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37 枯れ花
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それからひと月、佐次郎と春乃の暮らしも落ち着き始めた頃のことだ。
杣人が慌てたように駆けてきた。
「何事ですかいの?」
「大きな馬が佐次郎様に会いに来とりますよ」
「え? 馬?」
「何でも流星とかいう馬らしいです。ご新造さんは小松伊十郎様をご存じかの?」
「ええ、もちろん存じていますよ。子供のころからかわいがってもろうとりました」
「そん人が来とられるんですよぉ」
「まあ! 伊十郎様が?」
春乃が慌てて山小屋を出ると、山道へと続く細道の下に立派な鹿毛と小松がいた。
「おお! 春乃。此度は災難じゃったのぉ」
「お久しぶりですよぉ小松様。災難じゃありませんよぉ。山に来てから佐次郎様の調子もええのですから」
「やはりそうか」
この細道はさすがの流星でも通れない。
杣人に流星を預けた伊十郎が、枝につかまりながら登ってきた。
「ここか? 立派なものじゃないか」
「はい、皆さんのお陰です」
「そうかそうか。これなら安心じゃ。ああ、あれは流星というてなぁ。亡き政久様の愛馬よ。流星はどうやら佐次郎に政久様の面影を見ておるようでのぉ。どうしても来たいと聞かなんでのぉ。ご当主様も呆れられてご下賜下さったのじゃ」
「え? あんな立派な馬をですか?」
「ああ。しかしご当主様のご下賜の名馬じゃ。売ることも食うこともならんぞ」
「そんなことしやしませんよぉ」
「ははは。それなら安心じゃ。しかし、もうちっと道を広げねば通れんのぉ」
振り返ると流星が無理やり細道に体をねじ込もうとしていた。
引っ張られている杣人が慌てて声を出す。
「明日までには広げておきますけぇ。今日のところはかんべんしてくださいよぉ。明日の朝までにはやっときますけぇ」
笑いながら伊十郎が言う。
「それは無理じゃ。流星はもうここを動くまいよ。どれ、俺も手伝うから人を集めてきてくれぬか」
頷いた杣人が流星の手綱を木に括って転げるように駆けだした。
伊十郎が春乃を振り返る。
「佐次郎は?」
春乃はゆっくりと首を横に振った。
「そうか。では流星のところで話をしよう。佐次郎の耳に入ると悲しむ」
こくんと頷いた春乃が歩き出した伊十郎のあとを追った。
追いついた春乃の頭に流星が顔をこすり付ける。
「どうやら佐次郎の匂いがするようじゃの」
「そりゃ毎晩共寝をしとりますけえね」
伊十郎が驚いた顔をする。
「共寝? まあ夫婦じゃしな。うん、そうか。それなら安心じゃ」
「それより何があったのですよぉ。まさか右京さまの具合が悪いのですか?」
頭の上に垂れていた小枝をポキンと手折りながら伊十郎が眉を下げた。
「いや、右京は変わらんよ。良くも無いが、それほど悪くもない」
春乃がホッと息を吐く。
「親父様も達者じゃ。右京の代わりに登城しておりなさる」
「左様ですか」
では何が悲しむほどの話なのかという顔で春乃が伊十郎を見上げた。
「佳代殿が離縁されて実家に戻された」
「えっ! 佳代さまが?」
「ああ、さすがの右京も此度のことは腹に据えかねたのじゃろう。しかもそれをご次男様に見られてしもうてなぁ。もう庇いようも無かった」
「では誰が家の差配を?」
ニヤッと伊十郎が笑う。
「うちのババ様じゃ」
「え?」
伊十郎が肩を竦めて見せた。
「父が亡くなってから元気を持て余しておったから声を掛けたら二つ返事じゃったわい。まあ我が女房殿ともあまり折り合いが良くはなかったし、母上としては仕事ができて万々歳、女房殿は厄介払いが出来て万々歳じゃ。そして俺は道庭家へ行く立派な理由ができて万々歳。どうじゃ? 妙案であろう?」
春乃が噴き出すように笑いだした。
「さすが伊十郎様じゃ。それなら身なりに気を遣わん旦那さんもお変わりになるじゃろうて」
「おう、そのことよ。蛆がわきそうだった男所帯に枯れ花が咲いたようなものじゃ」
二人は声を出して笑った。
杣人が慌てたように駆けてきた。
「何事ですかいの?」
「大きな馬が佐次郎様に会いに来とりますよ」
「え? 馬?」
「何でも流星とかいう馬らしいです。ご新造さんは小松伊十郎様をご存じかの?」
「ええ、もちろん存じていますよ。子供のころからかわいがってもろうとりました」
「そん人が来とられるんですよぉ」
「まあ! 伊十郎様が?」
春乃が慌てて山小屋を出ると、山道へと続く細道の下に立派な鹿毛と小松がいた。
「おお! 春乃。此度は災難じゃったのぉ」
「お久しぶりですよぉ小松様。災難じゃありませんよぉ。山に来てから佐次郎様の調子もええのですから」
「やはりそうか」
この細道はさすがの流星でも通れない。
杣人に流星を預けた伊十郎が、枝につかまりながら登ってきた。
「ここか? 立派なものじゃないか」
「はい、皆さんのお陰です」
「そうかそうか。これなら安心じゃ。ああ、あれは流星というてなぁ。亡き政久様の愛馬よ。流星はどうやら佐次郎に政久様の面影を見ておるようでのぉ。どうしても来たいと聞かなんでのぉ。ご当主様も呆れられてご下賜下さったのじゃ」
「え? あんな立派な馬をですか?」
「ああ。しかしご当主様のご下賜の名馬じゃ。売ることも食うこともならんぞ」
「そんなことしやしませんよぉ」
「ははは。それなら安心じゃ。しかし、もうちっと道を広げねば通れんのぉ」
振り返ると流星が無理やり細道に体をねじ込もうとしていた。
引っ張られている杣人が慌てて声を出す。
「明日までには広げておきますけぇ。今日のところはかんべんしてくださいよぉ。明日の朝までにはやっときますけぇ」
笑いながら伊十郎が言う。
「それは無理じゃ。流星はもうここを動くまいよ。どれ、俺も手伝うから人を集めてきてくれぬか」
頷いた杣人が流星の手綱を木に括って転げるように駆けだした。
伊十郎が春乃を振り返る。
「佐次郎は?」
春乃はゆっくりと首を横に振った。
「そうか。では流星のところで話をしよう。佐次郎の耳に入ると悲しむ」
こくんと頷いた春乃が歩き出した伊十郎のあとを追った。
追いついた春乃の頭に流星が顔をこすり付ける。
「どうやら佐次郎の匂いがするようじゃの」
「そりゃ毎晩共寝をしとりますけえね」
伊十郎が驚いた顔をする。
「共寝? まあ夫婦じゃしな。うん、そうか。それなら安心じゃ」
「それより何があったのですよぉ。まさか右京さまの具合が悪いのですか?」
頭の上に垂れていた小枝をポキンと手折りながら伊十郎が眉を下げた。
「いや、右京は変わらんよ。良くも無いが、それほど悪くもない」
春乃がホッと息を吐く。
「親父様も達者じゃ。右京の代わりに登城しておりなさる」
「左様ですか」
では何が悲しむほどの話なのかという顔で春乃が伊十郎を見上げた。
「佳代殿が離縁されて実家に戻された」
「えっ! 佳代さまが?」
「ああ、さすがの右京も此度のことは腹に据えかねたのじゃろう。しかもそれをご次男様に見られてしもうてなぁ。もう庇いようも無かった」
「では誰が家の差配を?」
ニヤッと伊十郎が笑う。
「うちのババ様じゃ」
「え?」
伊十郎が肩を竦めて見せた。
「父が亡くなってから元気を持て余しておったから声を掛けたら二つ返事じゃったわい。まあ我が女房殿ともあまり折り合いが良くはなかったし、母上としては仕事ができて万々歳、女房殿は厄介払いが出来て万々歳じゃ。そして俺は道庭家へ行く立派な理由ができて万々歳。どうじゃ? 妙案であろう?」
春乃が噴き出すように笑いだした。
「さすが伊十郎様じゃ。それなら身なりに気を遣わん旦那さんもお変わりになるじゃろうて」
「おう、そのことよ。蛆がわきそうだった男所帯に枯れ花が咲いたようなものじゃ」
二人は声を出して笑った。
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