愛すべきマリア

志波 連

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 そしてその夜、恙なく体が大きくなる祝福を終えたマリアは、ラングレー公爵夫人の指導で、少しずつマナーなどの授業を進めていった。
 まだ早いと訴える王妃の説得は国王に任せ、アラバス達は仮説の立証に忙しくしている。
 そんなある日のこと、マリアの授業を終えたラングレー公爵夫人がトーマスに会いに来た。

「ラングレー公爵夫人、この度は愚妹がお手数をおかけしております」

 執務室のソファーでお茶を出された公爵夫人が、優雅な手つきでカップを持った。

「いいえ、そんなことは無いの。それより、もしかすると彼女は天才かもしれないわ」

「え?」

 机についていたアラバスとアレンが同時に顔を上げた。

「どういうことです?」

 公爵夫人の横にアレンが座り、アラバスはトーマスと並んで座った。

「奇妙な事があったのよ。私が持ってきていた資料を覗き込んだマリアが、あっという間に解決策を出しちゃったの」

「どういうこと?」

 そう言ったのはアレンだ。

「ラングレー家の領地のことよ。前年に起きた鉄砲水で半壊した農地が、まだ手つかずだったでしょう? もういい加減にどうにかしなくちゃって思って、移動中もその資料を読んでいたの。荒れた農地を再開するための工事手順で迷っていいたのだけれど、マリアちゃんがその資料を見て、その場所で再開してもダメだと言ったのよ。しかもほぼ即答で」

「え? マリアちゃんが?」

「ええ、字は読めないはずなのに、その時にはなぜかスラスラと読めたの。口調はいつものマリアちゃんなのだけれど、喋りはじめた内容は完璧な改善策で、とても三歳児が知っているとは思えないような単語も使ってね。とても分かり易く丁寧に説明してくれたわ」

 アラバスがトーマスに王宮医を呼ぶように言った。
 すぐにやって来た王宮は、ラングレー公爵夫人の話を興味深く聞いた。

「どうやらマリア嬢は幼児退行ではなく多重人格障害かもしれませんなぁ。それも通常のケースとは違い、三歳児のマリアちゃんと十七歳のマリア嬢が同居している状態のようだ」

 ラングレー公爵夫人が目を丸くした。

「そんな事があるの?」

「非常にレアなケースですが、絶対に無いとは言い切れないです。もしかしたら、成長の祝福? その時のスリープラーニングが引き金になっているのかもしれません」

 しれっと自画自賛する王宮医に、トーマスがたたみ掛けるように言う。

「マリアは……マリアはなぜ三歳児になってしまったのでしょう」

 王宮医がひとつ頷いてから声を出した。

「もう一度、あらゆる文献を探ってみますが、私の知っている限りでお話しすると、あの事件の時に、マリア嬢の中で何かが壊れたのでしょう」

「壊れた?」

「ええ。有り体に申しますと、自分の生きてきた時間に絶望した、若しくはやり直せるならやり直したいと思ったのではないでしょうか」

「なるほど、だから三歳児なのか」

 そう言ったのはアラバスだった。

「マリアは母親が生きていた時に戻りたいと、心の底から願ったのかもしれないな。階段を転がり落ちながら、こんなことで死ぬなんて後悔しかないと思ったのではないだろうか」

 アラバスの言葉に、トーマスは唇を嚙んだ。

「だとすると……僕の責任だな」

「それは違うよ、トーマス。そんな顔をするな」

 アレンがトーマスに声を掛けた。

「あの時、入寮はしないと僕が言い張っていれば……すまん、マリア」

 ラングレー公爵夫人がゆっくりと扇を閉じた。

「トーマス君……あなたが行かなければマリアちゃんはもっと酷い目に遭っていたんじゃないかしら。もしかしたら殺されていたかもよ? 前妻の子供なんて邪魔だと考える愛人は少なくないわ。しかも葬儀から数週間で後妻に入ったのでしょう? 尚更よ」

 トーマスが悲痛な顔で夫人を見た。

「きっとあなたが学園に行っている間に、事故か病気か……いずれにしても無事ではなかったはずね。嫡男であるあなたは残す必要があるもの。でもその後に生まれた子供が男だったら、あなたの命も儚かったかも」

 アラバスが溜息を吐いた。

「どうして夫人はそう思われたのですか?」

「あら、だってあの二人は遊ぶのが忙しいでしょう? 留守の間に前妻の子供二人が結託したら困るもの。引き離して疎遠にしなくちゃ。それにどちらかを間引くにしたって、二人を引き離さないといろいろ面倒だわ。でもトーマス君が素直に家を出たでしょう? 残ったのは何もできないマリアちゃんだけ。放置していれば問題ないわ。まあ、あんな人たちでも、子供を殺すのは寝覚めが悪いでしょうしね」

 アレンは『間引く』という言葉を使った母親を妖怪を見るような目で見た。

「それが現実よ、アレン」

 息子の視線などものともせず、公爵夫人は口角を上げた。

「夫人の仰る通りだな。トーマス、お前はあの時正しい決断をしたんだ。そして俺たちに出会った。マリアちゃんのために、お前は死に物狂いで勉強し、見事に側近という立場を勝ち取った。何も間違ってはいないじゃないか」

「ありがとう……ございます」

 アラバスが萎れたトーマスの肩をポンポンと叩く。
 黙って聞いていた王宮医が口を開いた。

「その時のことですが、マリア嬢に何か変化はありましたか?」

 暫し考えた公爵夫人が徐に声を出す。

「なんて言うか……笑顔が違って見えたわ。いつもの天真爛漫なマリアちゃんの笑顔じゃなく、鍛え上げられたアルカイックスマイル? そんな感じね」

「なるほど……何かトリガーになるような出来事はありましたか?」

 数秒考えた後、公爵夫人が答える。

「特に思い当たらないわね……あなた何か気づいたことがあったかしら?」

 夫人が自分についている侍女に聞いた。

「あの日は……カーテシーの初歩練習で椅子を使いました。その時に、バランスを崩して」

 言いかけた侍女を追い越して、公爵夫人が声をあげた。

「ああ! こけたわね。椅子から転がり落ちたの。恥ずかしそうに照れていたけれど、その時はまだいつものマリアちゃんだったでしょう?」

「左様でございますね……では別の何かでしょうか。特には思い当たらないのですが」

「そうよね……」

 王宮医が何か思いついたようにポンと手を打った。

「もしかすると、十七歳のマリア嬢が三歳児のマリアちゃんを助けようと動いたのかもしれません。椅子から落ちるという感覚が、階段から落ちた痛みを思い起こさせたとしたら、自分の代わりに生きなおそうとしているこの子を助けなくちゃって思ったとしても不思議じゃない」

 アラバスの執務室に沈黙が流れた。
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