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「マリア……あの……どこか痛いところはないかい?」
トーマスの声が少し震えている。
「うん、背中と頭がぴきって痛いの。あなたはだあれ? マリアのおにいちゃまはどこ?」
「マリア……」
ベッドの側で呆然とするトーマスに王宮医が声を掛けた。
「まだ目覚めたばかりです。少し混乱しているだけかもしれない。ゆっくり休ませてあげましょう。皆様はこちらへ」
看護師とメイドを残し、王宮医が三人をドアの外へと誘導した。
「先生……あれは?」
最初に声を出せたのはアレンだった。
「考えられる事は三つあります。ひとつ目はただ混乱しているだけの意識の混濁です。二つ目は強い衝撃とストレスによる幼児退行。三つめは多重人格障害です」
「なんですか? それは」
素っ頓狂な声を出したのはトーマスだ。
「幼児退行というのは、文字通り幼児に戻ってしまうことです。成人であるにもかかわらず、何らかの原因により、精神が子供時代に戻ってしまうことですね。現実逃避と混同されがちですが、まったく違うものなのですよ」
「それで? 多重人格というのは?」
アラバスが眉を寄せながら聞く。
「こちらは新たなアイデンティティが自分の中に突如として生まれるもので、ひとつの体の中に複数の人格が共存している状態です。Aという人格が活性化している時には、それ以外の人格は眠っている事がほとんどなので、記憶を共有する事はないと言われています」
三人は顔を見合わせた。
「詳しく聞こう」
アラバスの一言で、三人と医師は第一王子執務室へと移動した。
落ち着くためだろうか、アラバスがお茶の準備と甘い菓子を命じる。
普段は甘いものなど口にすることもないし、食べても果物がせいぜいであるアラバスの言葉に、メイド達は驚いた。
「急いでくれ。終わったら退出して良い。側近たちがいるのだから、護衛も必要ない。それと誰が来ても今は会えないと断ってくれ」
「畏まりました」
鍛え上げられた王宮の使用人たちは、主の言葉を正確に履行した。
静かになった部屋の中に、甘酸っぱい香りが漂っている。
「先生、続きを頼む」
カップを置いたアラバスが王宮医師を促す。
「はい……と申しましても、先ほどお話ししたことが全てに近いです。原因は不明ですが、一般的にストレスだとか外的衝撃だと言われています」
「まあ、良く分からない病因のほとんどはストレスか老化で片づけてしまうからな。それで? 治る見込みはあるのか?」
この場で一番冷静に見えるアレンが聞いた。
「それも良く分かっていません。脳の病理分野は今から百年前とほとんど変わらないという程度しか進歩してないのですよ。病理分野というか、脳というのは神が与えたもうとしか思えないほど神秘な世界です。頭をカチ割って調べても、その対象が死んでいては脳自体が反応しないでしょう? 調べようが無いのです」
アラバスがため息混じりに言う。
「まあその通りかもな。なるほど百年経っても進歩していないというのも頷けるよ。しかし先生は先程『外的衝撃』とか『ストレス』だと言ったね? それはなぜ分かったのだ?」
医者がこくんとひとつ頷いた。
「単純にデータの蓄積です。正直に言うと、それ以外の方法がないのです。同じ症状を診察した医師たちが、長年にわたって情報を残し、それを共有をしてきた結果とでも言いましょうか……ですから、本当にそれが正しいのかと問われたら、頷くことはできません。あくまでも経験則的な回答でしかありませんからね」
「あなたの言うことは良く分かった。それで? 治るのか?」
「それもはっきりとは申せません。治った患者もいれば、そのまま一生を終えた患者もいますし、周りの理解を得られないまま、自らの命を儚くした患者もいます」
「儚く? それは自ら命を断ったということか?」
「はい、その患者を囲む環境というのはとても重要なのです。そういう症状を抱えた病人なのだと、正しく理解しないと正しい対処ができないのですね。ただの我儘だとか、気が狂ったのだとか、本当に辛いのは本人なのに……」
「なるほどな。それで? 治療法は確立されているのか?」
「時間薬のようなものですが、ストレスの根幹となるものは遠ざけるべきでしょう。後は……幼児退行であれば、本人のやりたいようにさせてそれに付き合うしかありません。多重人格障害であれば、その時顕在化した人格に寄り添うしか無いでしょう」
「薬のようなものは?」
「ありません。敢えて言うなら、気分を和らげるハーブティーのようなものでしょうか」
「周囲のものが気を付けるべきことはあるか?」
「幼児退行であれ、多重人格障害であれ、当人を否定しないことです。話をじっくり聞くことも大切でしょう。特に多重人格障害の場合、出てきた人格ごとに寄り添うことが必要です。きちんと話を聞いた上で、それを肯定するのです。そうすれば、人格が乖離する頻度を減らしていけます。上手くいけば複数の人格が上手く融合して一人になったという症例もあるのです」
「……まさに神秘だな」
アラバスの声は空しい響きを含んでいた。
トーマスの声が少し震えている。
「うん、背中と頭がぴきって痛いの。あなたはだあれ? マリアのおにいちゃまはどこ?」
「マリア……」
ベッドの側で呆然とするトーマスに王宮医が声を掛けた。
「まだ目覚めたばかりです。少し混乱しているだけかもしれない。ゆっくり休ませてあげましょう。皆様はこちらへ」
看護師とメイドを残し、王宮医が三人をドアの外へと誘導した。
「先生……あれは?」
最初に声を出せたのはアレンだった。
「考えられる事は三つあります。ひとつ目はただ混乱しているだけの意識の混濁です。二つ目は強い衝撃とストレスによる幼児退行。三つめは多重人格障害です」
「なんですか? それは」
素っ頓狂な声を出したのはトーマスだ。
「幼児退行というのは、文字通り幼児に戻ってしまうことです。成人であるにもかかわらず、何らかの原因により、精神が子供時代に戻ってしまうことですね。現実逃避と混同されがちですが、まったく違うものなのですよ」
「それで? 多重人格というのは?」
アラバスが眉を寄せながら聞く。
「こちらは新たなアイデンティティが自分の中に突如として生まれるもので、ひとつの体の中に複数の人格が共存している状態です。Aという人格が活性化している時には、それ以外の人格は眠っている事がほとんどなので、記憶を共有する事はないと言われています」
三人は顔を見合わせた。
「詳しく聞こう」
アラバスの一言で、三人と医師は第一王子執務室へと移動した。
落ち着くためだろうか、アラバスがお茶の準備と甘い菓子を命じる。
普段は甘いものなど口にすることもないし、食べても果物がせいぜいであるアラバスの言葉に、メイド達は驚いた。
「急いでくれ。終わったら退出して良い。側近たちがいるのだから、護衛も必要ない。それと誰が来ても今は会えないと断ってくれ」
「畏まりました」
鍛え上げられた王宮の使用人たちは、主の言葉を正確に履行した。
静かになった部屋の中に、甘酸っぱい香りが漂っている。
「先生、続きを頼む」
カップを置いたアラバスが王宮医師を促す。
「はい……と申しましても、先ほどお話ししたことが全てに近いです。原因は不明ですが、一般的にストレスだとか外的衝撃だと言われています」
「まあ、良く分からない病因のほとんどはストレスか老化で片づけてしまうからな。それで? 治る見込みはあるのか?」
この場で一番冷静に見えるアレンが聞いた。
「それも良く分かっていません。脳の病理分野は今から百年前とほとんど変わらないという程度しか進歩してないのですよ。病理分野というか、脳というのは神が与えたもうとしか思えないほど神秘な世界です。頭をカチ割って調べても、その対象が死んでいては脳自体が反応しないでしょう? 調べようが無いのです」
アラバスがため息混じりに言う。
「まあその通りかもな。なるほど百年経っても進歩していないというのも頷けるよ。しかし先生は先程『外的衝撃』とか『ストレス』だと言ったね? それはなぜ分かったのだ?」
医者がこくんとひとつ頷いた。
「単純にデータの蓄積です。正直に言うと、それ以外の方法がないのです。同じ症状を診察した医師たちが、長年にわたって情報を残し、それを共有をしてきた結果とでも言いましょうか……ですから、本当にそれが正しいのかと問われたら、頷くことはできません。あくまでも経験則的な回答でしかありませんからね」
「あなたの言うことは良く分かった。それで? 治るのか?」
「それもはっきりとは申せません。治った患者もいれば、そのまま一生を終えた患者もいますし、周りの理解を得られないまま、自らの命を儚くした患者もいます」
「儚く? それは自ら命を断ったということか?」
「はい、その患者を囲む環境というのはとても重要なのです。そういう症状を抱えた病人なのだと、正しく理解しないと正しい対処ができないのですね。ただの我儘だとか、気が狂ったのだとか、本当に辛いのは本人なのに……」
「なるほどな。それで? 治療法は確立されているのか?」
「時間薬のようなものですが、ストレスの根幹となるものは遠ざけるべきでしょう。後は……幼児退行であれば、本人のやりたいようにさせてそれに付き合うしかありません。多重人格障害であれば、その時顕在化した人格に寄り添うしか無いでしょう」
「薬のようなものは?」
「ありません。敢えて言うなら、気分を和らげるハーブティーのようなものでしょうか」
「周囲のものが気を付けるべきことはあるか?」
「幼児退行であれ、多重人格障害であれ、当人を否定しないことです。話をじっくり聞くことも大切でしょう。特に多重人格障害の場合、出てきた人格ごとに寄り添うことが必要です。きちんと話を聞いた上で、それを肯定するのです。そうすれば、人格が乖離する頻度を減らしていけます。上手くいけば複数の人格が上手く融合して一人になったという症例もあるのです」
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アラバスの声は空しい響きを含んでいた。
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