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15 コーヒー
「カフェコースですか?」
「ええ、全くの素人なのですが」
「私もカフェコースです。この年になって挑戦するなんて恥ずかしいのですが、やってみようかなって。ずっと主婦だったから調理とかは問題ないのだけれど、経営とか接客とかは素人でしょう? 少なくないお金を掛けるのだから、基本のメソッドくらい知っておきたいし」
「そうですよね。僕も同じような感じです。でも料理の方はさっぱりで、できるのはコーヒーを淹れることと掃除くらいですから不安です」
その女性はニコッと笑って僕の顔を見た。
「お互い頑張りましょうね」
「どうぞよろしくお願いします」
かちゃりと音をさせてドアが開き、笑顔の講師が入ってきた。
受付のお姉さんが資料を配り、僕たちはいそいそと筆記用具を鞄から出す。
「では、来週からいよいよ授業が始まります。凝り始めると際限がないですが、基本的なことさえ学べば開業はできます。このクラスはその基本を学び、開業するまでをサポートするのが目的ですので、わからないことがあれば遠慮なくどしどし質問してください。では今日はここまでです。お疲れさまでした」
こんな時、僕の知っている小学校の教室なら、がやがやとおしゃべりが始まるのだろうけれど、さすがに大人ばかりとなると静かなものだ。
帰り支度を終えた人たちは、挨拶もせずに部屋を出ていく。
生きたまま大人になることが叶わなかった僕が、ちゃんと大人になれた人たちを見て寂しい気持ちになるのはなぜだろう。
殺伐とした居心地の悪い空間を自分で作り上げ、勝手に孤独になって、勝手に傷ついている人間たち。
欲しい時だけ欲しい言葉を求めるのに、あとは自分の勝手だと嘯くのだろう?
自分の要求は押し通そうとするくせに、他者のそれは我儘だと撥ねつけるのだ。
狐や猫や犬や鳥の方がよっぽどマシだよ?
彼らは必要最低限の交流しかしないし、じゃれ合うことはあっても狎れあうことはしない。
常に礼節を重んじ、相手の立場を尊重した行動をする。
でも、自分のテリトリーを無遠慮に侵そうとする者には容赦はしない。
それは彼らが『生きることの意味』を知っているからに他ならない。
「さようなら。また来週会いましょうね」
さっきの女性が小さく手を振りながらドアの前で声をかけてくれた。
「ええ、来週もお会いしましょう。お気を付けて」
どうやら僕は、彼女に『知り合い』認定されたみたいだが、案外心地が良い。
最後のひとりになった僕は、急いでビルを出て古村さんが待っているファーストフードの店に向かった。
「お待たせしました」
「ああ、どうだった? まあ初日だから何もないか。買い物があるんだろ? 付き合うぜ」
フライドポテトが入っていたのであろう油まみれのペーパーボックスが三つ、トレイの上に積み上がっている。
「古村さん、ポテトしか食べなかったの?」
「いや、ハンバーガーも一個食ったよ。でもこれが単純に一番うまい。コーヒーはお前が淹れた方が断然うまいよ」
「ははは! ありがとう。じゃあ帰ったら淹れますよ。買う物が結構あります」
僕たちはファーストフード店を出た。
街の空気は淀んでいる。
風は吹いているのに、ただ吹いているというだけで、重く沈んだ人々の感情を吹き飛ばすような力はない。
急ぎ足の人たちは、前を行く人の背中だけを見ているし、立ち止まっている人たちは、ほんの数秒を惜しむようにスマホを見ている。
剝き出しの魂という存在の僕には、都会の風は痛いだけだ。
「筆記用具とノートはわかるけれど、このエプロンと三角巾と手拭きタオルってなんだよ。高い月謝をとるのだから、教室で用意すべきじゃないか?」
「どうやら身につけるものを共有するのが嫌だっていう人が多いみたいですよ」
「人が使った物は嫌ってこと? めんどくせえなぁ。毎回きれいに洗うんだからいいじゃん」
ブツブツと文句を言う古村さんを引っ張って、僕は近くのデパートへと足を踏み入れた。
「これだけ人がいて、良くぶつからずに歩くよな。パーソナルスペースが狭いのだろうか」
古村さんはまだ文句を言っている。
エプロンなんて中学校で見た調理実習用の割烹着くらいしか思い出せないので、店員さんに『カフェのマスターっぽいデザイン』と伝えて選んでもらった。
「三角巾というのは扱っていないですね。申し訳ございません」
「帽子でも良いみたいですが」
「帽子ですと三階になります。後は大きめのバンダナをお求めになるか、ご自身でお縫いになるかでしょうか。手芸コーナーでしたら七階でございます」
予定より随分高いエプロンを購入し、僕たちは三階に降りた。
同じ説明をしたのに、ここの店員さんはテンガロンハットを勧めてくるような人だった。
揶揄われているのだろうか。
「なあ聡志、これが良いんじゃないか? 似合いそうだ」
古村さんの声に振り向くと、ニットベレーを持ってニコニコと笑っている。
「そうですか? じゃあそれにします」
エプロンと同じ色のニットベレーを購入し、僕たちは電車に乗った。
やっとあの町に戻れると思っただけで、肺が軽くなったような気がするのだが、現身って内臓もあるのだろうか。
「なかなか似合うじゃないか」
出迎えた三沢さんにエプロンとニットベレーを見せると褒めてくれた。
「ねえ古村さん。なぜ三セット? 手伝ってくれるってこと?」
古村さんはニヤッと笑った。
「それは洗い替えだよ。忙しい時は手伝うけれど、基本はひとりだと思った方がいい」
それからの僕は、特に何か変わったということもなく過ごしていた。
あれほど送り出しているのに、彷徨える魂は毎日いくつもやって来る。
その魂たちの話を聞くうちに、子供が多いのは僕と同じ理由なのだとわかった。
そりゃ怖いもん、逃げちゃうよね。
幼い子供が『あ、今自分は死んだな』なんて理解できるわけがないもの。
「なあ聡志、コーヒー淹れてよ」
疲れた顔をした三沢さんが厨房に顔を出した。
「ええ、どれにします?」
「今日はマンデリン」
「了解しました。古村さんもいます?」
「うん、帰ってきているよ」
僕は立ち上がって棚の瓶に手を伸ばした。
ずらっと並んだ瓶に入っているのは挽く前のコーヒー豆だ。
いろいろな種類のコーヒー豆が入っていて、瓶にはその名前が貼られている。
「マンデリン……マンデリン……ああ、これだ」
三沢さんはマンデリンのように酸味が少なく苦みが強いコーヒーを好む。
彼に言わせると『大地の恵みの味がする』そうで、疲れた時は必ずこれを飲みたがるんだ。
ミルにマンデリンの豆を入れてゆっくりとハンドルを動かしていく。
三沢さんが自分で買ってきたフレンチプレスを棚から取り出していると、古村さんが顔を出した。
「俺はエスプレッソで頼む。大盛で」
「はぁ~い」
人使いの荒い狐たちだ。
この厨房にはとても大きなエスプレッソマシンがある。
一度何かの雑誌で見たが、信じられないほど高額で驚いた。
でも、考えてみれば彼らにとってお金は木の葉だから、金額などどうでも良いのだろう。
挽きたてのコーヒー豆を入れたフレンチプレスに熱い湯を注ぎ、抽出を待つ間にエスプレッソカップの準備をする。
ここでお世話になり始めて、一番最初に教え込まれたのがこの機械の操作だ。
派手な音もするし、蒸気の上がり方が激しいので最初は怖かったのだけれどもう慣れた。
「入りましたよ~ 持っていきましょうか?」
「いや、そっちに行くよ。いつもの出しておいて」
「準備してますよ。冷めないうちにどうぞ」
コーヒーの好みは違う二人だが、コーヒーに合わせるお菓子の好みは同じだ。
「おっ! 今日はガトーショコラか。いいねぇ」
そういうわけで、チョコレート系のお菓子は切らさないようにしている。
「うん、旨いね。やっぱり喫茶店にして正解だよ」
三沢さんが嬉しそうな顔で言った。
「ああ、聡志はバリスタの才能があるよな。まあ、こんな田舎じゃ無駄な才能だけど」
僕は吹き出してしまった。
「コーヒーはすでに合格だから、後は軽食とデザートだな。まあ、仕入れるという手もあるから問題ないか」
「それなら自家焙煎っていうのもアリだな」
最早自分たちのための店にしようとしているよね。
「そうだな。あいつらは香りには敏感だから、それは良いかもしれないね」
古村さんの提案に三沢さんが頷いた。
魂だけの存在って、香りはわかるのか……僕もそうだけれど、意識したことが無かったな。
「うん、そうしよう。自家焙煎技術の習得はマストだ、聡志」
どうやら店の方針が決まったようだね。
「お店の名前は何にするの?」
二人が顔を見合わせている。
三沢さんが『何をバカな事を言っているんだ』という顔で口を開いた。
「ルナール古書店喫茶部」
なんというか……僕はもう何も口を挟まないことにした。
「ええ、全くの素人なのですが」
「私もカフェコースです。この年になって挑戦するなんて恥ずかしいのですが、やってみようかなって。ずっと主婦だったから調理とかは問題ないのだけれど、経営とか接客とかは素人でしょう? 少なくないお金を掛けるのだから、基本のメソッドくらい知っておきたいし」
「そうですよね。僕も同じような感じです。でも料理の方はさっぱりで、できるのはコーヒーを淹れることと掃除くらいですから不安です」
その女性はニコッと笑って僕の顔を見た。
「お互い頑張りましょうね」
「どうぞよろしくお願いします」
かちゃりと音をさせてドアが開き、笑顔の講師が入ってきた。
受付のお姉さんが資料を配り、僕たちはいそいそと筆記用具を鞄から出す。
「では、来週からいよいよ授業が始まります。凝り始めると際限がないですが、基本的なことさえ学べば開業はできます。このクラスはその基本を学び、開業するまでをサポートするのが目的ですので、わからないことがあれば遠慮なくどしどし質問してください。では今日はここまでです。お疲れさまでした」
こんな時、僕の知っている小学校の教室なら、がやがやとおしゃべりが始まるのだろうけれど、さすがに大人ばかりとなると静かなものだ。
帰り支度を終えた人たちは、挨拶もせずに部屋を出ていく。
生きたまま大人になることが叶わなかった僕が、ちゃんと大人になれた人たちを見て寂しい気持ちになるのはなぜだろう。
殺伐とした居心地の悪い空間を自分で作り上げ、勝手に孤独になって、勝手に傷ついている人間たち。
欲しい時だけ欲しい言葉を求めるのに、あとは自分の勝手だと嘯くのだろう?
自分の要求は押し通そうとするくせに、他者のそれは我儘だと撥ねつけるのだ。
狐や猫や犬や鳥の方がよっぽどマシだよ?
彼らは必要最低限の交流しかしないし、じゃれ合うことはあっても狎れあうことはしない。
常に礼節を重んじ、相手の立場を尊重した行動をする。
でも、自分のテリトリーを無遠慮に侵そうとする者には容赦はしない。
それは彼らが『生きることの意味』を知っているからに他ならない。
「さようなら。また来週会いましょうね」
さっきの女性が小さく手を振りながらドアの前で声をかけてくれた。
「ええ、来週もお会いしましょう。お気を付けて」
どうやら僕は、彼女に『知り合い』認定されたみたいだが、案外心地が良い。
最後のひとりになった僕は、急いでビルを出て古村さんが待っているファーストフードの店に向かった。
「お待たせしました」
「ああ、どうだった? まあ初日だから何もないか。買い物があるんだろ? 付き合うぜ」
フライドポテトが入っていたのであろう油まみれのペーパーボックスが三つ、トレイの上に積み上がっている。
「古村さん、ポテトしか食べなかったの?」
「いや、ハンバーガーも一個食ったよ。でもこれが単純に一番うまい。コーヒーはお前が淹れた方が断然うまいよ」
「ははは! ありがとう。じゃあ帰ったら淹れますよ。買う物が結構あります」
僕たちはファーストフード店を出た。
街の空気は淀んでいる。
風は吹いているのに、ただ吹いているというだけで、重く沈んだ人々の感情を吹き飛ばすような力はない。
急ぎ足の人たちは、前を行く人の背中だけを見ているし、立ち止まっている人たちは、ほんの数秒を惜しむようにスマホを見ている。
剝き出しの魂という存在の僕には、都会の風は痛いだけだ。
「筆記用具とノートはわかるけれど、このエプロンと三角巾と手拭きタオルってなんだよ。高い月謝をとるのだから、教室で用意すべきじゃないか?」
「どうやら身につけるものを共有するのが嫌だっていう人が多いみたいですよ」
「人が使った物は嫌ってこと? めんどくせえなぁ。毎回きれいに洗うんだからいいじゃん」
ブツブツと文句を言う古村さんを引っ張って、僕は近くのデパートへと足を踏み入れた。
「これだけ人がいて、良くぶつからずに歩くよな。パーソナルスペースが狭いのだろうか」
古村さんはまだ文句を言っている。
エプロンなんて中学校で見た調理実習用の割烹着くらいしか思い出せないので、店員さんに『カフェのマスターっぽいデザイン』と伝えて選んでもらった。
「三角巾というのは扱っていないですね。申し訳ございません」
「帽子でも良いみたいですが」
「帽子ですと三階になります。後は大きめのバンダナをお求めになるか、ご自身でお縫いになるかでしょうか。手芸コーナーでしたら七階でございます」
予定より随分高いエプロンを購入し、僕たちは三階に降りた。
同じ説明をしたのに、ここの店員さんはテンガロンハットを勧めてくるような人だった。
揶揄われているのだろうか。
「なあ聡志、これが良いんじゃないか? 似合いそうだ」
古村さんの声に振り向くと、ニットベレーを持ってニコニコと笑っている。
「そうですか? じゃあそれにします」
エプロンと同じ色のニットベレーを購入し、僕たちは電車に乗った。
やっとあの町に戻れると思っただけで、肺が軽くなったような気がするのだが、現身って内臓もあるのだろうか。
「なかなか似合うじゃないか」
出迎えた三沢さんにエプロンとニットベレーを見せると褒めてくれた。
「ねえ古村さん。なぜ三セット? 手伝ってくれるってこと?」
古村さんはニヤッと笑った。
「それは洗い替えだよ。忙しい時は手伝うけれど、基本はひとりだと思った方がいい」
それからの僕は、特に何か変わったということもなく過ごしていた。
あれほど送り出しているのに、彷徨える魂は毎日いくつもやって来る。
その魂たちの話を聞くうちに、子供が多いのは僕と同じ理由なのだとわかった。
そりゃ怖いもん、逃げちゃうよね。
幼い子供が『あ、今自分は死んだな』なんて理解できるわけがないもの。
「なあ聡志、コーヒー淹れてよ」
疲れた顔をした三沢さんが厨房に顔を出した。
「ええ、どれにします?」
「今日はマンデリン」
「了解しました。古村さんもいます?」
「うん、帰ってきているよ」
僕は立ち上がって棚の瓶に手を伸ばした。
ずらっと並んだ瓶に入っているのは挽く前のコーヒー豆だ。
いろいろな種類のコーヒー豆が入っていて、瓶にはその名前が貼られている。
「マンデリン……マンデリン……ああ、これだ」
三沢さんはマンデリンのように酸味が少なく苦みが強いコーヒーを好む。
彼に言わせると『大地の恵みの味がする』そうで、疲れた時は必ずこれを飲みたがるんだ。
ミルにマンデリンの豆を入れてゆっくりとハンドルを動かしていく。
三沢さんが自分で買ってきたフレンチプレスを棚から取り出していると、古村さんが顔を出した。
「俺はエスプレッソで頼む。大盛で」
「はぁ~い」
人使いの荒い狐たちだ。
この厨房にはとても大きなエスプレッソマシンがある。
一度何かの雑誌で見たが、信じられないほど高額で驚いた。
でも、考えてみれば彼らにとってお金は木の葉だから、金額などどうでも良いのだろう。
挽きたてのコーヒー豆を入れたフレンチプレスに熱い湯を注ぎ、抽出を待つ間にエスプレッソカップの準備をする。
ここでお世話になり始めて、一番最初に教え込まれたのがこの機械の操作だ。
派手な音もするし、蒸気の上がり方が激しいので最初は怖かったのだけれどもう慣れた。
「入りましたよ~ 持っていきましょうか?」
「いや、そっちに行くよ。いつもの出しておいて」
「準備してますよ。冷めないうちにどうぞ」
コーヒーの好みは違う二人だが、コーヒーに合わせるお菓子の好みは同じだ。
「おっ! 今日はガトーショコラか。いいねぇ」
そういうわけで、チョコレート系のお菓子は切らさないようにしている。
「うん、旨いね。やっぱり喫茶店にして正解だよ」
三沢さんが嬉しそうな顔で言った。
「ああ、聡志はバリスタの才能があるよな。まあ、こんな田舎じゃ無駄な才能だけど」
僕は吹き出してしまった。
「コーヒーはすでに合格だから、後は軽食とデザートだな。まあ、仕入れるという手もあるから問題ないか」
「それなら自家焙煎っていうのもアリだな」
最早自分たちのための店にしようとしているよね。
「そうだな。あいつらは香りには敏感だから、それは良いかもしれないね」
古村さんの提案に三沢さんが頷いた。
魂だけの存在って、香りはわかるのか……僕もそうだけれど、意識したことが無かったな。
「うん、そうしよう。自家焙煎技術の習得はマストだ、聡志」
どうやら店の方針が決まったようだね。
「お店の名前は何にするの?」
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