ルナール古書店の秘密

志波 連

文字の大きさ
41 / 43

41 悪とは

「心配ないからね。まあお茶でも飲んで待っていよう」

 努めて明るい声を出したつもりだったが、どうやら僕の演技ではダメみたい。
 地味に落ち込む……。

「何かしら、この饐えたような匂いは……これが?」

 裕子さんが落ち込む僕を華麗にスルーして言った。

「うん、これが厄者の匂いだよ」

 厄者の匂いは初めての裕子さんが小さく何度も頷いた。

「そんな匂いがするの? 私にはわからないわ」

 そりゃ玲子さんは生身の人間だもの。

「仕方がないよ。素の魂になると匂いには特に敏感になるんだ」

「そうなんだ……だからここはいつも良い匂いがしてるのね? コーヒーとはお茶とか、何もない時でも潮騒の匂いがするわ」

「潮騒の匂い?」

 僕はきっと不思議そうな顔をしていたはずだ。
 だって海の匂いではなく、潮騒の匂いって言ったのだから。

「ええ、少し悲しくて少し寂しくて。でもとても優しくて温かいような匂いよ。太陽の匂いは力強くて元気が出るでしょう? 潮騒の匂いは心がとても穏やかになるのよね」

 僕と裕子さんは顔を見合わせた。

「あら……本当だわ。少し生臭いわね。これが厄者の匂い? 嫌な匂いだわ」

「でしょう? この匂いの塊に、三沢さんと古村さんは対峙しているんだよ。僕も裕子さんもまだその域には達していないから、守ってもらうしかないんだ」

「対峙……ねえ、聡志君。その厄者っていうのはいったい何なの?」

 僕はどこから話してよいのか戸惑ってしまった。
 だってものすごく難しいんだよね、説明が。
「一度で理解できないことはわかっているわ。要するに悪の塊みたいになった魂ってことよね? その魂が入っちゃった体は何をするの?」

「例えばそうだね……アウシュビッツって知ってる?」

「ええ、もちろんよ」

「それをやり始めた人間だけが悪というわけではないんだよ。それに異を唱えず黙認し、追認した者っていうのがいるでしょう? 悪はね、それを扇動した者さ」

「扇動した……」

「そう、そして悪が何より恐ろしいのは善の魂を麻痺させてしまうことなんだ。収容者に加害していた者たち全てが悪ではないんだ。それほどの非人道的な行いを『当たり前』としてさせてしまった者。それが本当の悪だ。実際に手を下していた者たちの善の魂を麻痺させてね」

「なるほど。聡志君の言わんとしているところはわかるわ。その理論で言うならヒトラーは悪ではない?」

「どうなのだろう。でも彼がそうするように仕向けてきた者は間違いなく悪だよ」

「誰なの?」

「わからない。一人じゃないからね。小さな積み重ねの結果なんだ。複数の悪が繰り返し繰り返し擦り込んでいく。だから気づけないんだよ、神達もね。そしてもう一つ重要なのは、自分を大切にできない者の体は、悪の影響を受けやすいってことさ」

「怖いわね。悪の影響を受けやすい者が、波のように繰り返し繰り返し……そうよね、そんなことをされるから善の魂は麻痺するのね。麻痺というか鈍くなる?」

「そう、悪に鈍感になる。だから自分の歪さに気づけないんだ。悪がそれを正しいと思って行動しているから説得力があるのかもしれない。それに集団心理という危険もあるし」

「もしかして戦争も同じようなもの?」

 ずっと黙って聞いていた裕子さんが、随分前に見送った女の子の話をした。

「妄信? 洗脳? 恐ろしいわね。それを始めたのが悪なのね」

「そうね、言い切るならそうだけれど、悪って大きな塊じゃなくて……なんて言えばいいのかな。ねえ、聡志君が説明してよ」

 丸投げかよ!
 まあ裕子さんだから許すけど。

「悪というのは、そのひとつずつは本当に小さくて、持っていた本人さえそれが悪意だとは気づけていない場合もあるんだ。そんな微粒子のようなものが、どれか一つの器に集まると『悪人』になるし、複数の器に分散して他の器を攻撃すると『悪意』ってことになるね。そこまで来ると魂にも浸透してしまうんだ。魂が麻痺した人間は簡単に流されてしまう」

 玲子さんは考え込んでしまった。
 そうなんだよね、悪って一言ではなかなか言い表せない複雑さを持っているんだ。
 だって『悪いことをしている』という意識を持っているのは善人だけで、悪そのものは『当たり前のことをしている』という意識なのだから。

 大きく言えば戦争はその最たるものだろう。
 身近で言えば『いじめ』がそうだ。
 誰が始めたのかなんて、誰にも分らない。
 誰が終わらせるのかも定かではない。
 ただ『みんながやるから私もやる』という、悪とは言えないほどの小さな無関心が、たった一人を追い詰めていく。

「まるでいじめの心理ね。本当に厄介だわ」

 さすがだ、玲子さん。

「最近読んだ本に『いじめ』は野生動物の中にも存在するのだと書いてあったよ。いじめは『自分が生き残るために手段』のようなもので、大勢で一匹を追い落とすんだって。そしてその一匹が去ると、何事も無かったように次の一匹がロックオンされる」

「なんとも悲しい話ね」

「うん、でもこれは集団生活をすることを選んだ野生動物だけの話なんだってさ。人間もそうだよね。集団で生活するほぼすべての動物が同じことをするってことは『いじめ』って本能のだよね。でも人間は野生動物じゃないでしょ? でも野生動物と同じことをしてる」

「そうよね、人間であるからには理性も知性もあるわよね。ということは『いじめ』に加担する人たちって野生動物に近いってこと?」

「そうなるよね。本能を理性で制御できない劣化した人間だ」

 裕子さんが言う。

「幼稚園でもあったわ。きっかけは本当に些細な事なのよ? 自分が使おうと思った玩具を先に使ったとか、そんなどうでも良いようなこと。でもね、それが続くと幼稚園児でさえストレス性の胃潰瘍になったりするの。そんな弱った時につけ込まれたら……私だって自信無いわ」

 僕たちは黙り込んでしまった。
 なぜ他者に構うのだろうか? 個が個であることをなぜ許容しない?
 そんなことを考えていた時、店の方で子供の叫び声がした。
 何事だ?
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転

小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。 人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。 防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。 どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね

魚夢ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。 元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、 王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。 代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。 父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。 カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。 その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。 ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。 「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」 そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。 もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。 

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)