ルナール古書店の秘密

志波 連

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32 待っていた子供

「大丈夫? 立てる?」

「お母さんなの? 私……目が……目が見えないの。耳もよく聞こえないの」

 その子を抱き上げた裕子さんが短い悲鳴を上げる。
 その子の目は酷く焼け爛れ、髪の毛と一緒に耳が溶け落ちていた。

「ごめんね、私はお母さんじゃないの。でもね、今からお母さんが行った場所に連れて行ってあげるわ。もう少し我慢できる?」

 女の子は黒くなってしまった皮膚をぶら下げたままの腕で裕子さんの首に抱きついた。

「重いだろう? 代わろう」

 古村さんが裕子さんにそう言ったが、裕子さんはしっかりと首を横に振った。

「重くはないわ。早く帰りましょう。手当をしなくちゃ」

 頷いた古村さんが裕子さんとその子を抱きしめるような形でスッと消えた。

「私たちも急ごう」

 三沢さんが僕の手を取った。
 ルナール古書店に戻ってすぐ、三沢さんはその子への言葉を探すために二階へ上がり、古村さんと裕子さんは濡れタオルでゆっくりと女の子の焦げた皮膚をとっている。
 塗っているのはワセリンだろうか。
 気休めだとしても、何かせずにはいられない。
 僕はゆっくりと女の子に近づいた。

「ねえお嬢ちゃん、お名前は言える?」

「サト子です」

「何歳かな?」

「先月で七つになりました」

「そうか、七つか。随分しっかりしているね。大したものだ」

 サト子と名乗った女の子は嬉しそうに頷いた。

「だってお父様は海軍中尉でいらっしゃるのですもの。サト子がお父様に恥をかかせてはなりません」

「それはお母様がそう言われたのかな?」

「はい、お母様はいつもお父様を気遣っておられます」

「お父様はどちらに?」

「お父様は今とても大切なお仕事でお留守です。大和という大きな軍艦に勤務されておられます」

 それを聞いた古村さんと裕子さんが顔を見合わせた。
 裕子さんが何かを言いかけたけれど、古村さんが小さく首を振って止めている。
 さすがの僕でも戦艦大和の最後は知っていた。

「凄いね。サト子ちゃんはお父様が好き?」

「はい、サト子はお父様もお母様もご尊敬申し上げております」

 戦時中の教育とはいえ、こんなの幼い子の受け答えではないよね。
 ある意味恐ろしいと僕は思った。

「今ね、もう一人のおじさんがサト子ちゃんをお母さんが行った場所へ連れて行くための準備をしてくれているんだ。もう少し待ってね。傷はどう? 痛む? お腹は空いてない?」

「痛いけれど我慢できます。お腹は……空いていません」

 絶対に噓だ。
 火傷で顔色はわからないが、当時の食糧事情は知っている。
 もう何度も戦争で命を落とした子を送っているのだから。

「今からみんなでごはんなのだけれど、良かったらサト子ちゃんも一緒に食べてくれないかな? たくさん作るから余ると勿体ないでしょ?」

 ギュッと唇を引き結んでいたが、サト子ちゃんの腹の虫は正直者のようだ。

「す……すみません」

「いいんだ。ねえ、サト子ちゃんは何が好きかな?」

「何でも美味しくいただきます」

 凄い教育だよね。
 痛々しいような気がするのは、僕が前々世をキレイに忘れているからだろう。
 あの時の僕も同じような暮らしをしていたはずなのに、この子の自制心の強さには胸が苦しくなるほどだ。

「稲荷ずし……サト子ちゃんは稲荷ずしが好きだ」

 古村さんがこの子の思考に入ったのだろう。
 聡子ちゃんがコクコクと何度も頷いている。

「じゃあ稲荷ずしを作ろう。お味噌汁は何が良いかな……薩摩芋? それとも大根かな?」

「豆腐とわかめだ」

 古村さんの声に、サト子ちゃんがものすごく驚いていた。

「おじさんにはどうしてわかるの?」

「おじさんは何でも分かるのさ。サト子ちゃんが大事にしていた日本人形のことも、お母様に作って貰ったお手玉を大切にしていることも知っているよ」

 ねえ古村さん、サト子ちゃんがドン引きしているからもう止めた方が良くない?
 僕の心配など無用なようで、裕子さんが会話にドカンと乗ってきた。

「まあ! サト子ちゃんはお手玉ができるの? お姉ちゃんも上手なんだよ? 二つ? それとも三つかな?」

「三つ」

「凄いねぇ。お姉ちゃんは三つだと失敗しちゃう」

「フフフ」

 サト子ちゃんが笑った。
 頬が引き攣れて血が吹き出す。
 きっとこの子は命を失ったあの日のまま、ずっと蹲っていたのだろう。
 その血を拭きながら、裕子さんが言った。

「私のおばあちゃんはね、神戸の人だったの。関西の人ってお手玉のことを『おじゃみ』って言うんだよ? 可愛いでしょ」

「おじゃみ?」

「そうよ、中には小豆を入れてあってね、手に取ると『じゃみじゃみ』っていう音がするからだと思うんだぁ」

「フフフ! じゃみじゃみって音がするの?」

 なんと可愛らしい顔で笑う子だろう。
 笑うたびに皮膚が破れて血が滲み、焼けて頬とくっついてしまった瞼がビクビクと動く。
 僕は渾身の稲荷ずしを作ろうと固く心に誓った。

「なあ聡志、お前作れんの?」

「わかりません。でもやらなくちゃ」

「そうだな。じゃあ油揚げは俺が用意するから、お前はメシを炊いておいてくれ」

「わかりました」

 古村さんが消え、僕は米を洗い始めた。
 きっと今のこの国で手に入る最高の油揚げを持って帰ってくれるだろう。
 洗った米に水を張り冷蔵庫に入れた。
 今日は寿司なので、分量は少し少なめにしてある。
 本当なら羽釜で炊いてあげられたら良いのだけれど、今の僕には無理なんだ。
 ごめんね、サト子ちゃん。
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