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26 子供の絵
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それからまた数日後。
「そろそろ行くけどお前どうする?」
伊藤の言葉に藤田が顔を上げる。
小夜子を中心とする人間関係が徐々に明らかになっていくに従って、新たな謎も増える。
「気分転換に行きますか」
「捜査じゃないから電車で行こう」
急ぐ移動でもない二人は、プラプラと地下鉄の駅まで歩いた。
藤田が汗を拭きながら話しかける。
「そう言えば小夜子夫人の新しい家ってできたんですかね」
「そろそろだろうけど、まだ引っ越したという連絡は来てないな」
「もう夏も終わりですね」
藤田の言葉に伊藤が空を見上げた。
薄い水色に数滴の墨を流し込んだような東京の空は、浮かんでいる雲さえ灰色に見える。
刑事という立場上、警察手帳を見せれば切符など買う必要は無いのだが、律儀な伊藤は券売機に並んだ。
「二駅ですか」
藤田の言葉に頷く伊藤。
鼓膜に不快な刺激を与えるような轟音と共に、煤けた車体を揺らし都営電車が滑り込む。
きしむように揺れる車体に体を持っていかれそうになりながら、伊藤が藤田に話しかけた。
「そう言えば長いことあの蕎麦屋に行ってないな」
「そう言えばそうですね。このところずっと近くで済ませてますもんね」
電車で二駅などすぐだ。
改札を抜けて目的地に向かって歩く二人に会話は無い。
「ここか」
伊藤がチラシを見ながら立ち止まったのは、小さなギャラリーの前だった。
ガラスの扉に同じチラシが貼ってあるのを確認し、ゆっくりと押し開ける。
冷たい空気が一気に体を包み込み、背中を伝ってた汗が冷たく感じた。
「ゆっくりご覧になってください。それと、ご厚志をいただけると助かります」
受付に座っている中年の女性が遠慮がちに声を掛けてきた。
伊藤は笑顔で応え、財布にあった数枚の千円札を無造作に箱に入れる。
藤田も伊藤に倣って財布を取り出し、千円札を一枚丁寧に折り畳んで入れた。
「ありがとうございます。ゆっくりしてくださいね」
受付担当の後ろに控えていた女性が声を掛けてきた。
「来てくださったんですね」
よく見ると蕎麦屋の女店員だった。
法被と三角巾が無いとわからないものだなと思いながら、伊藤が頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
「来てくださって嬉しいです。良ければご案内しましょう」
藤田がにこやかに声を出した。
「私服だと全然わかりませんでしたよ」
「そうですよね、お店ではお化粧もしませんし、髪もひっ詰めちゃってますからね」
二人の半歩前を歩きながら、この絵を描いた子が持つ症状や、描いた経緯などを丁寧に説明する声を聞き流しながら、適当な相槌を打っていた伊藤の足がピタッと止まった。
「これは?」
「これが今回の目玉です。この子はサバン症候群で、一度見たものは正確に描くことができます。今年の春の桜祭りイベントでデモンストレーションをしたときの絵ですよ」
「デモンストレーション?」
「ええ、東京の上空をヘリコプターで飛んで、描きたい場所を描いてもらうという企画です。子供ですからそれほど長時間は飛べなくて、結局自衛隊病院から飛んで、代官山辺りを一周回っただけなんですけど、ちゃんと描いてくれました」
「自衛隊病院? 池尻の?」
「ええ、そうです」
「代官山を一周……」
「え……ええ、そう聞いていますが……何か?」
伊藤が他の絵を見ていた藤田を鋭く呼んだ。
「おい、藤田。これ……」
藤田が覗き込むように絵を見る。
その絵は新聞紙を二枚広げたほどの大きさで、細密画のように丁寧に書き込まれている。
通行人の洋服の柄までわかるということは、かなり低空飛行をしたのかもしれない。
「これ……斉藤邸ですよね」
「お前もそう思う?」
「間違いないですよ。ここが寝室で……ここが書斎?」
絵に触れないように注意しながら藤田が指さした。
「凄いな……寝ている斎藤まで描かれている」
藤田の言葉には返事をせず、伊藤が説明していた女性に近づいた。
「これって全て本当にあったシーンと考えて大丈夫なんですか?」
「え……ええ、フィクションはあり得ません。サバン症候群ってそういうものですから」
女性から目線を外して伊藤が口を開く。
伊藤の視線はある一点を捕えていた。
「何時頃ここを飛んだかわかりますか?」
「ここを飛んだ時間……正確にはわかりませんが、飛行時間なら書いてありましたね。ちょっと待ってください」
女性が受付台の下から段ボール箱を引っ張り出した。
中に入っていたノートをぺらぺらと捲っている。
「ああ、ありましたよ。今年は三月二十一日が桜祭りの予定だったのですが、雨で二十四日に順延されました。飛んだのは十四時半から三十分って書いてありますね」
「三月二十四日の午後二時三十分から三時の間ですか……」
伊藤が藤田の顔を見た。
藤田が大急ぎで手帳を確認している。
「……当日です」
「うん、これ見てみろ」
藤田が絵に顔を寄せた。
「あっ……いない」
「うん、いないよな。そしてこっちだ」
「あっ……開いてる」
「やっぱりそう見えるか……」
「引っ張りますか?」
伊藤が眉を八の字に下げながら言った。
「罪状は? 自分の家の金庫を当主の夫人が開けたってだけだろ?」
「ああ……そうか……でも……」
おどおどしている女性に礼を言って足早にギャラリーを出る。
すぐに追いついた藤田が声を掛けた。
「犯人は小夜子ですね」
「証拠は無いがな」
「あの絵が証拠になりませんか? なりませんよね……」
「証拠も何も訴えられてないんだ。どうしようもない」
「参ったな……」
悔しいですねという藤田の言葉が、灰色の空に吸い込まれていった。
「そろそろ行くけどお前どうする?」
伊藤の言葉に藤田が顔を上げる。
小夜子を中心とする人間関係が徐々に明らかになっていくに従って、新たな謎も増える。
「気分転換に行きますか」
「捜査じゃないから電車で行こう」
急ぐ移動でもない二人は、プラプラと地下鉄の駅まで歩いた。
藤田が汗を拭きながら話しかける。
「そう言えば小夜子夫人の新しい家ってできたんですかね」
「そろそろだろうけど、まだ引っ越したという連絡は来てないな」
「もう夏も終わりですね」
藤田の言葉に伊藤が空を見上げた。
薄い水色に数滴の墨を流し込んだような東京の空は、浮かんでいる雲さえ灰色に見える。
刑事という立場上、警察手帳を見せれば切符など買う必要は無いのだが、律儀な伊藤は券売機に並んだ。
「二駅ですか」
藤田の言葉に頷く伊藤。
鼓膜に不快な刺激を与えるような轟音と共に、煤けた車体を揺らし都営電車が滑り込む。
きしむように揺れる車体に体を持っていかれそうになりながら、伊藤が藤田に話しかけた。
「そう言えば長いことあの蕎麦屋に行ってないな」
「そう言えばそうですね。このところずっと近くで済ませてますもんね」
電車で二駅などすぐだ。
改札を抜けて目的地に向かって歩く二人に会話は無い。
「ここか」
伊藤がチラシを見ながら立ち止まったのは、小さなギャラリーの前だった。
ガラスの扉に同じチラシが貼ってあるのを確認し、ゆっくりと押し開ける。
冷たい空気が一気に体を包み込み、背中を伝ってた汗が冷たく感じた。
「ゆっくりご覧になってください。それと、ご厚志をいただけると助かります」
受付に座っている中年の女性が遠慮がちに声を掛けてきた。
伊藤は笑顔で応え、財布にあった数枚の千円札を無造作に箱に入れる。
藤田も伊藤に倣って財布を取り出し、千円札を一枚丁寧に折り畳んで入れた。
「ありがとうございます。ゆっくりしてくださいね」
受付担当の後ろに控えていた女性が声を掛けてきた。
「来てくださったんですね」
よく見ると蕎麦屋の女店員だった。
法被と三角巾が無いとわからないものだなと思いながら、伊藤が頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
「来てくださって嬉しいです。良ければご案内しましょう」
藤田がにこやかに声を出した。
「私服だと全然わかりませんでしたよ」
「そうですよね、お店ではお化粧もしませんし、髪もひっ詰めちゃってますからね」
二人の半歩前を歩きながら、この絵を描いた子が持つ症状や、描いた経緯などを丁寧に説明する声を聞き流しながら、適当な相槌を打っていた伊藤の足がピタッと止まった。
「これは?」
「これが今回の目玉です。この子はサバン症候群で、一度見たものは正確に描くことができます。今年の春の桜祭りイベントでデモンストレーションをしたときの絵ですよ」
「デモンストレーション?」
「ええ、東京の上空をヘリコプターで飛んで、描きたい場所を描いてもらうという企画です。子供ですからそれほど長時間は飛べなくて、結局自衛隊病院から飛んで、代官山辺りを一周回っただけなんですけど、ちゃんと描いてくれました」
「自衛隊病院? 池尻の?」
「ええ、そうです」
「代官山を一周……」
「え……ええ、そう聞いていますが……何か?」
伊藤が他の絵を見ていた藤田を鋭く呼んだ。
「おい、藤田。これ……」
藤田が覗き込むように絵を見る。
その絵は新聞紙を二枚広げたほどの大きさで、細密画のように丁寧に書き込まれている。
通行人の洋服の柄までわかるということは、かなり低空飛行をしたのかもしれない。
「これ……斉藤邸ですよね」
「お前もそう思う?」
「間違いないですよ。ここが寝室で……ここが書斎?」
絵に触れないように注意しながら藤田が指さした。
「凄いな……寝ている斎藤まで描かれている」
藤田の言葉には返事をせず、伊藤が説明していた女性に近づいた。
「これって全て本当にあったシーンと考えて大丈夫なんですか?」
「え……ええ、フィクションはあり得ません。サバン症候群ってそういうものですから」
女性から目線を外して伊藤が口を開く。
伊藤の視線はある一点を捕えていた。
「何時頃ここを飛んだかわかりますか?」
「ここを飛んだ時間……正確にはわかりませんが、飛行時間なら書いてありましたね。ちょっと待ってください」
女性が受付台の下から段ボール箱を引っ張り出した。
中に入っていたノートをぺらぺらと捲っている。
「ああ、ありましたよ。今年は三月二十一日が桜祭りの予定だったのですが、雨で二十四日に順延されました。飛んだのは十四時半から三十分って書いてありますね」
「三月二十四日の午後二時三十分から三時の間ですか……」
伊藤が藤田の顔を見た。
藤田が大急ぎで手帳を確認している。
「……当日です」
「うん、これ見てみろ」
藤田が絵に顔を寄せた。
「あっ……いない」
「うん、いないよな。そしてこっちだ」
「あっ……開いてる」
「やっぱりそう見えるか……」
「引っ張りますか?」
伊藤が眉を八の字に下げながら言った。
「罪状は? 自分の家の金庫を当主の夫人が開けたってだけだろ?」
「ああ……そうか……でも……」
おどおどしている女性に礼を言って足早にギャラリーを出る。
すぐに追いついた藤田が声を掛けた。
「犯人は小夜子ですね」
「証拠は無いがな」
「あの絵が証拠になりませんか? なりませんよね……」
「証拠も何も訴えられてないんだ。どうしようもない」
「参ったな……」
悔しいですねという藤田の言葉が、灰色の空に吸い込まれていった。
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