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30 この星の役割
狐たちが洞へと引き上げ、店には僕と裕子さんだけが残った。
僕たちの前には温かい麦茶がある。
僕の部屋は厨房横の階段から上がったところにあって、窓からはあの丘がよく見える。
もし裕子さんが残ることを選択したら、どの景色の部屋を選ぶのだろう。
「ねえ聡志君、君は寂しくは無いの?」
「そうですね……寂しいと思っていたのは生きていた時だけかな。死んでからっていうか、自分が死んだのだと認めてからは、寂しいという気持ちになったことはありません。まあ、元々感情の起伏が少ない方なのでしょうね。僕が実際に死んだのは九歳の時で、死んだと認めた十四歳までの五年間は、誰にも相手にされず孤独でしたから」
「おばあ様と一緒だったのでしょう?」
「ええ、ばあちゃんだけですよ。僕を僕として認識してくれたのは。でもね、それほど愛してくれたばあちゃんの顔も声も思い出せないんです。ものすごく偶に匂いを感じることはあるのですが、父と母も同じです。何も思い出せないんだ。寂しささえ感じない」
裕子さんが麦茶を一口飲んでから言った。
「美味しい……聡志君の淹れたお茶は本当に美味しいね。なんていうのかなぁ、愛の味がするのよね」
それは裕子さんが愛を覚えているからだろうね。
僕には愛された記憶さえ残っていない。
「そうですか? 愛の味かぁ、なかなか甘そうですね。ははは」
「そうね、甘露ってきっとこんな味でしょうね。聡志君の優しさが伝わるよ」
「ばあちゃん直伝なのですよ。使っている焙烙もばあちゃんの物だし」
「おばあ様はもう?」
「ええ、ちゃんと成仏しましたし、僕も見届けました。きっともう生まれ変わっているんじゃないかな? まあ会ってもわからないけれど」
「生まれ変わるのは幸せなのかしら」
「どうでしょう。神ジイが言うには、この星って『魂の修行場』らしいですよ。魂格を上げるためには修行が必要なんだそうです。上げてどうするのか聞いたら、神に近い存在になるのだと教えてくれました」
「神に近い?」
「ええ、でも思うんですよね。神になってどうするのかなって。だってそのうち何万年も何億年も経ったら、神だらけになっちゃうじゃないですか」
「ははは! 神様ばっかり? それってどんな世界なのかしらねえ」
ふとテーブルに影が差した。
「無の世界じゃよ。全てを必要とせず、全てを受け入れ、全てを赦す世界じゃ」
いきなり現れた神ジイの言葉に、僕は遠い昔に見た座禅を組む修験者の姿を思い出した。
「聡志、ワシにも麦茶を淹れてくれ」
「はい」
僕の座っていたところに腰をおろした神ジイは、じっと裕子さんを見ている。
「大丈夫かの? 随分血を流したようじゃが」
「はい大丈夫です。あの血は悪い血だから全部出した方が良いって狐さんが言ってました」
「ああ、あやつがそういうなら間違いない。痛みは無かったか?」
裕子さんが少し考えてから声を出す。
「痛かったかと聞かれたら、とても痛かったです。でも今は凄くすっきりしているのです。なんていうかなぁ、怖くてずっと我慢していた虫歯を思い切って抜いたような感じ?」
「ほほほっ! なるほどのう。ではスッキリしたのじゃな?」
「はい、とてもスッキリしました」
「心は定まったようじゃの?」
「はい、やっぱり私は子供の役に立ちたいです」
僕が出した熱い麦茶を一気に流し込み、神ジイは立ち上がった。
「明日じゃ。心せよ」
重々しい声を残して神ジイの姿が消えた。
今日僕が見た狐の前の血は、裕子さんが流した心の血なんだね。
悪い血って言ってたけれど、なるほどどす黒いわけだ。
もう安心だよ、裕子さん。
あの血の塊は、僕がキレイに洗い流しておいたからね。
「もう寝よっか、聡志君」
「うん、今日はゲストルームだけど明日からは好きな部屋を使っていいからね」
「ありがとう。おやすみなさい」
僕は茶器を片づけながら、真っ暗な窓ガラスを見た。
映り込む景色には僕しかいない。
誰もいない店内に立っている僕の姿はとても儚げだ。
BGMを切った途端に海風の音が鼓膜に雪崩れ込んできて、僕の心を少しだけ揺らした。
そして次の朝、店前と階段の掃除をした裕子さんと古村さんは、三沢さんと一緒に古書店の二階へと上がっていった。
ついて行くかどうかを戸惑う僕に、裕子さんが声をかける。
「見届けてくださいよ、先輩」
そうか、僕は裕子さんの先輩ってことか。
「うん、わかった。応援してるからね」
予想通り裕子さんへの言葉は何も残っていなかったのだけれど、いきなりボヨンと姿を現した狐神が言葉を放った。
「よくつとめたり。御身労い申す。依って件の如し」
裕子さんの体が一瞬だけ光の玉になった。
僕はばあちゃんのようにそのまま消えてしまうんじゃないかと不安になって、思わず手を伸ばしてしまった。
その手を掴んだ三沢さんが小さな声で言う。
「大丈夫だ。信じろ」
光の玉がフッと割れて、透明な輝きが放たれた。
やがてそれがまた集まり、輝きの消失と共に裕子さんの体が現れる。
ずっと見守っていた狐が大きな声を出した。
「喝ッ! 二十二のあの日を思え! 喝ッ喝ッ!入園式に臨むために用意した洋服を纏え! 喝ッ喝ッ喝ッ! その時のまま留まるのじゃ!」
裕子さんの姿が透明感を失っていく。
ああ裕子さん、二十二の君は長い髪をしていたのだね。
その白いブラウスも紺色のスカートもとても似合っているよ。
狐が三沢さんと古村さんを見て頷く。
そして僕を見てボソッと言って消えていった。
「よろしく頼む」
時間にするとどのくらいだったのだろうか。
ルナール古書店の入口のガラスが朝日で白く見えた。
「お帰り。今日からよろしくね、裕子ちゃん」
古村さんが素の魂に戻った現身の裕子さんに手を差し出した。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
古村さんに続いて三沢さんが握手を求める。
「まあ仲良くやっていこう。今夜からきっととんでもなく忙しくなるけれど、頑張ってね」
「はい、子供たちに会うのが楽しみです」
こちらに顔を向けた裕子さんが、僕の手を握りながら言った。
「一緒に頑張ろうね、聡志君。美味しい食事を期待してます!」
僕は勢いで頷いた。
楽しそうに並んで喫茶部に向かう古村さんと裕子さんの背を呆然と見ていた僕に、三沢さんがスッと一冊の本を渡して言う。
「頑張れ」
その本は『初めての料理』という本だった。
僕たちの前には温かい麦茶がある。
僕の部屋は厨房横の階段から上がったところにあって、窓からはあの丘がよく見える。
もし裕子さんが残ることを選択したら、どの景色の部屋を選ぶのだろう。
「ねえ聡志君、君は寂しくは無いの?」
「そうですね……寂しいと思っていたのは生きていた時だけかな。死んでからっていうか、自分が死んだのだと認めてからは、寂しいという気持ちになったことはありません。まあ、元々感情の起伏が少ない方なのでしょうね。僕が実際に死んだのは九歳の時で、死んだと認めた十四歳までの五年間は、誰にも相手にされず孤独でしたから」
「おばあ様と一緒だったのでしょう?」
「ええ、ばあちゃんだけですよ。僕を僕として認識してくれたのは。でもね、それほど愛してくれたばあちゃんの顔も声も思い出せないんです。ものすごく偶に匂いを感じることはあるのですが、父と母も同じです。何も思い出せないんだ。寂しささえ感じない」
裕子さんが麦茶を一口飲んでから言った。
「美味しい……聡志君の淹れたお茶は本当に美味しいね。なんていうのかなぁ、愛の味がするのよね」
それは裕子さんが愛を覚えているからだろうね。
僕には愛された記憶さえ残っていない。
「そうですか? 愛の味かぁ、なかなか甘そうですね。ははは」
「そうね、甘露ってきっとこんな味でしょうね。聡志君の優しさが伝わるよ」
「ばあちゃん直伝なのですよ。使っている焙烙もばあちゃんの物だし」
「おばあ様はもう?」
「ええ、ちゃんと成仏しましたし、僕も見届けました。きっともう生まれ変わっているんじゃないかな? まあ会ってもわからないけれど」
「生まれ変わるのは幸せなのかしら」
「どうでしょう。神ジイが言うには、この星って『魂の修行場』らしいですよ。魂格を上げるためには修行が必要なんだそうです。上げてどうするのか聞いたら、神に近い存在になるのだと教えてくれました」
「神に近い?」
「ええ、でも思うんですよね。神になってどうするのかなって。だってそのうち何万年も何億年も経ったら、神だらけになっちゃうじゃないですか」
「ははは! 神様ばっかり? それってどんな世界なのかしらねえ」
ふとテーブルに影が差した。
「無の世界じゃよ。全てを必要とせず、全てを受け入れ、全てを赦す世界じゃ」
いきなり現れた神ジイの言葉に、僕は遠い昔に見た座禅を組む修験者の姿を思い出した。
「聡志、ワシにも麦茶を淹れてくれ」
「はい」
僕の座っていたところに腰をおろした神ジイは、じっと裕子さんを見ている。
「大丈夫かの? 随分血を流したようじゃが」
「はい大丈夫です。あの血は悪い血だから全部出した方が良いって狐さんが言ってました」
「ああ、あやつがそういうなら間違いない。痛みは無かったか?」
裕子さんが少し考えてから声を出す。
「痛かったかと聞かれたら、とても痛かったです。でも今は凄くすっきりしているのです。なんていうかなぁ、怖くてずっと我慢していた虫歯を思い切って抜いたような感じ?」
「ほほほっ! なるほどのう。ではスッキリしたのじゃな?」
「はい、とてもスッキリしました」
「心は定まったようじゃの?」
「はい、やっぱり私は子供の役に立ちたいです」
僕が出した熱い麦茶を一気に流し込み、神ジイは立ち上がった。
「明日じゃ。心せよ」
重々しい声を残して神ジイの姿が消えた。
今日僕が見た狐の前の血は、裕子さんが流した心の血なんだね。
悪い血って言ってたけれど、なるほどどす黒いわけだ。
もう安心だよ、裕子さん。
あの血の塊は、僕がキレイに洗い流しておいたからね。
「もう寝よっか、聡志君」
「うん、今日はゲストルームだけど明日からは好きな部屋を使っていいからね」
「ありがとう。おやすみなさい」
僕は茶器を片づけながら、真っ暗な窓ガラスを見た。
映り込む景色には僕しかいない。
誰もいない店内に立っている僕の姿はとても儚げだ。
BGMを切った途端に海風の音が鼓膜に雪崩れ込んできて、僕の心を少しだけ揺らした。
そして次の朝、店前と階段の掃除をした裕子さんと古村さんは、三沢さんと一緒に古書店の二階へと上がっていった。
ついて行くかどうかを戸惑う僕に、裕子さんが声をかける。
「見届けてくださいよ、先輩」
そうか、僕は裕子さんの先輩ってことか。
「うん、わかった。応援してるからね」
予想通り裕子さんへの言葉は何も残っていなかったのだけれど、いきなりボヨンと姿を現した狐神が言葉を放った。
「よくつとめたり。御身労い申す。依って件の如し」
裕子さんの体が一瞬だけ光の玉になった。
僕はばあちゃんのようにそのまま消えてしまうんじゃないかと不安になって、思わず手を伸ばしてしまった。
その手を掴んだ三沢さんが小さな声で言う。
「大丈夫だ。信じろ」
光の玉がフッと割れて、透明な輝きが放たれた。
やがてそれがまた集まり、輝きの消失と共に裕子さんの体が現れる。
ずっと見守っていた狐が大きな声を出した。
「喝ッ! 二十二のあの日を思え! 喝ッ喝ッ!入園式に臨むために用意した洋服を纏え! 喝ッ喝ッ喝ッ! その時のまま留まるのじゃ!」
裕子さんの姿が透明感を失っていく。
ああ裕子さん、二十二の君は長い髪をしていたのだね。
その白いブラウスも紺色のスカートもとても似合っているよ。
狐が三沢さんと古村さんを見て頷く。
そして僕を見てボソッと言って消えていった。
「よろしく頼む」
時間にするとどのくらいだったのだろうか。
ルナール古書店の入口のガラスが朝日で白く見えた。
「お帰り。今日からよろしくね、裕子ちゃん」
古村さんが素の魂に戻った現身の裕子さんに手を差し出した。
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
古村さんに続いて三沢さんが握手を求める。
「まあ仲良くやっていこう。今夜からきっととんでもなく忙しくなるけれど、頑張ってね」
「はい、子供たちに会うのが楽しみです」
こちらに顔を向けた裕子さんが、僕の手を握りながら言った。
「一緒に頑張ろうね、聡志君。美味しい食事を期待してます!」
僕は勢いで頷いた。
楽しそうに並んで喫茶部に向かう古村さんと裕子さんの背を呆然と見ていた僕に、三沢さんがスッと一冊の本を渡して言う。
「頑張れ」
その本は『初めての料理』という本だった。
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