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41 悪とは
「心配ないからね。まあお茶でも飲んで待っていよう」
努めて明るい声を出したつもりだったが、どうやら僕の演技ではダメみたい。
地味に落ち込む……。
「何かしら、この饐えたような匂いは……これが?」
裕子さんが落ち込む僕を華麗にスルーして言った。
「うん、これが厄者の匂いだよ」
厄者の匂いは初めての裕子さんが小さく何度も頷いた。
「そんな匂いがするの? 私にはわからないわ」
そりゃ玲子さんは生身の人間だもの。
「仕方がないよ。素の魂になると匂いには特に敏感になるんだ」
「そうなんだ……だからここはいつも良い匂いがしてるのね? コーヒーとはお茶とか、何もない時でも潮騒の匂いがするわ」
「潮騒の匂い?」
僕はきっと不思議そうな顔をしていたはずだ。
だって海の匂いではなく、潮騒の匂いって言ったのだから。
「ええ、少し悲しくて少し寂しくて。でもとても優しくて温かいような匂いよ。太陽の匂いは力強くて元気が出るでしょう? 潮騒の匂いは心がとても穏やかになるのよね」
僕と裕子さんは顔を見合わせた。
「あら……本当だわ。少し生臭いわね。これが厄者の匂い? 嫌な匂いだわ」
「でしょう? この匂いの塊に、三沢さんと古村さんは対峙しているんだよ。僕も裕子さんもまだその域には達していないから、守ってもらうしかないんだ」
「対峙……ねえ、聡志君。その厄者っていうのはいったい何なの?」
僕はどこから話してよいのか戸惑ってしまった。
だってものすごく難しいんだよね、説明が。
「一度で理解できないことはわかっているわ。要するに悪の塊みたいになった魂ってことよね? その魂が入っちゃった体は何をするの?」
「例えばそうだね……アウシュビッツって知ってる?」
「ええ、もちろんよ」
「それをやり始めた人間だけが悪というわけではないんだよ。それに異を唱えず黙認し、追認した者っていうのがいるでしょう? 悪はね、それを扇動した者さ」
「扇動した……」
「そう、そして悪が何より恐ろしいのは善の魂を麻痺させてしまうことなんだ。収容者に加害していた者たち全てが悪ではないんだ。それほどの非人道的な行いを『当たり前』としてさせてしまった者。それが本当の悪だ。実際に手を下していた者たちの善の魂を麻痺させてね」
「なるほど。聡志君の言わんとしているところはわかるわ。その理論で言うならヒトラーは悪ではない?」
「どうなのだろう。でも彼がそうするように仕向けてきた者は間違いなく悪だよ」
「誰なの?」
「わからない。一人じゃないからね。小さな積み重ねの結果なんだ。複数の悪が繰り返し繰り返し擦り込んでいく。だから気づけないんだよ、神達もね。そしてもう一つ重要なのは、自分を大切にできない者の体は、悪の影響を受けやすいってことさ」
「怖いわね。悪の影響を受けやすい者が、波のように繰り返し繰り返し……そうよね、そんなことをされるから善の魂は麻痺するのね。麻痺というか鈍くなる?」
「そう、悪に鈍感になる。だから自分の歪さに気づけないんだ。悪がそれを正しいと思って行動しているから説得力があるのかもしれない。それに集団心理という危険もあるし」
「もしかして戦争も同じようなもの?」
ずっと黙って聞いていた裕子さんが、随分前に見送った女の子の話をした。
「妄信? 洗脳? 恐ろしいわね。それを始めたのが悪なのね」
「そうね、言い切るならそうだけれど、悪って大きな塊じゃなくて……なんて言えばいいのかな。ねえ、聡志君が説明してよ」
丸投げかよ!
まあ裕子さんだから許すけど。
「悪というのは、そのひとつずつは本当に小さくて、持っていた本人さえそれが悪意だとは気づけていない場合もあるんだ。そんな微粒子のようなものが、どれか一つの器に集まると『悪人』になるし、複数の器に分散して他の器を攻撃すると『悪意』ってことになるね。そこまで来ると魂にも浸透してしまうんだ。魂が麻痺した人間は簡単に流されてしまう」
玲子さんは考え込んでしまった。
そうなんだよね、悪って一言ではなかなか言い表せない複雑さを持っているんだ。
だって『悪いことをしている』という意識を持っているのは善人だけで、悪そのものは『当たり前のことをしている』という意識なのだから。
大きく言えば戦争はその最たるものだろう。
身近で言えば『いじめ』がそうだ。
誰が始めたのかなんて、誰にも分らない。
誰が終わらせるのかも定かではない。
ただ『みんながやるから私もやる』という、悪とは言えないほどの小さな無関心が、たった一人を追い詰めていく。
「まるでいじめの心理ね。本当に厄介だわ」
さすがだ、玲子さん。
「最近読んだ本に『いじめ』は野生動物の中にも存在するのだと書いてあったよ。いじめは『自分が生き残るために手段』のようなもので、大勢で一匹を追い落とすんだって。そしてその一匹が去ると、何事も無かったように次の一匹がロックオンされる」
「なんとも悲しい話ね」
「うん、でもこれは集団生活をすることを選んだ野生動物だけの話なんだってさ。人間もそうだよね。集団で生活するほぼすべての動物が同じことをするってことは『いじめ』って本能のだよね。でも人間は野生動物じゃないでしょ? でも野生動物と同じことをしてる」
「そうよね、人間であるからには理性も知性もあるわよね。ということは『いじめ』に加担する人たちって野生動物に近いってこと?」
「そうなるよね。本能を理性で制御できない劣化した人間だ」
裕子さんが言う。
「幼稚園でもあったわ。きっかけは本当に些細な事なのよ? 自分が使おうと思った玩具を先に使ったとか、そんなどうでも良いようなこと。でもね、それが続くと幼稚園児でさえストレス性の胃潰瘍になったりするの。そんな弱った時につけ込まれたら……私だって自信無いわ」
僕たちは黙り込んでしまった。
なぜ他者に構うのだろうか? 個が個であることをなぜ許容しない?
そんなことを考えていた時、店の方で子供の叫び声がした。
何事だ?
努めて明るい声を出したつもりだったが、どうやら僕の演技ではダメみたい。
地味に落ち込む……。
「何かしら、この饐えたような匂いは……これが?」
裕子さんが落ち込む僕を華麗にスルーして言った。
「うん、これが厄者の匂いだよ」
厄者の匂いは初めての裕子さんが小さく何度も頷いた。
「そんな匂いがするの? 私にはわからないわ」
そりゃ玲子さんは生身の人間だもの。
「仕方がないよ。素の魂になると匂いには特に敏感になるんだ」
「そうなんだ……だからここはいつも良い匂いがしてるのね? コーヒーとはお茶とか、何もない時でも潮騒の匂いがするわ」
「潮騒の匂い?」
僕はきっと不思議そうな顔をしていたはずだ。
だって海の匂いではなく、潮騒の匂いって言ったのだから。
「ええ、少し悲しくて少し寂しくて。でもとても優しくて温かいような匂いよ。太陽の匂いは力強くて元気が出るでしょう? 潮騒の匂いは心がとても穏やかになるのよね」
僕と裕子さんは顔を見合わせた。
「あら……本当だわ。少し生臭いわね。これが厄者の匂い? 嫌な匂いだわ」
「でしょう? この匂いの塊に、三沢さんと古村さんは対峙しているんだよ。僕も裕子さんもまだその域には達していないから、守ってもらうしかないんだ」
「対峙……ねえ、聡志君。その厄者っていうのはいったい何なの?」
僕はどこから話してよいのか戸惑ってしまった。
だってものすごく難しいんだよね、説明が。
「一度で理解できないことはわかっているわ。要するに悪の塊みたいになった魂ってことよね? その魂が入っちゃった体は何をするの?」
「例えばそうだね……アウシュビッツって知ってる?」
「ええ、もちろんよ」
「それをやり始めた人間だけが悪というわけではないんだよ。それに異を唱えず黙認し、追認した者っていうのがいるでしょう? 悪はね、それを扇動した者さ」
「扇動した……」
「そう、そして悪が何より恐ろしいのは善の魂を麻痺させてしまうことなんだ。収容者に加害していた者たち全てが悪ではないんだ。それほどの非人道的な行いを『当たり前』としてさせてしまった者。それが本当の悪だ。実際に手を下していた者たちの善の魂を麻痺させてね」
「なるほど。聡志君の言わんとしているところはわかるわ。その理論で言うならヒトラーは悪ではない?」
「どうなのだろう。でも彼がそうするように仕向けてきた者は間違いなく悪だよ」
「誰なの?」
「わからない。一人じゃないからね。小さな積み重ねの結果なんだ。複数の悪が繰り返し繰り返し擦り込んでいく。だから気づけないんだよ、神達もね。そしてもう一つ重要なのは、自分を大切にできない者の体は、悪の影響を受けやすいってことさ」
「怖いわね。悪の影響を受けやすい者が、波のように繰り返し繰り返し……そうよね、そんなことをされるから善の魂は麻痺するのね。麻痺というか鈍くなる?」
「そう、悪に鈍感になる。だから自分の歪さに気づけないんだ。悪がそれを正しいと思って行動しているから説得力があるのかもしれない。それに集団心理という危険もあるし」
「もしかして戦争も同じようなもの?」
ずっと黙って聞いていた裕子さんが、随分前に見送った女の子の話をした。
「妄信? 洗脳? 恐ろしいわね。それを始めたのが悪なのね」
「そうね、言い切るならそうだけれど、悪って大きな塊じゃなくて……なんて言えばいいのかな。ねえ、聡志君が説明してよ」
丸投げかよ!
まあ裕子さんだから許すけど。
「悪というのは、そのひとつずつは本当に小さくて、持っていた本人さえそれが悪意だとは気づけていない場合もあるんだ。そんな微粒子のようなものが、どれか一つの器に集まると『悪人』になるし、複数の器に分散して他の器を攻撃すると『悪意』ってことになるね。そこまで来ると魂にも浸透してしまうんだ。魂が麻痺した人間は簡単に流されてしまう」
玲子さんは考え込んでしまった。
そうなんだよね、悪って一言ではなかなか言い表せない複雑さを持っているんだ。
だって『悪いことをしている』という意識を持っているのは善人だけで、悪そのものは『当たり前のことをしている』という意識なのだから。
大きく言えば戦争はその最たるものだろう。
身近で言えば『いじめ』がそうだ。
誰が始めたのかなんて、誰にも分らない。
誰が終わらせるのかも定かではない。
ただ『みんながやるから私もやる』という、悪とは言えないほどの小さな無関心が、たった一人を追い詰めていく。
「まるでいじめの心理ね。本当に厄介だわ」
さすがだ、玲子さん。
「最近読んだ本に『いじめ』は野生動物の中にも存在するのだと書いてあったよ。いじめは『自分が生き残るために手段』のようなもので、大勢で一匹を追い落とすんだって。そしてその一匹が去ると、何事も無かったように次の一匹がロックオンされる」
「なんとも悲しい話ね」
「うん、でもこれは集団生活をすることを選んだ野生動物だけの話なんだってさ。人間もそうだよね。集団で生活するほぼすべての動物が同じことをするってことは『いじめ』って本能のだよね。でも人間は野生動物じゃないでしょ? でも野生動物と同じことをしてる」
「そうよね、人間であるからには理性も知性もあるわよね。ということは『いじめ』に加担する人たちって野生動物に近いってこと?」
「そうなるよね。本能を理性で制御できない劣化した人間だ」
裕子さんが言う。
「幼稚園でもあったわ。きっかけは本当に些細な事なのよ? 自分が使おうと思った玩具を先に使ったとか、そんなどうでも良いようなこと。でもね、それが続くと幼稚園児でさえストレス性の胃潰瘍になったりするの。そんな弱った時につけ込まれたら……私だって自信無いわ」
僕たちは黙り込んでしまった。
なぜ他者に構うのだろうか? 個が個であることをなぜ許容しない?
そんなことを考えていた時、店の方で子供の叫び声がした。
何事だ?
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