡った。
藤乃が顔を上げると、そこにはハルタくんの姿があった。
「は、はいっ」と上ずった声で返事をして、藤乃は自分の身体を少し横にずらす。隣にできたスペースに、ハルタくんが腰かけた。その時、トンッと彼の膝が藤乃の肩に触れた。
「あっ、ごめん」と手を合わせたハルタくんに、藤乃は「い、いえっ」と、また上ずった声を発してしまう。藤乃がこうして彼の隣に座るのは、随分と久しぶりの事だった。
ハルタくんは自分で紙コップに緑茶を注ぎ、それを一気に飲み干して、二杯目を注ぎ足していた。喉が渇いていたのだろう。疲れた様子の彼に、藤乃は勇気を振り絞って話しかけた。
「あ、あの……社長の方は大丈夫、なの?」
藤乃がそう尋ねると、ハルタくんはこちらを向いて、また微笑んだ。いつもこうして、無意識に笑顔を作ってしまう人だった。
「会長がね、せっかくのお花見だから社員のみんなと一緒に楽しんでくれって。正直助かったよ。……社長につかまっちゃうと、なかなか離れられないから」
この会社に、会長なる人物は存在しない。おそらく、それはぬらりひょんのことだろう。その場にいる人間から、主人である、と認識されるぬらりひょんは、ハルタくんら社員の目には、社長よりも権力がある会長であるように見えている。いつもならお気に入りの社員を傍らに置いて離さない社長がハルタくんを自由にさせているのは、会長がそうおっしゃったから、ということだ。
「大変だね……。お仕事、だいぶ休めてないって聞いたけど、体は大丈夫?」
「……まぁ、休みが取れないのはみんなも一緒だし、なんとかはなっているよ。心配してくれてありがとう。あ、えぇっと……」
ハルタくんは考え込む様子を見せた。藤乃の名前を思い出せないのだ。藤乃にとって名前を忘れられてしまうのは割といつもの事であったが、やっぱり少し寂しかった。落胆する気持ちを隠して改めて名乗り、小さく乾杯をする。
「確か、同期だったよね。本当にごめん。どうして名前、忘れていたんだろう」
「い、いいの。私、影薄いし。気にしないで、ね」
「ありがとう、藤乃さん。……同期もさ、随分と数が減っちゃったよね。入社した頃は楽しかったなぁ。みんなで新メニュー考えたり、PR作戦練ったりして」
「……そうだね」
ハルタくんが懐かしそうに微笑む。けれどその笑みは、どことなく寂しい。
「……正直ね、これで本当にいいのかなって思う時があるよ。売り上げは好調だけど、社長は原価を切り詰めて安い食材を使う方向に舵を切っているし、味が落ちたんじゃないかってクレームを言われることも増えたんだ。ロクに教育も出来ていないアルバイトさんにキッチンを預けている店もあるみたい。かといってフォローに入る社員の体力は限界、みたいな状況だし……辞めていったみんなはこういう未来を予見していたのかなぁ」
その力無い微笑には、自嘲する雰囲気すらあった。
見た目からして優しい雰囲気があるハルタくんには、お人好し過ぎる面がある。あーしろ、こーしろという誰かの指示を、全部一人で抱え込んでしまうのだ。オーバーワーク気味の仕事量を、なんとか遂行できてしまうところがまた問題で、ここの社長のように「仕事は部下に振ってこそ!」と考えている相手とは抜群に相性が悪かった。あちらからしてみれば都合の良い手足。妙に気に入られてしまい、次々と業務を押し付けられることになる。
近頃は特にその傾向が顕著で、ハルタくんの仕事量は、明らかに彼の許容範囲を超えていた。藤乃は、どうにかしてハルタくんの助けになりたかった。けれど、その為にどうすればよいのかが分からない。
「最近、岩手のご実家には帰れてるの?」
「いや、近頃は全然……。あれ、僕、地元の話とかしたことあったっけ?」
「うん、前に。私も岩手の出だから、覚えていたんだ」
「そうだったんだ! うわぁ、なんか嬉しいなぁ」
ハルタくんは表情を綻ばせる。子供の頃の面影が残る笑顔だ。
「そういえば藤乃さんって、なんか僕の地元の友達に似てる。小さい頃の」
「えっ……そ、そう?」
ハルタくんがジッと藤乃の顔を見つめる。
藤乃はなんだか急に恥ずかしくなって、目をそらした。
「うん、すごく似てる。おかっぱ髪の女の子でさ、昔よく遊んだんだ。彼女、桜餅が大好きだった。実家の奥のお座敷で一緒に食べて……」
その時だった。
和やかだった酒宴の席に、突如として怒声が響き渡った。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
神は激怒した
まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。
めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。
ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m
世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
夫から「用済み」と言われ追い出されましたけれども
神々廻
恋愛
2人でいつも通り朝食をとっていたら、「お前はもう用済みだ。門の前に最低限の荷物をまとめさせた。朝食をとったら出ていけ」
と言われてしまいました。夫とは恋愛結婚だと思っていたのですが違ったようです。
大人しく出ていきますが、後悔しないで下さいね。
文字数が少ないのでサクッと読めます。お気に入り登録、コメントください!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる