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四年越しの思い
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家に入っても、何かにじっと耐えているように久秀は何も言わないでいる。
咲良は家中を確認して、荒らされていないことにホッと息を吐いた。
納戸を開け、大きな風呂敷をとり出して久秀のために縫いあげていた着物一式を包む。
そして新之助の長刀のために貯めていた十五両を袱紗に包んだ。
「旦那様、お風呂に致しましょうか」
久秀は何も言わず立ち上がり、井戸に向かった。
湯船にザバザバと水を汲み入れる音がし始め、咲良は台所に立って湯を沸かした。
二合徳利に上酒を入れ、燗をつける準備をする。
肴は漬物しかないが仕方がない。
咲良が使っていた四畳半に布団を並べて敷き、開け放してあった襖を半分だけ閉めた。
「旦那様、どうぞお先に」
久秀は頷くだけで、やはり何も言わなかった。
咲良が持っている唯一の絹物を選び、帯と懐剣をその上に乗せ明日の準備を整える。
黙ったまま風呂から出た久秀が、台所の板の間に腰かけた。
「私もお湯を使わせていただきますね。お酒の準備はできておりますので」
久秀を残し咲良は風呂に向かう。
丁寧に体を洗い、髪を解いた。
洗い髪を乾かして、ゆったりと首の下で結び、久秀から貰った櫛だけを飾る。
「旦那様」
のろのろと振り返った久秀の目が、みるみる大きくなった。
「咲良?」
「私も頂戴いたしとうございます」
「あ……うん」
久秀が猪口を渡して酌をする。
湯で火照った咲良の喉がゴクッと上下に動いた。
「あら、美味しい」
咲良が嬉しそうな顔をした。
「ねえ咲良、俺の名前を言ってくれ」
「安藤久秀様……」
「うん、そうだ。お前の夫の名は安藤久秀だ」
「はい」
「そして俺の妻の名前は安藤咲良だ」
「はい、嬉しゅうございます」
「どうしても行くの?」
「はい、どうしても参ります」
「俺は……どうしようもなくつまらん男だな」
咲良が驚いた顔をした。
「いいえ? 私は新之助様のために参るのでございますよ?」
「え? ははは……そうか」
「そして私は久秀様のために、必ずここに戻って参ります」
久秀が半泣きの笑顔を浮かべた。
「行くのは新之助のためで、帰ってくるのは俺のためか……うん、必ず戻ってこい。ずっとずっと一緒に暮らそうな」
「はい。ずっと一緒にいさせてくださいませ」
久秀が咲良の体を抱きしめた。
唇が重なり、咲良の吐息が漏れる。
「久秀様……お願い……抱いて」
久秀は咲良の体を抱き上げて、奥の部屋へと入っていった。
布団の上に咲良をおろした久秀が、正座をして膝に手を置いて、大きく息を吸った。
座りなおした咲良の顔が、ほんのりとほほ笑む。
「咲良さん、俺と夫婦になってください。ずっと愛おしく思っておりました。俺の家族に……家族になって欲しい……」
久秀が深く頭を下げる。
「はい、久秀様の妻として生涯お側を離れません。久秀様と咲良は家族です」
そして二人は初めて体を重ね、互いの思いをぶつけ合った。
咲良の破瓜の血を吸った浴衣を見た久秀は、何を捨ててもこの女を守ると誓った。
あの事件からすでに四年という月日が流れている。
乱れ髪のまま自分の腕の中で眠る女の頬に唇を寄せ、何度もその名を呟く久秀だった。
そして翌朝、お嶋に頼んで髪結いを呼んでもらった咲良は、武家の妻らしく、その黒髪を勝山に結いあげた。
絹物を纏い懐剣を帯に差せば、どこから見ても武家の妻女だ。
宇随はすでに柴田道場に向かっており、お市もお嶋も外出の準備を済ませていた。
「旦那様。いえ、久秀様。この着物は大願成就を祈念しながら、心を込めて縫いあげました。それと、これは新之助様の長剣を求めるために用意した金子でございます。久秀様が選んで差し上げてくださいませ」
「うん。わかった。ありがとう咲良」
「それではそろそろ参ります」
「咲良……必ず助ける。俺を信じて待て」
「はい」
三人の女たちが柳屋を出た。
番頭が板場を差配し弁当の準備を進めている。
久秀は追い縋りたい気持ちを無理に押し込め、愛しい女の無事を神仏に祈った。
「久さん、そろそろ行けるぜ」
番頭から声が掛かり、久秀が腰を上げた。
「今日はどこかな?」
「今日も肥後屋が一番だよ。胡蝶太夫も柳葉太夫も注文してくれている」
「柳葉……わかった。では行ってくるよ」
事情を知らない番頭は、いつものように明るく久秀を送り出す。
久秀はどれほどのことがあろうとも、必ず成し遂げる覚悟をしていた。
丁稚二人が弁当の入った番重を荷車に乗せて引いている。
日本堤の見返り柳がしゃなりと風に揺れた。
咲良は家中を確認して、荒らされていないことにホッと息を吐いた。
納戸を開け、大きな風呂敷をとり出して久秀のために縫いあげていた着物一式を包む。
そして新之助の長刀のために貯めていた十五両を袱紗に包んだ。
「旦那様、お風呂に致しましょうか」
久秀は何も言わず立ち上がり、井戸に向かった。
湯船にザバザバと水を汲み入れる音がし始め、咲良は台所に立って湯を沸かした。
二合徳利に上酒を入れ、燗をつける準備をする。
肴は漬物しかないが仕方がない。
咲良が使っていた四畳半に布団を並べて敷き、開け放してあった襖を半分だけ閉めた。
「旦那様、どうぞお先に」
久秀は頷くだけで、やはり何も言わなかった。
咲良が持っている唯一の絹物を選び、帯と懐剣をその上に乗せ明日の準備を整える。
黙ったまま風呂から出た久秀が、台所の板の間に腰かけた。
「私もお湯を使わせていただきますね。お酒の準備はできておりますので」
久秀を残し咲良は風呂に向かう。
丁寧に体を洗い、髪を解いた。
洗い髪を乾かして、ゆったりと首の下で結び、久秀から貰った櫛だけを飾る。
「旦那様」
のろのろと振り返った久秀の目が、みるみる大きくなった。
「咲良?」
「私も頂戴いたしとうございます」
「あ……うん」
久秀が猪口を渡して酌をする。
湯で火照った咲良の喉がゴクッと上下に動いた。
「あら、美味しい」
咲良が嬉しそうな顔をした。
「ねえ咲良、俺の名前を言ってくれ」
「安藤久秀様……」
「うん、そうだ。お前の夫の名は安藤久秀だ」
「はい」
「そして俺の妻の名前は安藤咲良だ」
「はい、嬉しゅうございます」
「どうしても行くの?」
「はい、どうしても参ります」
「俺は……どうしようもなくつまらん男だな」
咲良が驚いた顔をした。
「いいえ? 私は新之助様のために参るのでございますよ?」
「え? ははは……そうか」
「そして私は久秀様のために、必ずここに戻って参ります」
久秀が半泣きの笑顔を浮かべた。
「行くのは新之助のためで、帰ってくるのは俺のためか……うん、必ず戻ってこい。ずっとずっと一緒に暮らそうな」
「はい。ずっと一緒にいさせてくださいませ」
久秀が咲良の体を抱きしめた。
唇が重なり、咲良の吐息が漏れる。
「久秀様……お願い……抱いて」
久秀は咲良の体を抱き上げて、奥の部屋へと入っていった。
布団の上に咲良をおろした久秀が、正座をして膝に手を置いて、大きく息を吸った。
座りなおした咲良の顔が、ほんのりとほほ笑む。
「咲良さん、俺と夫婦になってください。ずっと愛おしく思っておりました。俺の家族に……家族になって欲しい……」
久秀が深く頭を下げる。
「はい、久秀様の妻として生涯お側を離れません。久秀様と咲良は家族です」
そして二人は初めて体を重ね、互いの思いをぶつけ合った。
咲良の破瓜の血を吸った浴衣を見た久秀は、何を捨ててもこの女を守ると誓った。
あの事件からすでに四年という月日が流れている。
乱れ髪のまま自分の腕の中で眠る女の頬に唇を寄せ、何度もその名を呟く久秀だった。
そして翌朝、お嶋に頼んで髪結いを呼んでもらった咲良は、武家の妻らしく、その黒髪を勝山に結いあげた。
絹物を纏い懐剣を帯に差せば、どこから見ても武家の妻女だ。
宇随はすでに柴田道場に向かっており、お市もお嶋も外出の準備を済ませていた。
「旦那様。いえ、久秀様。この着物は大願成就を祈念しながら、心を込めて縫いあげました。それと、これは新之助様の長剣を求めるために用意した金子でございます。久秀様が選んで差し上げてくださいませ」
「うん。わかった。ありがとう咲良」
「それではそろそろ参ります」
「咲良……必ず助ける。俺を信じて待て」
「はい」
三人の女たちが柳屋を出た。
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久秀は追い縋りたい気持ちを無理に押し込め、愛しい女の無事を神仏に祈った。
「久さん、そろそろ行けるぜ」
番頭から声が掛かり、久秀が腰を上げた。
「今日はどこかな?」
「今日も肥後屋が一番だよ。胡蝶太夫も柳葉太夫も注文してくれている」
「柳葉……わかった。では行ってくるよ」
事情を知らない番頭は、いつものように明るく久秀を送り出す。
久秀はどれほどのことがあろうとも、必ず成し遂げる覚悟をしていた。
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