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23 開店前夜
どのくらい時間が過ぎただろうか。
太陽の色が変わり始めている。
「もう行くって。会うか?」
三沢さんが顔をのぞかせた。
「そうか……もう行くのか」
「早く戻ってきてお母さんを助けたいんだってさ。記憶は無くなるって言ったのだけれど、絶対に見つけてみせるっていうから、頑張れとしか言えなかったよ」
三沢さんが困ったような顔でそう言った。
古村さんも眉尻を下げている。
「なんで子供っていうのは母親を嫌いになれないんだろうなぁ。あれほどの目に合わされても、絶対に母親を庇おうとする。不思議だよ」
古村さんが立ち上がった。
お気に入りのエスプレッソカップの底には、掬いそびれた砂糖が固まっている。
「行こうか」
頷いた僕は二人の後を追った。
「あっ! お兄ちゃん。さっきはお菓子をありがとうございました」
「うん、でもあれはこのおじさんが買ってきてくれたんだ。僕は渡しただけさ」
「そうなの? でもココアもとっても美味しかったから、やっぱりありがとうだよ?」
そう言った幸子ちゃんは古村さんに向かってしっかりとお礼を言った。
後ろ頭を搔きながら照れている古村さんって新鮮だ。
「言葉はあったの?」
「うん、母親のがあったよ」
三沢さんの言葉に、消化しきれない感情が湧き上がる。
そんな僕の肩をポンと叩いて三沢さんが、棚から古い本を取り出した。
「じゃあ伝えるね」
「はい」
母親が幸子ちゃんに伝えたかった言葉が、三沢さんの口を通して幸子ちゃんに降り注ぐ。
幸子ちゃんはキラキラとした目をしながら、体中でそれを受け止めていた。
「ありがとうございました」
「うん、よく頑張ったね」
三沢さんが机に置いてあった杉の若枝を咥える。
一瞬だけ幸子ちゃんの体が光り、次の瞬間には霞の塊のような形に変化した。
「さようなら、幸子ちゃん」
そう呟いた僕の周りをくるりと回り、霞は空へと還って行った。
ルナール古書店の入口のガラスが、まるで勇者を見送る群衆のようにガチャガチャと騒がしい音をたてた。
「腹減ったな、焼き鳥屋でも行く?」
古村さんが重たい空気を一掃するように明るい声を出した。
「焼き鳥かぁ、良いなぁ。乗った」
三沢さんが笑顔を浮かべた。
僕はあまり乗り気じゃなかったのだけれど、どうやら選択権は無いみたいだ。
古村さんはがっしりと僕の肩を掴んでニヤッと笑った。
そうこうしている間に工事は終わり、来月の初めに『ルナール古書店喫茶部』はオープン初日を迎えることになった。
僕はカフェ教室で知り合った三人の女性にオープンする旨のカードを送ることにした。
だって約束だもんね。
そういえば、あれから半年以上経っているのにあの三人から開店を知らせる便りは届いていない。
ちょっと気になるが、今は開店準備で猫の手も借りたいくらいだ。
まあ、狐の手は借りているけど。
そしてオープン前日、知らせを出したあの三人から連名で花籠が届いた。
「いいなぁ、友情ってやつ?」
古村さんの言葉に苦笑いを浮かべながら、僕はその花籠をレジ横の一番目立つところに置いた。
工事を担当した工務店からは凄く立派な立花が届き、それらはルナール古書店の入口に飾ることになった。
他にも工事に関係したいろいろな会社からも届いたので、いつもは寂しげな入口が、笑えるほど華やかになっている。
「海風で倒れないかな」
外に出したままになる立花を心配した僕の声に、三沢さんが答えてくれた。
「大丈夫だよ、ここは階段の踊り場から少し奥まっているから、それほど強い風は当たらないんだ。それにちょっと細工もしたしね」
細工……狐の奥の手か? 気になるが話が長そうなので受け流すことにした。
「さあ、明日からだな」
「ええ、できる限り心を込めて淹れますよ」
「うん、そうしてやってくれ。きっと喜ぶさ。子供用は?」
「その子の生きていた年代で好みも違うかもしれないでしょ? 日本茶を数種類とフレッシュジュースとラムネとココアを常備します」
「麦茶は?」
僕は親指を立てて見せた。
「もちろん万全です。それに神ジイが焙じ茶用の八代の深蒸とジャマイカ産のブルマンを差し入れてくれました。無くなったらいつでも補充してくれるそうですよ」
「フンッ!」
古村さんは鼻を鳴らしたが、顔はなんだか嬉しそうだった。
設計会社から祝いの寿司桶が届き、僕たちはそれをいただきながら焙じ茶を飲んだ。
「やっぱりうまいな。その焙烙って聡志のばあちゃんが使ってたやつなんだろ?」
「ええ、ばあちゃんちの納屋で埃をかぶってましたから、黙って貰ってきちゃった」
「大丈夫だよ、あいつは気づきやしないだろうぜ」
三人での食事はいつものことだが、こんなに穏やかな気持ちで過ごすのはいつぶりだろうか。
明日はお客様が来てくれるかな。
「古書店の方も忙しくなるかもですね」
三沢さんが頷いた。
「そうなんだよね。まあ彼らを送るのは夜だし、もし昼に来てもそっちで待っててもらえるからね。きっと人の客も来るだろ? だから店の在庫も少し増やしたんだ。久しぶりにセドリ市に行ったよ」
古村さんが顔を上げた。
「掘り出しモンあった?」
「一冊だけかな。後は一般的な本ばかりだった」
僕は興味を覚えた。
「その一冊って何ですか?」
「芥川龍之介先生の『羅生門』だよ。結びの文章が改訂される前の初版だから価値はある」
「いくらぐらいするの?」
僕の問いに三沢さんは不思議そうな顔をした。
「葉っぱでこれくらい」
三沢さんが親指と人差し指を三センチくらい離してみせた。
それって一万円札なら凄い金額だよね? まあもとは葉っぱだからいいのかな。
僕は曖昧に頷いて二人は食べないイカのお寿司を口に入れた。
太陽の色が変わり始めている。
「もう行くって。会うか?」
三沢さんが顔をのぞかせた。
「そうか……もう行くのか」
「早く戻ってきてお母さんを助けたいんだってさ。記憶は無くなるって言ったのだけれど、絶対に見つけてみせるっていうから、頑張れとしか言えなかったよ」
三沢さんが困ったような顔でそう言った。
古村さんも眉尻を下げている。
「なんで子供っていうのは母親を嫌いになれないんだろうなぁ。あれほどの目に合わされても、絶対に母親を庇おうとする。不思議だよ」
古村さんが立ち上がった。
お気に入りのエスプレッソカップの底には、掬いそびれた砂糖が固まっている。
「行こうか」
頷いた僕は二人の後を追った。
「あっ! お兄ちゃん。さっきはお菓子をありがとうございました」
「うん、でもあれはこのおじさんが買ってきてくれたんだ。僕は渡しただけさ」
「そうなの? でもココアもとっても美味しかったから、やっぱりありがとうだよ?」
そう言った幸子ちゃんは古村さんに向かってしっかりとお礼を言った。
後ろ頭を搔きながら照れている古村さんって新鮮だ。
「言葉はあったの?」
「うん、母親のがあったよ」
三沢さんの言葉に、消化しきれない感情が湧き上がる。
そんな僕の肩をポンと叩いて三沢さんが、棚から古い本を取り出した。
「じゃあ伝えるね」
「はい」
母親が幸子ちゃんに伝えたかった言葉が、三沢さんの口を通して幸子ちゃんに降り注ぐ。
幸子ちゃんはキラキラとした目をしながら、体中でそれを受け止めていた。
「ありがとうございました」
「うん、よく頑張ったね」
三沢さんが机に置いてあった杉の若枝を咥える。
一瞬だけ幸子ちゃんの体が光り、次の瞬間には霞の塊のような形に変化した。
「さようなら、幸子ちゃん」
そう呟いた僕の周りをくるりと回り、霞は空へと還って行った。
ルナール古書店の入口のガラスが、まるで勇者を見送る群衆のようにガチャガチャと騒がしい音をたてた。
「腹減ったな、焼き鳥屋でも行く?」
古村さんが重たい空気を一掃するように明るい声を出した。
「焼き鳥かぁ、良いなぁ。乗った」
三沢さんが笑顔を浮かべた。
僕はあまり乗り気じゃなかったのだけれど、どうやら選択権は無いみたいだ。
古村さんはがっしりと僕の肩を掴んでニヤッと笑った。
そうこうしている間に工事は終わり、来月の初めに『ルナール古書店喫茶部』はオープン初日を迎えることになった。
僕はカフェ教室で知り合った三人の女性にオープンする旨のカードを送ることにした。
だって約束だもんね。
そういえば、あれから半年以上経っているのにあの三人から開店を知らせる便りは届いていない。
ちょっと気になるが、今は開店準備で猫の手も借りたいくらいだ。
まあ、狐の手は借りているけど。
そしてオープン前日、知らせを出したあの三人から連名で花籠が届いた。
「いいなぁ、友情ってやつ?」
古村さんの言葉に苦笑いを浮かべながら、僕はその花籠をレジ横の一番目立つところに置いた。
工事を担当した工務店からは凄く立派な立花が届き、それらはルナール古書店の入口に飾ることになった。
他にも工事に関係したいろいろな会社からも届いたので、いつもは寂しげな入口が、笑えるほど華やかになっている。
「海風で倒れないかな」
外に出したままになる立花を心配した僕の声に、三沢さんが答えてくれた。
「大丈夫だよ、ここは階段の踊り場から少し奥まっているから、それほど強い風は当たらないんだ。それにちょっと細工もしたしね」
細工……狐の奥の手か? 気になるが話が長そうなので受け流すことにした。
「さあ、明日からだな」
「ええ、できる限り心を込めて淹れますよ」
「うん、そうしてやってくれ。きっと喜ぶさ。子供用は?」
「その子の生きていた年代で好みも違うかもしれないでしょ? 日本茶を数種類とフレッシュジュースとラムネとココアを常備します」
「麦茶は?」
僕は親指を立てて見せた。
「もちろん万全です。それに神ジイが焙じ茶用の八代の深蒸とジャマイカ産のブルマンを差し入れてくれました。無くなったらいつでも補充してくれるそうですよ」
「フンッ!」
古村さんは鼻を鳴らしたが、顔はなんだか嬉しそうだった。
設計会社から祝いの寿司桶が届き、僕たちはそれをいただきながら焙じ茶を飲んだ。
「やっぱりうまいな。その焙烙って聡志のばあちゃんが使ってたやつなんだろ?」
「ええ、ばあちゃんちの納屋で埃をかぶってましたから、黙って貰ってきちゃった」
「大丈夫だよ、あいつは気づきやしないだろうぜ」
三人での食事はいつものことだが、こんなに穏やかな気持ちで過ごすのはいつぶりだろうか。
明日はお客様が来てくれるかな。
「古書店の方も忙しくなるかもですね」
三沢さんが頷いた。
「そうなんだよね。まあ彼らを送るのは夜だし、もし昼に来てもそっちで待っててもらえるからね。きっと人の客も来るだろ? だから店の在庫も少し増やしたんだ。久しぶりにセドリ市に行ったよ」
古村さんが顔を上げた。
「掘り出しモンあった?」
「一冊だけかな。後は一般的な本ばかりだった」
僕は興味を覚えた。
「その一冊って何ですか?」
「芥川龍之介先生の『羅生門』だよ。結びの文章が改訂される前の初版だから価値はある」
「いくらぐらいするの?」
僕の問いに三沢さんは不思議そうな顔をした。
「葉っぱでこれくらい」
三沢さんが親指と人差し指を三センチくらい離してみせた。
それって一万円札なら凄い金額だよね? まあもとは葉っぱだからいいのかな。
僕は曖昧に頷いて二人は食べないイカのお寿司を口に入れた。
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