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6 約束
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結衣には、“帰る場所”があった。
ただ、それをそう呼んでいいのかは、わからなかった。結衣は、叔母の家で暮らしているらしい。けれど。今までの結衣の様子や表情を見れば、その場所が“帰る場所”と呼べるものではないことは、想像に難くなかった。気づいてしまった。──この数日、誰も彼女を探していなかったことに。いなくなったことは、きっと知っていたはずなのに。探すことも、通報さえしなかったのだろう。
そのとき、結衣の声が、静けさを破った。
「どこの夜景を...見に行くの...?」『……生駒山っていう山があるんだ。私たちの家も、見つけられないくらい小さいけど、そこからなら見えると思う。』「……わかんない。けど……きれいなんだろうなぁ。」彼女の瞳には、やわらかな光が宿っていた。私はこの光をずっと見ていたかった。何日でも、何年でも。今日の夜に、消えてしまうその光を。私は、まだ何もできていない。
ただ、ここに立っているだけだ。
見ないようにしても、視界の端に、消えない影があった。
結衣の足が止まるまで、私はその光に見惚れていた。
****
結衣が足を止め、年季の入った一軒家の扉の前で大きく息を吸った。彼女の目の光が、絵に描いたように消えてゆく。彼女は、私には影で見ていて欲しいと言った。近くの電柱の影に隠れ、目を逸らすことなく、一挙手一投足を見守ることにした。しばらくすると、震えながら、何度も手を止めながらも結衣はインターホンを押した。ドタドタと大きな音がした後、扉が素早く開いた。「はーい!」私のところまで響いた大きな声は、すぐに唸り声のように変わった。「...あんた...戻ってきたの?逃げ出しておいて?.......私たちだって、誰も助けてくれないのよ?」結衣はただ震え、何も言わなかった。「なんで死んだ姉さんの子供まで私が面倒見なきゃいけないの!?私らだって生活が苦しいのに!」肩を激しく掴み、強く揺さぶりながら結衣が言葉を発するまもなく怒鳴り続けていた。やはりあの日、彼女は母親が死んだ時の夢を見たのだろう。「ママがいなくて寂しいなんて思うなら、あの事故とき、あんたも死ねばよかったじゃない!」『......!』しゃがみ込んで動かなくなった結衣を見て、私は駆け出し、感情のままに怒鳴った。『……死んだほうがいいなんて、誰にも言えない...』
それだけしか、言えなかった。涙で顔が見えないが、彼女は鬼のような顔で私を見ていた。「私たちだって生活が苦しいんだよ!あんたにはわからないだろ!?こいつなんて、迷惑だから...もう帰ってこないで...私だって自分の居場所を守りたいの」一瞬だけ結衣を見た。彼女は縮こまっていた。涙でぼやけ、顔は見えない。ただ叫んだ。『……離して。この子は……ここにいちゃだめだ』泣き叫ぶ私を見て、彼女は意外に冷静だった。「あらそう。なら、早くこいつを連れて出ていけ!二度と来るんじゃない!」扉が強く閉められ、また大きな音が響いた。突然、胸のあたりを強く押された。
バランスを崩して倒れた私の前で、結衣が泣きながら手を振り上げた。「なんで!見ていて欲しいって言ったのに!なんで!なんで...なんでよぉ...」ただ見つめ続けた。私の顔に降り注ぐ涙は、怒りの涙じゃない。
叫びたいのに、声は喉の奥で止まったまま動かない。
何秒経ったのかも、わからなくなる。
彼女は誰かにぶつける代わりに、笑うことを覚えたのだ。やがて結衣の手が止まり、次の瞬間、結衣は私に抱きついた。「...ありがとう...ごめんなさい......もうママのことも...叔母さんのことも全部忘れたい...」泣いているような、笑っているような不思議な声だった。彼女はふらふらと家の方向に歩き始めながら言った。「……ここ、帰る場所じゃないって、わかってた...。でも……他に、行くところ、思いつかなかった」彼女は涙でぐしゃぐしゃの笑顔で私を見た。空気が揺らいだ。周りの音が聞こえなくなり、風だけを感じる。いつか見た、火が差し込むような、それでも、彼女の手は震えていた。温かさは、まだ不安定だった。笑顔だ。私が、どうしても見たかった、優しい春の日差しのような笑顔だ。「……もうすぐ夜だ...」
結衣は私の手を取った。その温かい手が、まだ震えていた。それでも、確かに“生きている”温かさだった。
……けれど、夜という言葉が、私を現実へ引き戻したが。視界の端に、相変わらず影はあった。
それでも、今は――
彼女の手の温度のほうが、はっきりしていた。
彼女の笑顔は、やっと出会えたその笑顔は、私が胸の奥で消えることはないだろう。
ただ、それをそう呼んでいいのかは、わからなかった。結衣は、叔母の家で暮らしているらしい。けれど。今までの結衣の様子や表情を見れば、その場所が“帰る場所”と呼べるものではないことは、想像に難くなかった。気づいてしまった。──この数日、誰も彼女を探していなかったことに。いなくなったことは、きっと知っていたはずなのに。探すことも、通報さえしなかったのだろう。
そのとき、結衣の声が、静けさを破った。
「どこの夜景を...見に行くの...?」『……生駒山っていう山があるんだ。私たちの家も、見つけられないくらい小さいけど、そこからなら見えると思う。』「……わかんない。けど……きれいなんだろうなぁ。」彼女の瞳には、やわらかな光が宿っていた。私はこの光をずっと見ていたかった。何日でも、何年でも。今日の夜に、消えてしまうその光を。私は、まだ何もできていない。
ただ、ここに立っているだけだ。
見ないようにしても、視界の端に、消えない影があった。
結衣の足が止まるまで、私はその光に見惚れていた。
****
結衣が足を止め、年季の入った一軒家の扉の前で大きく息を吸った。彼女の目の光が、絵に描いたように消えてゆく。彼女は、私には影で見ていて欲しいと言った。近くの電柱の影に隠れ、目を逸らすことなく、一挙手一投足を見守ることにした。しばらくすると、震えながら、何度も手を止めながらも結衣はインターホンを押した。ドタドタと大きな音がした後、扉が素早く開いた。「はーい!」私のところまで響いた大きな声は、すぐに唸り声のように変わった。「...あんた...戻ってきたの?逃げ出しておいて?.......私たちだって、誰も助けてくれないのよ?」結衣はただ震え、何も言わなかった。「なんで死んだ姉さんの子供まで私が面倒見なきゃいけないの!?私らだって生活が苦しいのに!」肩を激しく掴み、強く揺さぶりながら結衣が言葉を発するまもなく怒鳴り続けていた。やはりあの日、彼女は母親が死んだ時の夢を見たのだろう。「ママがいなくて寂しいなんて思うなら、あの事故とき、あんたも死ねばよかったじゃない!」『......!』しゃがみ込んで動かなくなった結衣を見て、私は駆け出し、感情のままに怒鳴った。『……死んだほうがいいなんて、誰にも言えない...』
それだけしか、言えなかった。涙で顔が見えないが、彼女は鬼のような顔で私を見ていた。「私たちだって生活が苦しいんだよ!あんたにはわからないだろ!?こいつなんて、迷惑だから...もう帰ってこないで...私だって自分の居場所を守りたいの」一瞬だけ結衣を見た。彼女は縮こまっていた。涙でぼやけ、顔は見えない。ただ叫んだ。『……離して。この子は……ここにいちゃだめだ』泣き叫ぶ私を見て、彼女は意外に冷静だった。「あらそう。なら、早くこいつを連れて出ていけ!二度と来るんじゃない!」扉が強く閉められ、また大きな音が響いた。突然、胸のあたりを強く押された。
バランスを崩して倒れた私の前で、結衣が泣きながら手を振り上げた。「なんで!見ていて欲しいって言ったのに!なんで!なんで...なんでよぉ...」ただ見つめ続けた。私の顔に降り注ぐ涙は、怒りの涙じゃない。
叫びたいのに、声は喉の奥で止まったまま動かない。
何秒経ったのかも、わからなくなる。
彼女は誰かにぶつける代わりに、笑うことを覚えたのだ。やがて結衣の手が止まり、次の瞬間、結衣は私に抱きついた。「...ありがとう...ごめんなさい......もうママのことも...叔母さんのことも全部忘れたい...」泣いているような、笑っているような不思議な声だった。彼女はふらふらと家の方向に歩き始めながら言った。「……ここ、帰る場所じゃないって、わかってた...。でも……他に、行くところ、思いつかなかった」彼女は涙でぐしゃぐしゃの笑顔で私を見た。空気が揺らいだ。周りの音が聞こえなくなり、風だけを感じる。いつか見た、火が差し込むような、それでも、彼女の手は震えていた。温かさは、まだ不安定だった。笑顔だ。私が、どうしても見たかった、優しい春の日差しのような笑顔だ。「……もうすぐ夜だ...」
結衣は私の手を取った。その温かい手が、まだ震えていた。それでも、確かに“生きている”温かさだった。
……けれど、夜という言葉が、私を現実へ引き戻したが。視界の端に、相変わらず影はあった。
それでも、今は――
彼女の手の温度のほうが、はっきりしていた。
彼女の笑顔は、やっと出会えたその笑顔は、私が胸の奥で消えることはないだろう。
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