ルナール古書店の秘密

志波 連

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26 昔話のように

 もう空になったカップを両手で包むように持ったまま、西尾さんが声を出した。

「私ね、幼稚園の先生になりたかったんです。でもお父さんが事業に失敗しちゃって、短大にも行かせてもらえなかったの。高校は公立だったからなんとか卒業だけはできたけれど、幼稚園の先生以外考えたことが無くて……」

 僕は西尾さんの前にレモン水を置いた。
 
「進路指導室に何度も通って就職先を探して、自宅から通えるところにある食品会社の一般事務っていうのをみつけたのです。本当に小さな会社だったから、なかなか応募する人がいなかったみたいで、面接だけで採用してもらえたのです」

「まあ最初はみんな大企業とかを希望するもんなぁ。でもラッキーだったじゃん」

「ええ、本当にラッキーでした。社長とご長男が営業をなさっていて、奥さんが経理を担当しておられました。なんというかアットホームな雰囲気で、素人の私でもなんとか頑張れたのです。家と会社は人手に渡りましたが、父はまだ元気でしたから、警備員として働き始め、母もスーパーのレジ打ちの仕事を探してきました」

 社長だった人が警備の仕事か……相当辛かっただろうね。

「父も母も私に夢を諦めさせたことを悔いていたのでしょう。数年遅れでも良いなら短大に行けと言ってくれて、もう本当に爪に火を点すように暮らして貯金をしてくれたのです。私は公立の短大を目指しました。だって私立だと高いでしょ? 狭き門ですが、チャレンジして落ちたら諦めもつくと思ったのです。めちゃくちゃ勉強しましたよ」

「働きながらだもんなぁ。で? どうだったの?」

 ニコニコしながら古村さんが先を促がした。

「受かりました。会社に事情を話すと、お祝いまで下さって。本当に良い人たちで、私の後任に父を雇ってくれたのです。会社の社長をしていたくらいだから経理もわかるだろうって。警備の仕事はきつかったらしく、父も母も喜んでいました。私は二十歳の短大生になり、毎日楽しく通いました。お陰様で保育士の資格もとることができて、家から二駅ほどの幼稚園に就職できたのです」

 僕と古村さんは顔を見合わせた。

「苦労の甲斐があったじゃん」

 西尾さんが寂しそうに笑った。

「ええ、それから二年ほどはもう毎日幸せでした。でも……あれほど真面目に頑張っていた父が、食品会社で働いていたパートさんと、会社のお金を持って逃げたのです。あれほどお世話になった社長さん達に申し訳なくて。母と二人で土下座しましたが、許されるわけもありません。不渡りを出したら倒産してしまうと迫られ、母は泣くばかりでしたし、私もどうして良いのか分からずで」

「そりゃそうだろうなぁ」

「そんな時、どこで聞いたのか園児の保護者だという方から声をかけられて、水商売をしている方達の子供を預かる保育園で働かないかと誘われました。お給料は今の三倍で、父が持ち逃げした三百万円も先払いしてくれると言われ、頷いちゃったんです」

 古村さんが眉間に皺を寄せながら言った。

「そこからさきは言わなくていいよ。無理はしなくて良い」

 西尾さんがふわっと笑った。

「誰にも言えなかったから聞いてください」

「辛くなったら途中でも止めろよ?」

 頷いた西尾さんがレモン水を一口飲んだ。

「幼稚園を急に辞めることになって申し訳なかったのですが、私は先払いしてもらった三百万円を持って食品会社を訪れました。あれほど優しかった奥さんには『どこぞの妾にでもなったのか』と言われ、社長からは『二度と顔を出すな』と怒鳴られました。まあ仕方がないですよね」

 気持ちはわかるけれど、この人が悪いわけじゃないのにとは思う。

「半年ほどはほぼタダ働きでしたが、先払い分は返済できたのです。半年で三百万円ですよ? 凄くないですか? 仕事は夕方五時から朝の五時まででしたが、お金もないし帰っても寝るだけですから、なんとか頑張れたのでしょうね。まあ、朝の五時とは言っても、お迎えが無い子を残して帰るわけにはいかないでしょう? 残業もありましたが、その分はきちんと払ってくれましたし」

「へぇ、そういう仕事にしては良心的だな」

「ええ、私もそう思っていました。お給料も高いし、あのボロアパートから引っ越せるって思って嬉しかったんですよね……あの日までは」

「今度は何があった?」

 西尾さんが眉を下げてヘラッと笑った。

「今度は母ですよ。テーブルの上に置手紙があって、どこかの誰かさんと逃げちゃった」

「マジか……手紙にはなんて?」

「短かったですよ。たった二行です。好きな人ができました。その人と幸せになりますってそれだけです。もう意味わかんなくて」

「お母さんっていくつだったの? その時」

「私は母が二十二の時の子なので四十六ですね。私はもうどうでもよくなっちゃって、二人の荷物を処分して引っ越そうって思ったのです。全部無かったことにしたかった……その時また先払いをお願いしたのです。今度は五十万だからふた月で返せるって勝手に思って」

「貸してくれなかったの?」

「いいえ、貸してくれると返事を貰いました。でも二度目の先払いはオーナーの面談があると言われて、伊豆の方の大きな屋敷に連れて行かれました。現れたのは小柄なおじいちゃんって感じの人で、ニコニコしながら私の話を聞き、テーブルに百万円の束をポンと投げました」

「あぶねぇなぁ」

「ほんとそうですよね。私が世間知らずだったのです。その場で犯されました。おじいちゃんの目の前でね。そしてその日から帰してもらえず、毎日毎日いろいろな人の相手をさせられました。猿轡をされて、なんだかわからない薬を打たれたこともありましたね。逃げようとしたら、もう酷い殴られ方をしちゃって。眼底骨折っていうんでしたっけ? 痛いですよぉ。次に逃げようとしたら足の腱を切るって言われて怖くなっちゃって」

 笑いながら言うことじゃないよ?

「もう全部どうでも良くなって……死にたいとも思わなくなって。最初は何度も死のうとしたのですが、なかなか死ねるものじゃないですね。私は何のために生まれてきたのだろうなんてそんなことばかり考えていました。そんな生活が半年くらい続いたのかな。私、妊娠しちゃったんです」

 古村さんが大きく息を吸った。
 子供たちを無事に送ったのだろう、三沢さんがいつの間にかテーブル席に座っている。
 僕はマンデリンの豆を手挽きミルに入れた。

「産みたかったんです。バカでしょう? 誰の子かなんてわからないし、こんなところに来るようなカスですよ? でも子供に罪はないなんて考えちゃって。でも結局流れちゃった。当たり前ですよね、妊娠初期でも毎日誰かの相手をさせられていたんですもの。私なんてあの人たちにとっては玩具なんですよ。優しくなんて扱ってくれません。別に壊れてもいいし、壊れたら捨てるだけの人形です。何をしても許される都合の良いお人形」

「酷い話だな」

「客の相手をさせられている最中に出血しちゃって。気味悪がった客の男に頭を蹴られて死んじゃいました。死んじゃうと上から自分の体を眺めるの。もうびっくりしましたよ。すっぽんぽんで大の字になっている私が、股から血を流してるんですもの。おまけに首は変な方に向いちゃってるし。それから何人かの男の人が来て、私の体を持って行っちゃったんですよね」

「追わなかったの?」

「うん、追わなかった。だって怖かったんだもん」

「まあ、そうかもな」

 西尾さんが肩を竦めた。

「そのまま天井のところにいたら、家政婦さんみたいな人が入ってきて、淡々と掃除を始めました。なんだか血に慣れているっていう感じだったなぁ。きっと何度も同じようなことがあったのでしょうね。それを見てたら笑いが止まらなくなっちゃって。だってその家政婦さん、私のお母さんだったんだもん」

 古村さんがギュッと目を瞑った。
 僕はありもしない心臓が早鐘を打ったような気分になり、助けを求めるように三沢さんの方に顔を向ける。

「お母さんがあの組織に私を売ったのか、本当に知らなくて娘の流した血を拭いていたのかは知りませんし、知りたくもないです。お父さんがどうなったのかも知らないし、お母さんがなぜそこにいるのかも知らない。私って何も知らないんですよ」

 三沢さんがカウンターに座った。
 ものすごく優しい手つきで、肩甲骨まで伸びた西尾さんの髪を何度も撫でた。

「よく頑張ったね。君は頑張り屋さんだ。でも保育士を続けられなかったのは残念だったね」

「ええ、それだけは本当に残念です。後のことは全部クソみたいな人生でしたけど」

 古村さんがクスッと笑いながら口を開いた。

「こらこら、女の子がクソなんて言葉使っちゃダメだ。美人さんが台無しだよ?」

「あら、私ったら。ごめんなさい」

 肩を竦めて指先で口元を隠す西尾さんは、本当に美人さんだと思う。
 なぜこの人がこんな目に遭うのだろうか。

「でもまあ、君の親ははっきり言ってクソだ。事情もあったのだろうし、言い分もあるだろうけれど、クソが言うことは全部クソさ」

 三人が笑っている。
 僕は笑う気になれなくて、スッと背中を向けた。
 ガラス窓に映る三人は、それぞれが抱えている心の澱など微塵も感じさせないまま、楽しそうに笑っている。
 遠くでウミネコが鳴いた。
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