34 / 43
34 訪問者
しおりを挟む
そして翌日、サト子ちゃんは見事に旅立った。
裕子さんは最後まで千代さんを演じ切り、それから数日は『千代さん』と呼ばなくては振り向かなかったくらいで、三沢さんと古村さんは『凄い憑依芸』だと感心していた。
あの日一緒にお稲荷さんを食べた子供たちも優しい微笑みを残して消えてゆき、久しぶりにルナール古書店喫茶部に静かな波の音が戻ってきた。
そして僕たちは新しい春を迎え、日々忙しく過ごしている。
僕が子供たちに声をかけ、裕子さんが保育部に迎え入れて話を聞くという役割分担も、なかなかスムーズになってきた。
人間のお客は増えもせず減りもせずというところだろうか。
ただ不思議なほど古書の売り上げが伸びているらしい。
僕は週に一度だけれど、大量のお稲荷さんを作っている。
もちろん狐たちのリクエストなのだが、年代を問わず子供たちはこの甘辛い油揚げが好きみたいだ。
古村さんはもう少し甘さを控えろと言うのだけれど、子供に合わせるとこうなるんだよね。
文句を言うなら食べなきゃいいのに、毎回恐ろしいほどの速度で平らげてしまう古村さん。
あの女神様の狐も気に入ったようで、時々姿を現しては『所望する』とだけ言う。
三沢さんの教えで『謹んで承りぬ』って返事をするのだけれど、こればかりはなかなか慣れない。
そして海の青と空の青が水平線できれいに溶け合った晩春の午後、とても懐かしい人が店に来た。
「こんにちは、松木さん。私を覚えてる?」
その人はベージュの春コートをさらりと羽織り、少しだけ照れたような笑顔を僕に向けた。
薄い水色のスカーフが、とてもよく似合っている。
「山田さん? 山田玲子さんでしょ? 懐かしいなぁ」
「ああよかった。忘れられていたらどうしようってドキドキしちゃった。元気そうね。それに素晴らしいお店じゃない。羨ましいわ」
「ああ、ありがとう。でも僕が作ったわけじゃないから。どうぞ座ってよ。今日はひとり?」
「うん、ひとりよ」
「あっ、遅くなったけれど開店祝いをありがとうございました」
「いえいえ、小さな花だったのにお礼状までいただいて、かえって申し訳なかったわ」
「レジ横に飾らせてもらったんだ。お陰でとても華やかだとみなさん褒めてくれたよ」
「そう、それなら良かったわ」
「はい、メニュー。山田さんに教えてもらったガレットは人気メニューだよ」
数年ぶりに会う山田玲子さんは、記憶より少し瘦せていた。
たしか離婚して一人暮らしだって言っていたけれど、何かあったのだろうか。
「ねえ、山田さんはお店は?」
メニューから顔を上げて、僕の顔を見た山田さんの目は悲しそうだった。
「ううん……まだよ。っていうか諦めたの。いろいろあってね。近所のファミレスでバイトしていたのだけれど、それも昨日で終わり。もう……なんていうか……疲れちゃった」
「そうなんだ……」
こういう時、大人って踏み込んで聞くものなのだろうか。
長く生きてはいるけれど、成長もしないし人との付き合いもしない僕にはわからない。
「ルナールブレンドを下さい。それとリンゴのガレットを」
「はい、畏まりました」
僕は黙ってリンゴの皮をむいた。
大量の砂糖でゆっくりと煮てからそば粉のクレープに中に入れる。
その上にクリームチーズと砕いた胡桃をトッピングして、シナモンシュガーを振りかけた。
「どうぞ、お待たせしました。コーヒーはすぐに淹れるから、もう少し待ってね」
波の音とシンクロするようにコーヒーの香りが漂う。
山田さんはじっと窓枠に切り取られた林を見ていた。
カップを置くと小さな声で礼を言い、ゆっくりと香りを楽しんでいる。
彼女とはそれほど縁があったわけではないけれど、あのメンバーの中では一番話をした人だ。
気にならないわけがない。
「美味しい……香りとコクと苦みのバランスが絶妙ね。どれほど松木さんが苦労したかがわかるわ」
「そう言ってもらえると救われるよ。なぜかみんな『ブレンド』って言うと、ストレートより格下に思うから」
「ははは! そういう人多いよね。お店のプライドなのにね」
そう言ったきり山田さんは黙ってしまった。
ただ無心にコーヒーを楽しんでいるのなら良いのだけれど、ここ数年の経験でそうではないことがピシピシと伝わってくる。
「ガレットもとっても美味しいわ」
ナイフとフォークを置いた山田さんの目には涙が浮かんでいた。
裕子さんは最後まで千代さんを演じ切り、それから数日は『千代さん』と呼ばなくては振り向かなかったくらいで、三沢さんと古村さんは『凄い憑依芸』だと感心していた。
あの日一緒にお稲荷さんを食べた子供たちも優しい微笑みを残して消えてゆき、久しぶりにルナール古書店喫茶部に静かな波の音が戻ってきた。
そして僕たちは新しい春を迎え、日々忙しく過ごしている。
僕が子供たちに声をかけ、裕子さんが保育部に迎え入れて話を聞くという役割分担も、なかなかスムーズになってきた。
人間のお客は増えもせず減りもせずというところだろうか。
ただ不思議なほど古書の売り上げが伸びているらしい。
僕は週に一度だけれど、大量のお稲荷さんを作っている。
もちろん狐たちのリクエストなのだが、年代を問わず子供たちはこの甘辛い油揚げが好きみたいだ。
古村さんはもう少し甘さを控えろと言うのだけれど、子供に合わせるとこうなるんだよね。
文句を言うなら食べなきゃいいのに、毎回恐ろしいほどの速度で平らげてしまう古村さん。
あの女神様の狐も気に入ったようで、時々姿を現しては『所望する』とだけ言う。
三沢さんの教えで『謹んで承りぬ』って返事をするのだけれど、こればかりはなかなか慣れない。
そして海の青と空の青が水平線できれいに溶け合った晩春の午後、とても懐かしい人が店に来た。
「こんにちは、松木さん。私を覚えてる?」
その人はベージュの春コートをさらりと羽織り、少しだけ照れたような笑顔を僕に向けた。
薄い水色のスカーフが、とてもよく似合っている。
「山田さん? 山田玲子さんでしょ? 懐かしいなぁ」
「ああよかった。忘れられていたらどうしようってドキドキしちゃった。元気そうね。それに素晴らしいお店じゃない。羨ましいわ」
「ああ、ありがとう。でも僕が作ったわけじゃないから。どうぞ座ってよ。今日はひとり?」
「うん、ひとりよ」
「あっ、遅くなったけれど開店祝いをありがとうございました」
「いえいえ、小さな花だったのにお礼状までいただいて、かえって申し訳なかったわ」
「レジ横に飾らせてもらったんだ。お陰でとても華やかだとみなさん褒めてくれたよ」
「そう、それなら良かったわ」
「はい、メニュー。山田さんに教えてもらったガレットは人気メニューだよ」
数年ぶりに会う山田玲子さんは、記憶より少し瘦せていた。
たしか離婚して一人暮らしだって言っていたけれど、何かあったのだろうか。
「ねえ、山田さんはお店は?」
メニューから顔を上げて、僕の顔を見た山田さんの目は悲しそうだった。
「ううん……まだよ。っていうか諦めたの。いろいろあってね。近所のファミレスでバイトしていたのだけれど、それも昨日で終わり。もう……なんていうか……疲れちゃった」
「そうなんだ……」
こういう時、大人って踏み込んで聞くものなのだろうか。
長く生きてはいるけれど、成長もしないし人との付き合いもしない僕にはわからない。
「ルナールブレンドを下さい。それとリンゴのガレットを」
「はい、畏まりました」
僕は黙ってリンゴの皮をむいた。
大量の砂糖でゆっくりと煮てからそば粉のクレープに中に入れる。
その上にクリームチーズと砕いた胡桃をトッピングして、シナモンシュガーを振りかけた。
「どうぞ、お待たせしました。コーヒーはすぐに淹れるから、もう少し待ってね」
波の音とシンクロするようにコーヒーの香りが漂う。
山田さんはじっと窓枠に切り取られた林を見ていた。
カップを置くと小さな声で礼を言い、ゆっくりと香りを楽しんでいる。
彼女とはそれほど縁があったわけではないけれど、あのメンバーの中では一番話をした人だ。
気にならないわけがない。
「美味しい……香りとコクと苦みのバランスが絶妙ね。どれほど松木さんが苦労したかがわかるわ」
「そう言ってもらえると救われるよ。なぜかみんな『ブレンド』って言うと、ストレートより格下に思うから」
「ははは! そういう人多いよね。お店のプライドなのにね」
そう言ったきり山田さんは黙ってしまった。
ただ無心にコーヒーを楽しんでいるのなら良いのだけれど、ここ数年の経験でそうではないことがピシピシと伝わってくる。
「ガレットもとっても美味しいわ」
ナイフとフォークを置いた山田さんの目には涙が浮かんでいた。
29
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる