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24 背水之陣 マーガレット
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(はいすいのじん=切羽詰まって後がない状況に必死で立ち向かう)
あの日、自分が犯した罪を突きつけられ呆然としたマーガレット。
それから数日後、父親に連れられてロベルトと共に向かったのは、母の実家の公爵家。
サザーランド家の執事に案内され、応接室に入った三人の目に飛び込んだのは、他人行儀な笑顔を浮かべた母親と祖父母だった。
『リリア嬢、私の子供たちです。さあ、挨拶をしなさい』
父親が母をリリア嬢と呼んでいるという事実に、マーガレットは動揺した。
戸惑うマーガレットの背中に、優しく手を添えたロベルトが先に口を開く。
『初めてお目にかかります。僕はロベルト……パーシモンと申します。今年で12歳になりました。こちらは妹の……マーガレットでございます。さあ、マーガレット』
マーガレットは拳を握って頷いた。
『初めて……お目に……かかります。マーガレットと申します。9歳です。お会いできて嬉しいです』
震える声で挨拶をしたマーガレットにリリアが駆け寄った。
『マーガレットさん。そんなに震えて、緊張したの? 大丈夫?』
『はい、大変失礼いたしました』
『とても立派なご挨拶でしたよ。私はリリア・サザーランドと申します。あなた方のお父様と結婚するというお話しをいただいている者です。それはあなた方の親になるという事にもなるのだけれど、もし新しい母親は不要だと思うのなら……』
『嫌よ! そんな事言わないで……』
我慢しきれず叫んでしまったマーガレットをリリアが強く抱きしめた。
リリアの胸に顔を押し付けて泣いているマーガレットに代わってロベルトが返事した。
『リリア様。マーガレットは母に何の感情も抱いていません。マーガレットにはリリア様のような優しい母親が必要です。どうか……どうかマーガレットにリリア様の愛をお与えください』
大人たちは静かに聞いていた。
部屋の中にはマーガレットの嗚咽だけが響いている。
公爵夫人が一歩前に出た。
『ロベルト君。きちんと挨拶ができるのね。大したものだわ。学園での生活はどう?少しこちらに来て私にお話ししてちょうだい』
公爵夫人と部屋を出たロベルトを目で追いながら、今度は公爵が口を開いた。
『ジェラルド、少し仕事の話があるんだが良いだろうか?』
『勿論です。マーガレット、リリア嬢のお相手を頼むよ』
『はい、お父様』
二人が部屋を去り、リリアとマーガレットは二人になった。
暫しの沈黙の後、リリアがマーガレットの横に移ってきた。
そして何も言わずもう一度強く抱きしめる。
マーガレットはリリアにしがみついて泣きじゃくり、やがて泣き止んだ。
『もう大丈夫? どうしてかしら、こうしないといけないような気がして。急に抱きしめて嫌ではなかった?』
『嬉しかったです』
『そう? それなら良かったわ。マーガレットさんはとても愛らしいわね。もしも一緒に暮らすようになったら、お揃いのドレスを仕立てましょうね』
もうすでに何着かの揃いのドレスを持っていることなど言えるはずもなく、マーガレットは静かに頷いた。
それからすぐに公爵と一緒に戻ってきたジェラルドは、リリアと子供たちに告げた。
『一年という時間をいただいた。もし一年後にリリア嬢が僕の求婚に頷いてくれたら、結婚を許すとお約束いただいた。一年……一年死ぬ気で頑張ろうと思う』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「さあ、夕方からの授業の準備を始めなくては」
今日の最後の授業は隣国セイレーン語だ。
セイレーンの言語はバジル国と共通点が多く、比較的習得しやすいと言われている。
今でこそ日常的な会話には支障をきたさないが、始めた頃は酷かった。
いきなりやってきた二人の教師がセイレーン語以外の言葉を禁じたのだ。
何を言われているのか分からないまま、辞書だけが渡され、どんどん授業が進んでいく。
そして大量の宿題が渡され、次までにできていなければ容赦なく教鞭で叩かれた。
誰も助けてくれない。
誰も庇ってくれない。
誰も慰めてくれない。
そんな時、一番最初に思い浮かんだ顔は、母だった。
しかし、母は自分の存在を忘れ去っている。
「そこまでのことをしたのは……わたし」
10才になったばかりの子供が、毎日自死を考えた。
一度窓から身を乗り出した時、どこから現れたのか、黒い影に抱きとめられた。
その影は耳元で囁くように言った。
「死ぬのは今じゃないだろう? 逃げるな」
死ぬことさえ許されないのかと嘆いたとき、一通の手紙が届いた。
「おかあさま……」
その手紙を握りしめてマーガレットは泣いた。
眼球が流れ出るほど涙を流した後、もう一度手紙を読み返した。
『マーガレットちゃん、元気ですか? あの日から会うことも叶わず、お父様もご不在の中で、どうしているのか心配しています。きっと頑張ってお勉強しているのでしょうね。私もリハビリ頑張っています。辛いことや悲しいことがあった時、少しでも力になれればと思いながら刺繡をしました。良ければ使ってね。 リリア・サザーランド』
サザーランドという署名を指先で撫でた。
その手紙は今も引き出しの一番上に置いてある。
皇太子妃とアネックス侯爵夫人の授業は、どの教授陣より厳しかった。
中でも一番辛かったのは、ウサギの授業だった。
この宮に来てすぐに、真っ赤な目をした愛らしい黒兎の子供を渡された。
「心から可愛がってやりなさい。全ての世話をあなたがするのよ?」
そういって子兎を手渡してくれたのは皇太子妃だ。
毎日ミルクを与え、藁を食べる様になれば、柔らかい部分を選んで与えた。
体を拭き、糞の始末もした。
大きくなってからは一緒のベッドで眠った。
そして何処に行くにも後ろをついてくる黒兎を心から愛した。
この黒兎が毎日の辛さを癒してくれる唯一のものとなった。
半年も過ぎた頃、皇太子妃が再びマーガレットの部屋を訪れ、唐突に告げた。
「その兎は今夜の晩餐の材料にするの。料理長に渡す? それとも自分で潰す?」
マーガレットは黒兎を抱きしめて泣き叫んだ。
絶対に渡さないと声を荒げ、何度もその場で嘔吐した。
もう何も吐くものが無いのに、それでもせりあがってくる苦い味に悶えた。
「辛い? 自分では殺せないわよね。そんなことをするくらいなら自分が死んだ方が良いって思った?」
マーガレットは何度も頷いた。
「そう、その気持ちが理解できたなら良かったわ。でも兎はこちらに渡しなさい」
抵抗するマーガレットから、あっさりと兎を奪い取った皇太子妃は、振り返りもせず部屋を出た。
残ったマーガレットは、その日の夕食を断り、一人静かに絶望の淵に身を置いた。
あくる日も何事も無かったように一日が始まった。
顔色の悪いマーガレットを気遣う者などいない。
淡々と授業は進み、集中しないと教鞭が振り下ろされた。
数日後、アネックス侯爵夫人がマーガレットを訪ねてきた。
そして黒兎を奪われたあの日、マーガレットが感じた痛みや辛さや苦しさこそ、リリアが記憶を失う前に感じた感情なのだと教えてくれた。
「あれからマーガレットちゃんはどんな気持ちになったの?」
「あの子が生きてさえいてくれれば、二度と会えなくてもいいって思いました。そしてもし、また会えるのなら……元気でさえいてくれたらと……思いました」
「そうね。リリアもきっと同じように思うはずよ。とても辛かったでしょう? あんな思いを人にさせてはいけないでしょう? だからここに居るのよ。だから勉強が必要なのよ。安心しなさい、あの兎は私の屋敷で楽しそうに過ごしているわ。安心した? だったらあなたも元気で明るくしていないとね。それがリリアを安心させることなのよ。うさぎちゃん」
マーガレットは頷くことしかできなかった。
あれほどの心の痛みを母にやったのだという事実を、体感したショック。
もしやり直せるならやり直したい。
その頃の自分を殺してやりたい。
そう思ったとき、やっと気づいた。
「お祖父様はやり直しのチャンスを下さったのだわ」
過去は消えてなくならない。
それは覚えているから。
覚えていない過去は……。
その日からマーガレットは生まれ変わったように取り組み、厳しい躾けにも耐えた。
彼女の脹脛には何本もの蚯蚓腫れがある。
文字通り血反吐を吐いたことも、一度や二度ではない。
厳しいが優秀であると評判の家庭教師に、教育的指導と言う名の体罰を受けるたびに、あの日の母の辛さを思い、こんな痛みでは足りないと感じた。
ぱたぱたと走っていた無邪気なマーガレットは鳴りを潜め、音もなく滑るように歩く。
大好きなクッキーに真っ先に手を伸ばしていた子供はもういない。
無邪気な笑顔は優雅な微笑みに変わっていった。
あの日、自分が犯した罪を突きつけられ呆然としたマーガレット。
それから数日後、父親に連れられてロベルトと共に向かったのは、母の実家の公爵家。
サザーランド家の執事に案内され、応接室に入った三人の目に飛び込んだのは、他人行儀な笑顔を浮かべた母親と祖父母だった。
『リリア嬢、私の子供たちです。さあ、挨拶をしなさい』
父親が母をリリア嬢と呼んでいるという事実に、マーガレットは動揺した。
戸惑うマーガレットの背中に、優しく手を添えたロベルトが先に口を開く。
『初めてお目にかかります。僕はロベルト……パーシモンと申します。今年で12歳になりました。こちらは妹の……マーガレットでございます。さあ、マーガレット』
マーガレットは拳を握って頷いた。
『初めて……お目に……かかります。マーガレットと申します。9歳です。お会いできて嬉しいです』
震える声で挨拶をしたマーガレットにリリアが駆け寄った。
『マーガレットさん。そんなに震えて、緊張したの? 大丈夫?』
『はい、大変失礼いたしました』
『とても立派なご挨拶でしたよ。私はリリア・サザーランドと申します。あなた方のお父様と結婚するというお話しをいただいている者です。それはあなた方の親になるという事にもなるのだけれど、もし新しい母親は不要だと思うのなら……』
『嫌よ! そんな事言わないで……』
我慢しきれず叫んでしまったマーガレットをリリアが強く抱きしめた。
リリアの胸に顔を押し付けて泣いているマーガレットに代わってロベルトが返事した。
『リリア様。マーガレットは母に何の感情も抱いていません。マーガレットにはリリア様のような優しい母親が必要です。どうか……どうかマーガレットにリリア様の愛をお与えください』
大人たちは静かに聞いていた。
部屋の中にはマーガレットの嗚咽だけが響いている。
公爵夫人が一歩前に出た。
『ロベルト君。きちんと挨拶ができるのね。大したものだわ。学園での生活はどう?少しこちらに来て私にお話ししてちょうだい』
公爵夫人と部屋を出たロベルトを目で追いながら、今度は公爵が口を開いた。
『ジェラルド、少し仕事の話があるんだが良いだろうか?』
『勿論です。マーガレット、リリア嬢のお相手を頼むよ』
『はい、お父様』
二人が部屋を去り、リリアとマーガレットは二人になった。
暫しの沈黙の後、リリアがマーガレットの横に移ってきた。
そして何も言わずもう一度強く抱きしめる。
マーガレットはリリアにしがみついて泣きじゃくり、やがて泣き止んだ。
『もう大丈夫? どうしてかしら、こうしないといけないような気がして。急に抱きしめて嫌ではなかった?』
『嬉しかったです』
『そう? それなら良かったわ。マーガレットさんはとても愛らしいわね。もしも一緒に暮らすようになったら、お揃いのドレスを仕立てましょうね』
もうすでに何着かの揃いのドレスを持っていることなど言えるはずもなく、マーガレットは静かに頷いた。
それからすぐに公爵と一緒に戻ってきたジェラルドは、リリアと子供たちに告げた。
『一年という時間をいただいた。もし一年後にリリア嬢が僕の求婚に頷いてくれたら、結婚を許すとお約束いただいた。一年……一年死ぬ気で頑張ろうと思う』
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「さあ、夕方からの授業の準備を始めなくては」
今日の最後の授業は隣国セイレーン語だ。
セイレーンの言語はバジル国と共通点が多く、比較的習得しやすいと言われている。
今でこそ日常的な会話には支障をきたさないが、始めた頃は酷かった。
いきなりやってきた二人の教師がセイレーン語以外の言葉を禁じたのだ。
何を言われているのか分からないまま、辞書だけが渡され、どんどん授業が進んでいく。
そして大量の宿題が渡され、次までにできていなければ容赦なく教鞭で叩かれた。
誰も助けてくれない。
誰も庇ってくれない。
誰も慰めてくれない。
そんな時、一番最初に思い浮かんだ顔は、母だった。
しかし、母は自分の存在を忘れ去っている。
「そこまでのことをしたのは……わたし」
10才になったばかりの子供が、毎日自死を考えた。
一度窓から身を乗り出した時、どこから現れたのか、黒い影に抱きとめられた。
その影は耳元で囁くように言った。
「死ぬのは今じゃないだろう? 逃げるな」
死ぬことさえ許されないのかと嘆いたとき、一通の手紙が届いた。
「おかあさま……」
その手紙を握りしめてマーガレットは泣いた。
眼球が流れ出るほど涙を流した後、もう一度手紙を読み返した。
『マーガレットちゃん、元気ですか? あの日から会うことも叶わず、お父様もご不在の中で、どうしているのか心配しています。きっと頑張ってお勉強しているのでしょうね。私もリハビリ頑張っています。辛いことや悲しいことがあった時、少しでも力になれればと思いながら刺繡をしました。良ければ使ってね。 リリア・サザーランド』
サザーランドという署名を指先で撫でた。
その手紙は今も引き出しの一番上に置いてある。
皇太子妃とアネックス侯爵夫人の授業は、どの教授陣より厳しかった。
中でも一番辛かったのは、ウサギの授業だった。
この宮に来てすぐに、真っ赤な目をした愛らしい黒兎の子供を渡された。
「心から可愛がってやりなさい。全ての世話をあなたがするのよ?」
そういって子兎を手渡してくれたのは皇太子妃だ。
毎日ミルクを与え、藁を食べる様になれば、柔らかい部分を選んで与えた。
体を拭き、糞の始末もした。
大きくなってからは一緒のベッドで眠った。
そして何処に行くにも後ろをついてくる黒兎を心から愛した。
この黒兎が毎日の辛さを癒してくれる唯一のものとなった。
半年も過ぎた頃、皇太子妃が再びマーガレットの部屋を訪れ、唐突に告げた。
「その兎は今夜の晩餐の材料にするの。料理長に渡す? それとも自分で潰す?」
マーガレットは黒兎を抱きしめて泣き叫んだ。
絶対に渡さないと声を荒げ、何度もその場で嘔吐した。
もう何も吐くものが無いのに、それでもせりあがってくる苦い味に悶えた。
「辛い? 自分では殺せないわよね。そんなことをするくらいなら自分が死んだ方が良いって思った?」
マーガレットは何度も頷いた。
「そう、その気持ちが理解できたなら良かったわ。でも兎はこちらに渡しなさい」
抵抗するマーガレットから、あっさりと兎を奪い取った皇太子妃は、振り返りもせず部屋を出た。
残ったマーガレットは、その日の夕食を断り、一人静かに絶望の淵に身を置いた。
あくる日も何事も無かったように一日が始まった。
顔色の悪いマーガレットを気遣う者などいない。
淡々と授業は進み、集中しないと教鞭が振り下ろされた。
数日後、アネックス侯爵夫人がマーガレットを訪ねてきた。
そして黒兎を奪われたあの日、マーガレットが感じた痛みや辛さや苦しさこそ、リリアが記憶を失う前に感じた感情なのだと教えてくれた。
「あれからマーガレットちゃんはどんな気持ちになったの?」
「あの子が生きてさえいてくれれば、二度と会えなくてもいいって思いました。そしてもし、また会えるのなら……元気でさえいてくれたらと……思いました」
「そうね。リリアもきっと同じように思うはずよ。とても辛かったでしょう? あんな思いを人にさせてはいけないでしょう? だからここに居るのよ。だから勉強が必要なのよ。安心しなさい、あの兎は私の屋敷で楽しそうに過ごしているわ。安心した? だったらあなたも元気で明るくしていないとね。それがリリアを安心させることなのよ。うさぎちゃん」
マーガレットは頷くことしかできなかった。
あれほどの心の痛みを母にやったのだという事実を、体感したショック。
もしやり直せるならやり直したい。
その頃の自分を殺してやりたい。
そう思ったとき、やっと気づいた。
「お祖父様はやり直しのチャンスを下さったのだわ」
過去は消えてなくならない。
それは覚えているから。
覚えていない過去は……。
その日からマーガレットは生まれ変わったように取り組み、厳しい躾けにも耐えた。
彼女の脹脛には何本もの蚯蚓腫れがある。
文字通り血反吐を吐いたことも、一度や二度ではない。
厳しいが優秀であると評判の家庭教師に、教育的指導と言う名の体罰を受けるたびに、あの日の母の辛さを思い、こんな痛みでは足りないと感じた。
ぱたぱたと走っていた無邪気なマーガレットは鳴りを潜め、音もなく滑るように歩く。
大好きなクッキーに真っ先に手を伸ばしていた子供はもういない。
無邪気な笑顔は優雅な微笑みに変わっていった。
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