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佃島へ
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お朝の家がある本所南町から鉄砲洲の船着き場までなら、横川沿いをまっすぐ下り、仙台掘りから永代橋を渡れば、大人の足なら一刻もかからない。
日ごろから鍛え上げている男たちの早足なら、半刻ほどで着く距離だ。
「今の鐘は?」
宇随の声に柴田が答える。
「木戸閉まり前の知らせでしょう。囚人の護送があるなら相当な数の同心が霊岸島あたりをうろうろしているはずですよね」
「なるほど、佃島も同じだろうか」
柴田が続ける。
「聞いた話ですが、佃島と言っても囚人たちは船から船へ移すらしいです。出張っているとしたら御船手組でしょうね」
久秀が顔を向けた。
「船から船だと? だとしたら荷はどこで積むのだ?」
柴田が難しい顔をした。
宇随がひょいと思いついたように言う。
「食料以外は数日前かもしれんな。八丈大船はどこから出るんだ?」
「大船は浅瀬には入れないのですよ。だから佃島で停泊して待っている……囚人たちを乗せたらすぐに出港でしょうね。だからそれより先に乗せておく必要があるわけだ……しかしその小舟はどこから出すのだろう」
「あの近くに山名藩にかかわる屋敷があっただろうか……船が出せるような場所……」
久秀が宙を睨んだ。
柴田がポンと久秀の肩を叩く。
「山名藩の上屋敷は四谷だが、次兄の妾の家ならここから近いぜ?」
「え?」
柴田が眉を下げながら言った。
「偶然だが次兄を見かけたことがあるんだ。確か木挽橋の近くだった」
「木挽橋?」
「ああ、あそこなら汐留を廻れば下手から佃島に渡れる。行くか?」
宇随が声を出す。
「当たっていれば御の字だが、万が一ということもある。賭けだな……」
久秀が静かな声で言った。
「目的地は佃島というのは絶対ですから、確実な方を狙いましょう。柴田と山本、そして正晴と女が三人となると、木挽橋あたりの川に入る小舟一艘では無理だ。二艘で出ると考えるのが妥当だと思います」
「どう分ける?」
「山本と女が三人、そして柴田と正晴でしょうか」
「ああ、俺もそう思う」
敢えて咲良を『女』と一括りに言った久秀を、宇随が悲痛な目で見た。
柴田がふと疑問を口にする。
「富士屋は?」
「奴らはすでに生きてはおるまい。その木挽町の家にでも転がっているんじゃないか?」
「まあどうでも良いことだ」
「どちらにしても陸に降ろさねばなるまいよ。先ほどの割り振りが正解なら、図らずも俺たちの相手と、お前たちの相手が別舟ということだ」
三人が難しい顔をしていた時、ずっと黙って控えていた新之助が声を出した。
「あ……あれは……柳屋の番頭さんではないですか?」
「え?」
振り向くと着物を尻まで絡げた男が懸命に走って来る。
「お~い、久さん」
「どうした! 柳屋で何かあったのか!」
「いや、違うよ。権さんの使いというのが柳屋に来て、三河屋の船を鉄砲洲から出すって伝えてくれと言うのさ。それと御船手組は権さんが差配するってさ。女将さんが合言葉で確認したから、味方で間違いねぇ」
「え? でも護送……」
「延期だそうだよ」
ずっと駆けてきたのだろう、男の額にはびっしりと汗が浮いている。
「そいつはありがたい。ご苦労だったなぁ」
「いやいや、なんてことはないさ。俺っちは剣は使えねえから邪魔になってもいけねぇからすぐに戻るよ。いいかい? 伝えたよ」
「ああ、助かった。気を付けて帰ってくれ」
「それと宇随さん」
宇随が口角を上げた。
「ままちゃは難し過ぎるって。あれから大変だったんだぜ? 米を洗わせたら半分は流しちまうし、小豆をゆでさせたら焦がしちまうし」
「ははは! そいつは悪かった。迷惑をかけたなぁ」
「迷惑じゃないけれど、宇随さんの口に入るのは、コゲ飯かコワ飯のどちらかだろうぜ。まあ、あの別嬪さんが必死こいて頑張ったということだけはわかってやっておくんなさいな」
「ああ、しかと承知した。お陰で百人力を得た思いだよ。気を付けて帰ってくれ」
「うん、じゃあ俺っちは帰って食えるままちゃを炊いておくよ。新ちゃん、帰ってくるのを皆で待ってるぜ。必ず帰って来いよ」
新之助が笑顔を浮かべた。
「はい! 必ず帰っておいしいご飯を頂戴いたします」
男は手を振って戻って行った。
柴田が言う。
「とにかく佃島だな」
その時、鉄砲洲の本港から三河屋の旗を掲げた船が近づいてきた。
「お~い、こっちこっち」
久秀たちがそちらを見ると、三河屋の三良坂弥右衛門が乗っている。
「あんた……三良坂さんか」
「早く乗ってくださいな。佃島に向かいますよ」
合言葉のつもりなのだろうか、紅白の手旗を振っている。
一瞬迷ったが考える暇は無いとばかりに、久秀が一歩踏み出した。
その後ろを新之助が続き、宇随と柴田も頷きあう。
日ごろから鍛え上げている男たちの早足なら、半刻ほどで着く距離だ。
「今の鐘は?」
宇随の声に柴田が答える。
「木戸閉まり前の知らせでしょう。囚人の護送があるなら相当な数の同心が霊岸島あたりをうろうろしているはずですよね」
「なるほど、佃島も同じだろうか」
柴田が続ける。
「聞いた話ですが、佃島と言っても囚人たちは船から船へ移すらしいです。出張っているとしたら御船手組でしょうね」
久秀が顔を向けた。
「船から船だと? だとしたら荷はどこで積むのだ?」
柴田が難しい顔をした。
宇随がひょいと思いついたように言う。
「食料以外は数日前かもしれんな。八丈大船はどこから出るんだ?」
「大船は浅瀬には入れないのですよ。だから佃島で停泊して待っている……囚人たちを乗せたらすぐに出港でしょうね。だからそれより先に乗せておく必要があるわけだ……しかしその小舟はどこから出すのだろう」
「あの近くに山名藩にかかわる屋敷があっただろうか……船が出せるような場所……」
久秀が宙を睨んだ。
柴田がポンと久秀の肩を叩く。
「山名藩の上屋敷は四谷だが、次兄の妾の家ならここから近いぜ?」
「え?」
柴田が眉を下げながら言った。
「偶然だが次兄を見かけたことがあるんだ。確か木挽橋の近くだった」
「木挽橋?」
「ああ、あそこなら汐留を廻れば下手から佃島に渡れる。行くか?」
宇随が声を出す。
「当たっていれば御の字だが、万が一ということもある。賭けだな……」
久秀が静かな声で言った。
「目的地は佃島というのは絶対ですから、確実な方を狙いましょう。柴田と山本、そして正晴と女が三人となると、木挽橋あたりの川に入る小舟一艘では無理だ。二艘で出ると考えるのが妥当だと思います」
「どう分ける?」
「山本と女が三人、そして柴田と正晴でしょうか」
「ああ、俺もそう思う」
敢えて咲良を『女』と一括りに言った久秀を、宇随が悲痛な目で見た。
柴田がふと疑問を口にする。
「富士屋は?」
「奴らはすでに生きてはおるまい。その木挽町の家にでも転がっているんじゃないか?」
「まあどうでも良いことだ」
「どちらにしても陸に降ろさねばなるまいよ。先ほどの割り振りが正解なら、図らずも俺たちの相手と、お前たちの相手が別舟ということだ」
三人が難しい顔をしていた時、ずっと黙って控えていた新之助が声を出した。
「あ……あれは……柳屋の番頭さんではないですか?」
「え?」
振り向くと着物を尻まで絡げた男が懸命に走って来る。
「お~い、久さん」
「どうした! 柳屋で何かあったのか!」
「いや、違うよ。権さんの使いというのが柳屋に来て、三河屋の船を鉄砲洲から出すって伝えてくれと言うのさ。それと御船手組は権さんが差配するってさ。女将さんが合言葉で確認したから、味方で間違いねぇ」
「え? でも護送……」
「延期だそうだよ」
ずっと駆けてきたのだろう、男の額にはびっしりと汗が浮いている。
「そいつはありがたい。ご苦労だったなぁ」
「いやいや、なんてことはないさ。俺っちは剣は使えねえから邪魔になってもいけねぇからすぐに戻るよ。いいかい? 伝えたよ」
「ああ、助かった。気を付けて帰ってくれ」
「それと宇随さん」
宇随が口角を上げた。
「ままちゃは難し過ぎるって。あれから大変だったんだぜ? 米を洗わせたら半分は流しちまうし、小豆をゆでさせたら焦がしちまうし」
「ははは! そいつは悪かった。迷惑をかけたなぁ」
「迷惑じゃないけれど、宇随さんの口に入るのは、コゲ飯かコワ飯のどちらかだろうぜ。まあ、あの別嬪さんが必死こいて頑張ったということだけはわかってやっておくんなさいな」
「ああ、しかと承知した。お陰で百人力を得た思いだよ。気を付けて帰ってくれ」
「うん、じゃあ俺っちは帰って食えるままちゃを炊いておくよ。新ちゃん、帰ってくるのを皆で待ってるぜ。必ず帰って来いよ」
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「はい! 必ず帰っておいしいご飯を頂戴いたします」
男は手を振って戻って行った。
柴田が言う。
「とにかく佃島だな」
その時、鉄砲洲の本港から三河屋の旗を掲げた船が近づいてきた。
「お~い、こっちこっち」
久秀たちがそちらを見ると、三河屋の三良坂弥右衛門が乗っている。
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「早く乗ってくださいな。佃島に向かいますよ」
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