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第一章 戦火の羅針盤
1−1 書庫の番人と始まりの婚姻
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空鏡の洞窟の、寂寞たる泉にひたりと広がる波紋。黄ばんだ魔導書たちの収められた本棚の影。夜明け前、明星黒竜が見下ろす山々の稜線。
寝静まった人家の暖炉の熾や、役目を終えた落ち葉の切れ端。
死闇の呼気と、朝露の微笑み。
沈む思考。
安らぎ。
追憶。
あらゆる静謐の中に、彼女はいる。
*
(入り口のほうが、なんだか騒がしい)
ユスタッチェ国立書庫の奥の奥、重なる書架の並ぶ路を抜けた先。乾いたほこりの匂いとやわらかな魔法の光に包まれた空間にて、静謐の魔女は読んでいた本をばたんと閉じて顔を上げた。
わずかに起こった風が彼女の真っ直ぐな髪をそわりと揺らす。一度まぶたを閉じ、ふたたび開かれた瞳が宿すのは髪と同じ色の光だ。
水底の影を切り取ったような、見る者をぞっとさせるほどに深い青。
そのまま立ち上がる動作には一切の感情が滲まず、ただ肩の下で切り揃えられた毛先がさざ波のようにブラウスを撫でた。
(書庫では静かに。簡単なことがどうしてできないのだろう)
心の内ではそう憤慨しているものの、静謐の魔女はその要素の通り凪いだ表情で書架の隙間を歩く。丁寧に磨かれた革製の編み上げ長靴がやわらかく絨毯を踏んで不要なさざめきを崩していく。穏やかに褪せた風合いの美しい刺繍入りのスカートからは静謐の影が溢れた。
無機質に静謐を紡ぐ姿は、まさに書庫の番人。
この書庫でざわめきを捉えるたび、彼女は片っ端から静謐で塗りつぶす。ゆえに静謐の魔女は番人などと呼ばれているのだが、本人はその事実を、そこに込められた悪意を知らない。
さて、本日の不届き者はといえば、少々異質なものであった。
それは人ならざる者たちの気配。彼女自身も人間の領域においては異質な存在であるが、水と火という書物には禁じ手ともいえる要素の攻防に、静謐の魔女はわずかに眉をひそめる。
常ならばひと息に静謐で埋め尽くしてしまうところ。しかしそこかしこに散らされた要素は簡単には崩れず、意思を持ってそこに在り続けた。
(それなりに力のある者なのだ。……しかたない、声を出すのは好まないけれど)
魔女の声には強い魔法が宿る。その揺らぎが書物へ影響を与えることは免れないが、不届き者たちのそれよりかはましであろうと静謐の魔女はひとつ頷いた。
「ここは書庫です。静かになさい」
「――っ!」
平淡で、しかし濃密な言葉に返された反応は三つ。
服従と反発と、それから安堵。
服従を示した者は時を待たずして崩れゆき、果てには煌めきだけを残して空中に舞うほこりと混ざりあう。反発を示した者は毒混じりの霧を吐き出したが、静謐の魔女が手を出すまでもなく書庫の自浄魔術に阻まれた。
そして安堵を示した者は、ただ牽制のためだったのだと主張するようにいつのまにか火の要素を収めている。
「君は――」
「やあね、番人がなんの用かしら。あたしたちの逢瀬を邪魔しないでちょうだい」
「番人?」
「書庫の番人よ。頭でっかちな本の虫。静謐の魔女らしく陰に潜んでいればいいものを」
嘲るように口の端を持ち上げた反発者は紫がかった水色の羽が美しい妖精で、質問してきた相手に対し夜の気配をまといながら腕を絡める。あえかに羽を光らせ、慣れたようすで艶やかな吐息を溢す姿は、ふたりのあいだにあるただならぬ関係性を窺わせた。
(逢瀬こそ、よそでやってほしいのだ。話が通じないようなら、影へ沈めてしまおうか)
静謐の魔女の思考が大雑把で物騒なほうへ向き出したことなどつゆ知らず、しかし腕をとられたままの男はどこか呆然としながら「…………静謐の魔女。存在したんだな」と呟いている。
本物の火のように波打つ焚き火色の髪は風もないのに揺らぎ、書庫の中でひやりとするほどに灯る。重々しい濃紺のケープマントから漂うのは戦の気配で、静謐の魔女はこれは何度も物語の中で目にした容貌だと、彼が戦火の聖人であることを確信した。
「すまない。彼女たちを振り払うのによい場所をと思ったんだが、たしかにここは場違いだった」
「そう思うのでしたらどうぞ今すぐお引取りを」
物語ではよく派手好きで軟派なうえに苛烈な男として描かれる戦火の聖人が誠実な表情を見せるのは意外だが、騒々しさとは無縁でいたい静謐の魔女は徹底的に排除するのだと意気込む。多くの時をここで過ごす彼女にとって、ユスタッチェ国立書庫は自身の領域にも等しいのだ。
しかし、話しながら深めた静謐は水色の妖精を蝕むばかり。
「…………ああ、力も申し分ないようだ」
しかめられた表情を見ればたしかに静謐の魔法が届いているのだとわかるが、聖人の自由を奪うにはあと一歩及ばない。これ以上強めることで書庫そのものの土台を崩してしまえば本末転倒だ。
「君、名前は?」
「そこの妖精が口にしていたでしょう。静謐の魔女です」
どうしたものかと考える静謐の魔女にかけられたのは、この流れには不釣り合いなほど穏やかな声で、彼女は思考を続ける傍らで簡潔に答える。
「それは冠する要素のものだろう? そうじゃなくて、君自身を示す名を知りたいんだ」
そこでようやくしっかりと聖人のほうを向いた魔女は、彼の瞳にただ燃えるだけの火の色ではなく、熱情を湛えるような青が混じっていることに気づいた。
(これは、厄介なものに絡まれたかもしれない)
面倒な、とふたたび眉をひそめながらも、他者と関わることの少ない静謐の魔女は駆け引きというものを知らないまま真実を口にしてしまう。
「そういう意味でしたら、ありません。わたしは古より存在しているのですから区別が必要な対象もないのです」
「……なるほどな」
本来なら名を明かすことで繋がれてしまう災いを回避するという手段でもあったその返答は、今回ばかりは悪手だったのであろう。
あるいは、名を求めたのが戦火の聖人であり、名を尋ねられたのが静謐の魔女だったという時点ではすでに。
おもむろに近づいてくる聖人の歩みにはわずかな隙もなく、いっそ優美ですらあった。厄介なものかもしれないという魔女の予想を後押しするかのような気配からはもはや、先ほどまでの、魔女の介入に安堵する弱者の影は見られない。
「……っ」
そこで濃すぎる静謐に膝をついていた妖精がもぞりと身じろぎ、戦火の聖人はいちど歩みをとめた。
下ろされた視線に宿るのは、心配の色ではない。
「は、困ったものだな。いつのまにここまでの力をつけたんだか」
「あなたの、ためよ……ル――いっ!?」
やわらかく笑んだように見えた瞳。その温度の低さに魔女が驚くよりも早く、ぱりんと音を立てて妖精の羽の一部が割れた。
細い火の針が、貫いた羽のそばで糸のようにほどけて消える。
戦火の聖人は足もとに転がる妖精が今度こそ気を失っていることを確認しつつ、なんの予備動作もなくあらぬ方向へ手を伸ばした。その先にあるのは魔女の左手で、そんな聖人の行動を予測できなかった彼女は簡単に手を取られてしまう。
「……っ、なにを」
思いのほか恭しく触れられた指先から流れてくるのは、静謐の音。
空気を揺らすものではなく、魔法の要素で形づくられた古い古い音。空っぽの器に水を流し込むように、ひたり、ひたりと魔女の内側を満たしていく。豊かで鮮やかで、しかし途方もなく穏やかな。
静謐が、さらなる静謐を帯びる。
ぞっとするような水底の青がより潜んだ色を含みだす奇跡のような瞬間を見たのは、はたして、戦火の聖人だけだろうか。
緩やかだが決定的な変化を優越感とともにしっかり見届けてから、彼は厳かに告げた。
「それが、君の名前だ」
「…………リヴェレーク」
「ああ。……へえ、それにしてもこれは…………いや、君が発音するとそのような音になるんだな。さすがに俺でも揺れそうだ」
心底驚いたように魔女の口もとを見つめる聖人の前で、リヴェレークと名付けられた静謐の魔女もまた自身が発した音に感心していた。
(これが真に名前を得るということ)
戦火の聖人はただ静謐の魔女を記号的に判別するための音をあてたわけではない。
古の時代に力を持ったその音の連なりは、静謐の魔女だからこそ揺らすことのできる響きを孕んでいた。彼女の要素と言葉の意味が正しく共鳴するように。そういう言葉を選んだのだ。
「ちゃんと定着するように文字でも書いておいたほうがいいだろう。ここへ書いてみてくれるか?」
そんな名付け親が指し示すのは腰から抜いた細身の剣。
ぼんやりと名付けの余韻に浸っていた静謐の魔女は、半ば無意識的に彼の言葉に従った。
(リヴェレーク、と)
静謐の要素を強く宿したその文字は、水が染み込むように剣身へ溶けていく。
同時にうっと戦火の聖人が息を詰める気配がして、魔女は新しい自分の名にどれだけの魔法が込められているのだろうと思う。
「……はあ、さすがの力だな。どうだ? 自分の名を忘れずにいられそうか?」
「このように刻まれてしまえば忘れようがありません」
「ならよかった」
そう頷いてから、戦火の聖人は「ああそうだ」と思い出したように付け加えた。
「俺が一方的に君の名前を知っているのは不公平だろう」
先ほどから勝手に進められている話にもはや不公平もなにもない、魔女がその思考を言葉にするよりも早く、またしても彼女はするりと手を取られてしまう。
先ほどと同じように、あるいはより丁寧に。
剣を扱う者の硬さがありながらも聖人らしいなめらかな手つき。
触れた部分のその向こうから、はっとするほどに穏やかな戦と火の気配がやってくる。静謐の質を書き換えるように滲むのは、戦火の聖人の名である――
「ルフカレド……?」
「ああ、ちゃんと伝わったようだな。リヴェレーク」
はらり、とどこかから溢れる光を見たような気がした。
呼ばれた音に含まれるのは、快楽に似たなにか。潜むべき静謐が、戦火に揺らぎにざわついている。複雑で、甘やかで、しかしどこまでも他人行儀で。
静謐の魔女に疑問を抱く間すら与えず。
ざっと濃紺のケープマントをひるがえし、戦火の聖人は書庫を出ていく。
(ほこりが舞って――いや、違う)
はらりと優しく光るのは、これまでに静謐の魔女が大事にしてきた本や書架から降り注ぐ祝福の光。まだかたちを得ていない本の精や、いつかの書庫の記憶からも祝いの気配が届けられる。
同時に気づくのは、戦火の聖人が去ったにもかかわらず、まだこの場に残り続けている戦火の要素。静謐の影を縫うようなそれは。
初めての感覚であるが、この出来事において、実感に勝る確信はない。
自身そのものである静謐に混じる新たな気配。
戦火との繋ぎ。
(互いの身体や、存在を切り出したものに名を刻み合うこと……あの剣)
溶けていった静謐の文字と、影から薫る火の匂い。それはもう、彼女のものでもあった。
(……婚姻を、結んでしまったのだ)
寝静まった人家の暖炉の熾や、役目を終えた落ち葉の切れ端。
死闇の呼気と、朝露の微笑み。
沈む思考。
安らぎ。
追憶。
あらゆる静謐の中に、彼女はいる。
*
(入り口のほうが、なんだか騒がしい)
ユスタッチェ国立書庫の奥の奥、重なる書架の並ぶ路を抜けた先。乾いたほこりの匂いとやわらかな魔法の光に包まれた空間にて、静謐の魔女は読んでいた本をばたんと閉じて顔を上げた。
わずかに起こった風が彼女の真っ直ぐな髪をそわりと揺らす。一度まぶたを閉じ、ふたたび開かれた瞳が宿すのは髪と同じ色の光だ。
水底の影を切り取ったような、見る者をぞっとさせるほどに深い青。
そのまま立ち上がる動作には一切の感情が滲まず、ただ肩の下で切り揃えられた毛先がさざ波のようにブラウスを撫でた。
(書庫では静かに。簡単なことがどうしてできないのだろう)
心の内ではそう憤慨しているものの、静謐の魔女はその要素の通り凪いだ表情で書架の隙間を歩く。丁寧に磨かれた革製の編み上げ長靴がやわらかく絨毯を踏んで不要なさざめきを崩していく。穏やかに褪せた風合いの美しい刺繍入りのスカートからは静謐の影が溢れた。
無機質に静謐を紡ぐ姿は、まさに書庫の番人。
この書庫でざわめきを捉えるたび、彼女は片っ端から静謐で塗りつぶす。ゆえに静謐の魔女は番人などと呼ばれているのだが、本人はその事実を、そこに込められた悪意を知らない。
さて、本日の不届き者はといえば、少々異質なものであった。
それは人ならざる者たちの気配。彼女自身も人間の領域においては異質な存在であるが、水と火という書物には禁じ手ともいえる要素の攻防に、静謐の魔女はわずかに眉をひそめる。
常ならばひと息に静謐で埋め尽くしてしまうところ。しかしそこかしこに散らされた要素は簡単には崩れず、意思を持ってそこに在り続けた。
(それなりに力のある者なのだ。……しかたない、声を出すのは好まないけれど)
魔女の声には強い魔法が宿る。その揺らぎが書物へ影響を与えることは免れないが、不届き者たちのそれよりかはましであろうと静謐の魔女はひとつ頷いた。
「ここは書庫です。静かになさい」
「――っ!」
平淡で、しかし濃密な言葉に返された反応は三つ。
服従と反発と、それから安堵。
服従を示した者は時を待たずして崩れゆき、果てには煌めきだけを残して空中に舞うほこりと混ざりあう。反発を示した者は毒混じりの霧を吐き出したが、静謐の魔女が手を出すまでもなく書庫の自浄魔術に阻まれた。
そして安堵を示した者は、ただ牽制のためだったのだと主張するようにいつのまにか火の要素を収めている。
「君は――」
「やあね、番人がなんの用かしら。あたしたちの逢瀬を邪魔しないでちょうだい」
「番人?」
「書庫の番人よ。頭でっかちな本の虫。静謐の魔女らしく陰に潜んでいればいいものを」
嘲るように口の端を持ち上げた反発者は紫がかった水色の羽が美しい妖精で、質問してきた相手に対し夜の気配をまといながら腕を絡める。あえかに羽を光らせ、慣れたようすで艶やかな吐息を溢す姿は、ふたりのあいだにあるただならぬ関係性を窺わせた。
(逢瀬こそ、よそでやってほしいのだ。話が通じないようなら、影へ沈めてしまおうか)
静謐の魔女の思考が大雑把で物騒なほうへ向き出したことなどつゆ知らず、しかし腕をとられたままの男はどこか呆然としながら「…………静謐の魔女。存在したんだな」と呟いている。
本物の火のように波打つ焚き火色の髪は風もないのに揺らぎ、書庫の中でひやりとするほどに灯る。重々しい濃紺のケープマントから漂うのは戦の気配で、静謐の魔女はこれは何度も物語の中で目にした容貌だと、彼が戦火の聖人であることを確信した。
「すまない。彼女たちを振り払うのによい場所をと思ったんだが、たしかにここは場違いだった」
「そう思うのでしたらどうぞ今すぐお引取りを」
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しかし、話しながら深めた静謐は水色の妖精を蝕むばかり。
「…………ああ、力も申し分ないようだ」
しかめられた表情を見ればたしかに静謐の魔法が届いているのだとわかるが、聖人の自由を奪うにはあと一歩及ばない。これ以上強めることで書庫そのものの土台を崩してしまえば本末転倒だ。
「君、名前は?」
「そこの妖精が口にしていたでしょう。静謐の魔女です」
どうしたものかと考える静謐の魔女にかけられたのは、この流れには不釣り合いなほど穏やかな声で、彼女は思考を続ける傍らで簡潔に答える。
「それは冠する要素のものだろう? そうじゃなくて、君自身を示す名を知りたいんだ」
そこでようやくしっかりと聖人のほうを向いた魔女は、彼の瞳にただ燃えるだけの火の色ではなく、熱情を湛えるような青が混じっていることに気づいた。
(これは、厄介なものに絡まれたかもしれない)
面倒な、とふたたび眉をひそめながらも、他者と関わることの少ない静謐の魔女は駆け引きというものを知らないまま真実を口にしてしまう。
「そういう意味でしたら、ありません。わたしは古より存在しているのですから区別が必要な対象もないのです」
「……なるほどな」
本来なら名を明かすことで繋がれてしまう災いを回避するという手段でもあったその返答は、今回ばかりは悪手だったのであろう。
あるいは、名を求めたのが戦火の聖人であり、名を尋ねられたのが静謐の魔女だったという時点ではすでに。
おもむろに近づいてくる聖人の歩みにはわずかな隙もなく、いっそ優美ですらあった。厄介なものかもしれないという魔女の予想を後押しするかのような気配からはもはや、先ほどまでの、魔女の介入に安堵する弱者の影は見られない。
「……っ」
そこで濃すぎる静謐に膝をついていた妖精がもぞりと身じろぎ、戦火の聖人はいちど歩みをとめた。
下ろされた視線に宿るのは、心配の色ではない。
「は、困ったものだな。いつのまにここまでの力をつけたんだか」
「あなたの、ためよ……ル――いっ!?」
やわらかく笑んだように見えた瞳。その温度の低さに魔女が驚くよりも早く、ぱりんと音を立てて妖精の羽の一部が割れた。
細い火の針が、貫いた羽のそばで糸のようにほどけて消える。
戦火の聖人は足もとに転がる妖精が今度こそ気を失っていることを確認しつつ、なんの予備動作もなくあらぬ方向へ手を伸ばした。その先にあるのは魔女の左手で、そんな聖人の行動を予測できなかった彼女は簡単に手を取られてしまう。
「……っ、なにを」
思いのほか恭しく触れられた指先から流れてくるのは、静謐の音。
空気を揺らすものではなく、魔法の要素で形づくられた古い古い音。空っぽの器に水を流し込むように、ひたり、ひたりと魔女の内側を満たしていく。豊かで鮮やかで、しかし途方もなく穏やかな。
静謐が、さらなる静謐を帯びる。
ぞっとするような水底の青がより潜んだ色を含みだす奇跡のような瞬間を見たのは、はたして、戦火の聖人だけだろうか。
緩やかだが決定的な変化を優越感とともにしっかり見届けてから、彼は厳かに告げた。
「それが、君の名前だ」
「…………リヴェレーク」
「ああ。……へえ、それにしてもこれは…………いや、君が発音するとそのような音になるんだな。さすがに俺でも揺れそうだ」
心底驚いたように魔女の口もとを見つめる聖人の前で、リヴェレークと名付けられた静謐の魔女もまた自身が発した音に感心していた。
(これが真に名前を得るということ)
戦火の聖人はただ静謐の魔女を記号的に判別するための音をあてたわけではない。
古の時代に力を持ったその音の連なりは、静謐の魔女だからこそ揺らすことのできる響きを孕んでいた。彼女の要素と言葉の意味が正しく共鳴するように。そういう言葉を選んだのだ。
「ちゃんと定着するように文字でも書いておいたほうがいいだろう。ここへ書いてみてくれるか?」
そんな名付け親が指し示すのは腰から抜いた細身の剣。
ぼんやりと名付けの余韻に浸っていた静謐の魔女は、半ば無意識的に彼の言葉に従った。
(リヴェレーク、と)
静謐の要素を強く宿したその文字は、水が染み込むように剣身へ溶けていく。
同時にうっと戦火の聖人が息を詰める気配がして、魔女は新しい自分の名にどれだけの魔法が込められているのだろうと思う。
「……はあ、さすがの力だな。どうだ? 自分の名を忘れずにいられそうか?」
「このように刻まれてしまえば忘れようがありません」
「ならよかった」
そう頷いてから、戦火の聖人は「ああそうだ」と思い出したように付け加えた。
「俺が一方的に君の名前を知っているのは不公平だろう」
先ほどから勝手に進められている話にもはや不公平もなにもない、魔女がその思考を言葉にするよりも早く、またしても彼女はするりと手を取られてしまう。
先ほどと同じように、あるいはより丁寧に。
剣を扱う者の硬さがありながらも聖人らしいなめらかな手つき。
触れた部分のその向こうから、はっとするほどに穏やかな戦と火の気配がやってくる。静謐の質を書き換えるように滲むのは、戦火の聖人の名である――
「ルフカレド……?」
「ああ、ちゃんと伝わったようだな。リヴェレーク」
はらり、とどこかから溢れる光を見たような気がした。
呼ばれた音に含まれるのは、快楽に似たなにか。潜むべき静謐が、戦火に揺らぎにざわついている。複雑で、甘やかで、しかしどこまでも他人行儀で。
静謐の魔女に疑問を抱く間すら与えず。
ざっと濃紺のケープマントをひるがえし、戦火の聖人は書庫を出ていく。
(ほこりが舞って――いや、違う)
はらりと優しく光るのは、これまでに静謐の魔女が大事にしてきた本や書架から降り注ぐ祝福の光。まだかたちを得ていない本の精や、いつかの書庫の記憶からも祝いの気配が届けられる。
同時に気づくのは、戦火の聖人が去ったにもかかわらず、まだこの場に残り続けている戦火の要素。静謐の影を縫うようなそれは。
初めての感覚であるが、この出来事において、実感に勝る確信はない。
自身そのものである静謐に混じる新たな気配。
戦火との繋ぎ。
(互いの身体や、存在を切り出したものに名を刻み合うこと……あの剣)
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