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 その日、さおりはあわてて勤務先を飛び出した。
 ホステスの衣裳のままコートだけを羽織り、ピンヒールで駆けていく。
 衣裳の裾が踊り、太ももが露になろうと気にもせず、ただひたすら走っていた。

「すぐ行くからね、瞬ちゃん頑張るんだよ」

 さおりは赤坂のクラブで働くホステスだ。
 大学在学中に妊娠したが、それを知った恋人はあっさりとさおりを捨てた。
 その時にはすでに産むしかない月齢になっており、さおりは中退してシングルマザーとなる道を選んだのだった。

「気をつけろ! 危ないだろ!」

 信号が変わると同時に交差点に走り込んださおりの背中に、赤信号ぎりぎりで突っ込んできたタクシーの運転手が怒鳴る。

「そっちが赤だったわよ! あんたこそどこ見てんのよ!」

 走りながら言い返すさおり。
 そう、さおりはとても気の強い女だった。
 その気性を愛し、店に通ってくれる馴染みも多く、同伴もアフターも全部断っているにも関わらず、売り上げは常にトップスリーをキープしていた。
 そんなさおりを大切にしたいのだろう。
 今日のような夜間保育園からの緊急呼び出しにも、悪い顔もせず送り出してくれるのだ。
 とにかく就学するまでに、なんとか纏まったお金を貯めたいさおりにとって、まさに理想的な職場環境だった。

「遅くなりました! 瞬ちゃん! ママだよ」

「ママ~」

 真っ赤な顔で、おでこに冷却ジェルを貼ってもらった5歳の息子が駆け寄ってきた。

「ああ、早かったですね~。助かります」

 さおりより10歳は年上だろう保育士が、あまり似合わないピンクのギンガムチェックのスモック姿でやってきた。

「どうもすみません。来るときは何でもなかったんですが」

「ええ、このくらいのお子さんに急な発熱はつきものですから。緊急搬送するほどでは無いと判断して、冷却ジェルで様子を見ていました。吐き気はありませんし、運動量もそれほど落ちてはいません。もうとにかくママを探して泣いちゃって」

「甘えん病ですかね。時々あるんです。今日はこのまま連れて帰ります。本当にお世話になっちゃって、ありがとうございました」

 今夜の緊急当番医がプリントしてある紙を渡され、息子を抱き上げて夜間保育園を出たさおりは、足首の痛みに顔を顰めた。

「ピンヒールで走り続けるなんて、無謀だったわね」

 このヒールはもうダメかもしれない。
 そんなことを考えながら信号待ちをしていた時、ハンドバッグに入れている携帯電話が振動した。
 面倒なので無視しようかとも思ったが、かなりしつこくなり続ける。
 仕方なく、息子を一旦降ろすために屈んだ瞬間、ドンという衝撃を体に受けた。

「瞬ちゃん!」

 本能的に息子を抱きしめ、右手でその小さな頭を庇う。
 痛みを感じる暇も無く、気を失ったままさおりは、愛息子と一緒にその生涯を閉じた。
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