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第一章 戦火の羅針盤
1−5 静かなる火と夜明けの明星
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「リヴェレーク?」
ため息ひとつ落とした魔女の名を口にした伴侶に、呼ばれた魔女はああやはりそうなのだと確信を深める。
「……わたしは、静謐の魔女なのです。あなたもそうあれと、望んだではありませんか」
――リヴェレーク。それはとても古い時代の言葉で、「潜むこと」や「水底」という意味を持つ。そして今はもう、静謐そのものに強く深く紐づいたひとりの魔女を示す音。
轟々と鳴る霧の音も、はためくケープマントの音も。
飲み込んでゆく。
大事にする物語の中でないのなら、魔法を抑えておく必要などないのだから。
ここはもう、書の迷い路ではなかった。毒霧の妖精が支配する海なのだ。そのことに気づいたのは、伴侶であるルフカレドが挑発するように妖精を詰った瞬間だ。直後に増した霧に、夢と錯覚した自身の弱さに、反応が遅れてしまっただけで。
戦火の聖人が滅びるべきだと言うのなら、この国はこれから滅びるのだろう。であれば望まれた通り、静謐であればよい。
なにより魔女自身が、うんざりしていた。
(まだ、途中だった)
望まぬ婚姻に対抗する手段。けれども試行錯誤する余裕はなくなってしまい、できることといえば今この場で調整することのみ。
「道をゆく者」
影から取り出し、宙に浮かべたのは、両手でぎりぎり抱えられるかどうかといった大きさの羅針盤。
とぷりと揺れる影色の盤面には四季の星々が並び、手にした者だけが知ることのできる、目指すべき場所を示す。
「選ぶことを知らぬ者。惑う者。惑わす者」
しかし盤の中心に固定された針はくるくると回り続け、その向き先は定まらない。まだ、この羅針盤は完成していない。
(でも突然、罠の張られた書の迷い路から連れ出されてしまったから、完成していなくてよかったのかもしれない)
この状況から、魔女が求めるものを確実に手にするため。普段の彼女は影を直接動かすことで魔法を扱うが、それだけでは足りないと判断した今は声に魔法を乗せて補っていく。
「みなひとつの影の裏。灯火をめくり、影を侵す咎を知れ」
影は霧を抜けて海底を這い、妖精が支配するすべての島へと手を伸ばす。悪意でも善意でもなく、ただひたむきななまでの静けさを。
ゆら、と針が回転をとめる。意思が宿るように先端を彩るのは、戦火の気配だ。
深い深い霧の中。ざわめく波と、毒の誘い。
それらすべてを断ち切るなら。
(狙うのは、王城。たとえ傀儡だとしても、そこで舵を取る者たち)
「手にするべくは凱旋の歌。集え、伸ばせ、希求せよ」
ほそりとした指が羅針盤の縁をなぞるように触れれば、そこは導火線のようにかすかな火の気配を帯びる。そうして青びた炎の光を散らしながら、羅針盤は高く浮かんでこの国の王城がある方向へと飛んでいく。
「戦火を尊ぶ者の手に……っむ」
そこでいきなり口を塞がれたリヴェレークはもがもがと抵抗しかけ、しかし耳もとで「しぃ」と囁かれた声の静かさに目を瞠った。
また、影を伝って火のような言葉がやってくる。
『ここまでだ。霧の中で歌えば、それは魔術になる。妖精にとってはちょうどいい餌になるからな』
そう言われて初めて自分の言葉がだんだん節をとっていたことに気づき、リヴェレークはぞっとした。妖精に目立った動きがないとは思っていたが、声に擦れる霧そのものに細工をしていたのだとしたら。
(霧を、払ってしまおう)
まずは口を解放しなければと塞いでくる手に触れる。
と、そこにあるのは戦火を守る聖人の静かな温度であった。囁かれた声と同じひんやりとした平坦さに、魔女の焦りは薄まっていき、本当にするべきことを思い出す。
『…………ありがとうございます。意識の侵食を防いで続きを――』
『いや。もう十分だ』
『でも』
そこで聖人は影を伝う火を収めた。魔女の耳もとに口を寄せたまま、甘い声で問いかける。
「俺にも夫らしいことをさせてくれるか?」
己の油断を理解した魔女から手を離した聖人は、いたずらっぽく、しかしぞくりとするほどに美しく微笑んだ。妖精の華やかさなど簡単に霞んでしまうほどの、冷酷な笑み。
気圧されるように口を閉じたリヴェレークを確認してから、彼は、静謐の魔女が紡いだ魔法の痕跡を堪能するように目を閉じる。
広がる静謐を、ルフカレドはしっかり見ていたのだろう。妖精の霧に侵されながら、リヴェレークの魔法が最低限のかたちを成すぎりぎりの瞬間を捉えるために。
「……ああ、よく均されている」
ふたたび開かれた瞳に浮かぶのは鮮やかな火の色。さらにそこから燃え広がるようにして揺れる髪。
ぶん、と細身の剣を振るう戦火の聖人は、このうえなく優雅であった。戦に連なる者特有の、一瞬で場を支配する苛烈さがあった。
「海があるから? 霧の中だから? そんなことで火を防げるなんて、いったい誰が言い出したんだろうな。水に属する者は、たいていがそうやって勘違いをして、滅んでいく」
そう笑う聖人の横顔のどこに人間たちは寄り添う者としての面影を見たのだろうと、リヴェレークは不思議に思う。
(これはどう考えても、こちら側のものではないか)
どのように魔法を編んでいるのか、彼が剣を振るたびにあちこちで火の手が上がる。単純な火の魔法によるものだけではない。国の内側から、つまり国民の暴動によって広がる戦火もあった。
妖精は想定外のことに絶句し、それでも果敢に戦火の聖人へと手を伸ばす。
「せっかちねえ、ルフカレド」
この妖精はよほど戦火の聖人に執心しているのか、それとも自分の力に自信があるのか。わずかに頬を引きつらせながらも笑みを絶やさないその胆力はたしかに、国に仕えるというよりむしろ国を動かすにふさわしい存在であるのだろう。
しかしそれは、こちらの領域を侵してよい理由にはならない。
「さあ、戦火を望みなさい! ……っ!?」
後ろに控えている、もとはまっとうな人間であった傀儡たちに命じた毒霧の妖精は、そこに繋いでいたはずの意志が改変されていることに気づいてカッと目を見開いた。
「番人ね! 本当にどこまでも、お前は邪魔なのだわ」
どこかそわそわと落ち着かないようすで王城のほうを気にしている傀儡たち。そうあるように仕向けたのはたしかにリヴェレークだ。
しかし怒りの矛先を向けられた彼女はなにも答えなかった。
答えを知ったところでこの妖精はすぐに崩れるものであると知っていたし、静謐の魔女に、死にゆく者へ手向けるような感慨などない。
(ルフカレドが目をつけた時点で、この国に未来はなかった)
どおん、と派手に建物が崩れる音が聞こえてくる。それほどの大きさの王城があったことにこそ、リヴェレークは驚いた。
*
美しく傲慢な妖精が手を伸ばしていた小さな島の一つひとつまで丁寧に回り、生存者が誰ひとりいないことを確認し終えたふたりは今、空中に佇みながら燃え崩れる島々を見下ろしていた。
魔女は箒に腰掛け、聖人は見えない足場に立ち。
陽が沈み、真夜中すら過ぎ去り、まもなく夜も明けるであろう。
まだ、ルフカレドのもたらした火が消える気配はない。
「ああ、美しい火だ」
戦火を映し、煌々と凄絶な鮮やかさで光る瞳。どれだけ人と関わることを好む聖人でも、彼はやはり人ではない。
(人間にとってのルフカレドは、どれほど眩しい存在で、そしてどれほどに恐ろしい存在なのだろう)
「これほどのものを見たのは、いつぶりだろうな。君のおかげだ」
戦火の広がる先には必ず、戦に勝つ側と負ける側が生じる。その恩恵に与るため、いくつもの国や権力者が彼を欲し、そしてその多くはルフカレドという男の真実を知らぬまま朽ちていったはずで。
今はもうただの霧でしかなくなった白い霞も、やがて戦火に食われて消えるだろう。
戦火の聖人が、戦火という事象を守る限り。
(あ、そういえば)
ふと、王城に放り込んだ魔法具はどうなったのだろうと考える。
霧の中を縫うように進んでいった羅針盤。明星黒竜が飛んだ夜空の跡地を掬った土台はそう簡単に壊れるものではないが、失われてしまうのは困るものだ。
「これか?」
「…………なぜあなたが持っているのですか」
視線をさまよわせた瞬間、まるで待っていたかのように目の前に差し出されたのはまさにリヴェレークが作成した羅針盤の魔法具で、あちこちに煤が付いているものの、魔法具自体にはなんの損傷もないようであった。
火と血と、怨嗟の香りが立ちのぼる。
「君が城へ放ったものが気になっていたからな。回収するのであれば残骸の確認と同時にしたほうが手間も省けるから拾っておいたんだが…………それにしても、これはどういった魔法具なんだ? とても濃い要素だが、手に持ってみても見えてこない」
魔法の声で人間たちの思考を均したことまでは気づけたが、この羅針盤と組み合わせて内乱を起こした仕組みがわからないという聖人に、魔女は戦火の要素を宿した針の先を示しながら、この羅針盤に「戦火として望まれるもの」という資質を与えたのだと説明する。
「自身が取り合われることを望まないのであれば、彼らの目的をすり替えてしまえばよいのです。物語ではよく使われる手法ですよ」
魔女と聖人が婚姻を結べば、ふたりの持つ要素のあいだには消しようのない繋がりができる。それに応じて世界中でさまざまな変化が起こるため、婚姻の事実が簡単に知れ渡るのだ。
まさに聖人はそれを利用しようと婚姻を結んだのであろうが、今回のようにリヴェレークの存在を気にしない者は多いはず。ならば隠れ蓑を用意したほうがよいのではと考えた次第であった。
「なるほどな。で、これはどうする?」
「望まれ、使われることこそがふさわしい道具です。どこかユスタッチェから遠い紛争地帯にでも置いてこようかと」
「なら、俺が貰ってもいいか?」
「ルフカレド?」
「ああ、心配しなくていい。君の望まない使いかたはしないさ。ただ、どうせ俺の代用品だというのなら、投じるにふさわしい場所は俺がよく知っていると思わないか?」
「盲点でした。ではあなたに差し上げます」
「ありがたく。そうだな、君の嫁入り道具として……――っと」
どこか嬉しそうに目を細めたルフカレドであったが、あらためて羅針盤に視線を向けた直後、ひくりと頬を引きつらせた。
「この針は……戦火の指す反対側に、君の要素を置いたのか」
羅針盤の針は二極となっている。常に相反するものを示し、この羅針盤においては、戦火と静謐がそれぞれの極を司るように指定されていた。
婚姻を結んだ相手にそれはどうなのだろうと苦笑いをした聖人に、魔女は「繋ぎを切れないのだからしかたないでしょう」とどこ吹く風だ。
それに、とリヴェレークはいちばん重要な理由を口にする。
「わたしの周りが騒がしくなるのは好ましくありませんので」
「抜け目がないようでなによりだ」
「そう言いますが、人間たちにまで延々と祝われるのですよ? あなたは望まぬ相手との婚姻を、そのように扱われたいのですか?」
「……いや、勘弁だな。君はよい判断をした」
揺りかごのように箒を風にゆだねる。そわりとリヴェレークの髪がなびき、彼女の瞳に届く星明かりを遮った。
髪を耳にかけ、もう一度星を見ようと遠く空を向く。
「ああ、明星が美しいな。ひと仕事終えたときにはよく、空を眺めてから家へ帰るんだ。いっとうに好きなのは冬だが、秋のものもいい」
「わたしも、その両方が好きです。見た目だけなら、春と夏のものも」
黄金に瞬き世界を等しく見下ろすそれが友人の瞳なのだと思えば、リヴェレークは誇らしい気持ちになる。
(憧れてしまうのだ)
誰もが欲する星明かりであろうと、国を飲み込む戦火であろうと。
他者の光を映したはずの瞳はなお青く、深く潜むような色をまとうがゆえに。照らし、照らされ、混ざりあうものたちを羨ましいと感じた。
「そうか。なら、星は俺たちの共通項なのかもしれないな。……それに、君には意外と、好きなものがたくさんあるようだから」
当然だろうと、古の時代から存在している魔女は思う。多くを知る彼女はそのぶんの好みの蓄えがあるのだ。
「望んでいなかったとはいえ、婚姻を結んだんだ。きっと、他にも共通項は見つかるんだろう」
「……それは、どうでしょう」
じんわり明けていく夜に、それでも眩い星の光が散らされた。島々の跡に降り注ぎ、溶けて混ざるようすはまるで、鎮火の雨。
(いつだって、目指すべきものはすぐ傍にあるという。けれどもそれは、静謐に適用される話ではなかった。わたしはずっと、なにもない水の中にいた)
透明なあの水は、今もここにあるのかもしれない。そう思うからこそ。
戦火にさらわれ、まっさらになった海を、リヴェレークは息が詰まりそうになりながら見つめていた。
ため息ひとつ落とした魔女の名を口にした伴侶に、呼ばれた魔女はああやはりそうなのだと確信を深める。
「……わたしは、静謐の魔女なのです。あなたもそうあれと、望んだではありませんか」
――リヴェレーク。それはとても古い時代の言葉で、「潜むこと」や「水底」という意味を持つ。そして今はもう、静謐そのものに強く深く紐づいたひとりの魔女を示す音。
轟々と鳴る霧の音も、はためくケープマントの音も。
飲み込んでゆく。
大事にする物語の中でないのなら、魔法を抑えておく必要などないのだから。
ここはもう、書の迷い路ではなかった。毒霧の妖精が支配する海なのだ。そのことに気づいたのは、伴侶であるルフカレドが挑発するように妖精を詰った瞬間だ。直後に増した霧に、夢と錯覚した自身の弱さに、反応が遅れてしまっただけで。
戦火の聖人が滅びるべきだと言うのなら、この国はこれから滅びるのだろう。であれば望まれた通り、静謐であればよい。
なにより魔女自身が、うんざりしていた。
(まだ、途中だった)
望まぬ婚姻に対抗する手段。けれども試行錯誤する余裕はなくなってしまい、できることといえば今この場で調整することのみ。
「道をゆく者」
影から取り出し、宙に浮かべたのは、両手でぎりぎり抱えられるかどうかといった大きさの羅針盤。
とぷりと揺れる影色の盤面には四季の星々が並び、手にした者だけが知ることのできる、目指すべき場所を示す。
「選ぶことを知らぬ者。惑う者。惑わす者」
しかし盤の中心に固定された針はくるくると回り続け、その向き先は定まらない。まだ、この羅針盤は完成していない。
(でも突然、罠の張られた書の迷い路から連れ出されてしまったから、完成していなくてよかったのかもしれない)
この状況から、魔女が求めるものを確実に手にするため。普段の彼女は影を直接動かすことで魔法を扱うが、それだけでは足りないと判断した今は声に魔法を乗せて補っていく。
「みなひとつの影の裏。灯火をめくり、影を侵す咎を知れ」
影は霧を抜けて海底を這い、妖精が支配するすべての島へと手を伸ばす。悪意でも善意でもなく、ただひたむきななまでの静けさを。
ゆら、と針が回転をとめる。意思が宿るように先端を彩るのは、戦火の気配だ。
深い深い霧の中。ざわめく波と、毒の誘い。
それらすべてを断ち切るなら。
(狙うのは、王城。たとえ傀儡だとしても、そこで舵を取る者たち)
「手にするべくは凱旋の歌。集え、伸ばせ、希求せよ」
ほそりとした指が羅針盤の縁をなぞるように触れれば、そこは導火線のようにかすかな火の気配を帯びる。そうして青びた炎の光を散らしながら、羅針盤は高く浮かんでこの国の王城がある方向へと飛んでいく。
「戦火を尊ぶ者の手に……っむ」
そこでいきなり口を塞がれたリヴェレークはもがもがと抵抗しかけ、しかし耳もとで「しぃ」と囁かれた声の静かさに目を瞠った。
また、影を伝って火のような言葉がやってくる。
『ここまでだ。霧の中で歌えば、それは魔術になる。妖精にとってはちょうどいい餌になるからな』
そう言われて初めて自分の言葉がだんだん節をとっていたことに気づき、リヴェレークはぞっとした。妖精に目立った動きがないとは思っていたが、声に擦れる霧そのものに細工をしていたのだとしたら。
(霧を、払ってしまおう)
まずは口を解放しなければと塞いでくる手に触れる。
と、そこにあるのは戦火を守る聖人の静かな温度であった。囁かれた声と同じひんやりとした平坦さに、魔女の焦りは薄まっていき、本当にするべきことを思い出す。
『…………ありがとうございます。意識の侵食を防いで続きを――』
『いや。もう十分だ』
『でも』
そこで聖人は影を伝う火を収めた。魔女の耳もとに口を寄せたまま、甘い声で問いかける。
「俺にも夫らしいことをさせてくれるか?」
己の油断を理解した魔女から手を離した聖人は、いたずらっぽく、しかしぞくりとするほどに美しく微笑んだ。妖精の華やかさなど簡単に霞んでしまうほどの、冷酷な笑み。
気圧されるように口を閉じたリヴェレークを確認してから、彼は、静謐の魔女が紡いだ魔法の痕跡を堪能するように目を閉じる。
広がる静謐を、ルフカレドはしっかり見ていたのだろう。妖精の霧に侵されながら、リヴェレークの魔法が最低限のかたちを成すぎりぎりの瞬間を捉えるために。
「……ああ、よく均されている」
ふたたび開かれた瞳に浮かぶのは鮮やかな火の色。さらにそこから燃え広がるようにして揺れる髪。
ぶん、と細身の剣を振るう戦火の聖人は、このうえなく優雅であった。戦に連なる者特有の、一瞬で場を支配する苛烈さがあった。
「海があるから? 霧の中だから? そんなことで火を防げるなんて、いったい誰が言い出したんだろうな。水に属する者は、たいていがそうやって勘違いをして、滅んでいく」
そう笑う聖人の横顔のどこに人間たちは寄り添う者としての面影を見たのだろうと、リヴェレークは不思議に思う。
(これはどう考えても、こちら側のものではないか)
どのように魔法を編んでいるのか、彼が剣を振るたびにあちこちで火の手が上がる。単純な火の魔法によるものだけではない。国の内側から、つまり国民の暴動によって広がる戦火もあった。
妖精は想定外のことに絶句し、それでも果敢に戦火の聖人へと手を伸ばす。
「せっかちねえ、ルフカレド」
この妖精はよほど戦火の聖人に執心しているのか、それとも自分の力に自信があるのか。わずかに頬を引きつらせながらも笑みを絶やさないその胆力はたしかに、国に仕えるというよりむしろ国を動かすにふさわしい存在であるのだろう。
しかしそれは、こちらの領域を侵してよい理由にはならない。
「さあ、戦火を望みなさい! ……っ!?」
後ろに控えている、もとはまっとうな人間であった傀儡たちに命じた毒霧の妖精は、そこに繋いでいたはずの意志が改変されていることに気づいてカッと目を見開いた。
「番人ね! 本当にどこまでも、お前は邪魔なのだわ」
どこかそわそわと落ち着かないようすで王城のほうを気にしている傀儡たち。そうあるように仕向けたのはたしかにリヴェレークだ。
しかし怒りの矛先を向けられた彼女はなにも答えなかった。
答えを知ったところでこの妖精はすぐに崩れるものであると知っていたし、静謐の魔女に、死にゆく者へ手向けるような感慨などない。
(ルフカレドが目をつけた時点で、この国に未来はなかった)
どおん、と派手に建物が崩れる音が聞こえてくる。それほどの大きさの王城があったことにこそ、リヴェレークは驚いた。
*
美しく傲慢な妖精が手を伸ばしていた小さな島の一つひとつまで丁寧に回り、生存者が誰ひとりいないことを確認し終えたふたりは今、空中に佇みながら燃え崩れる島々を見下ろしていた。
魔女は箒に腰掛け、聖人は見えない足場に立ち。
陽が沈み、真夜中すら過ぎ去り、まもなく夜も明けるであろう。
まだ、ルフカレドのもたらした火が消える気配はない。
「ああ、美しい火だ」
戦火を映し、煌々と凄絶な鮮やかさで光る瞳。どれだけ人と関わることを好む聖人でも、彼はやはり人ではない。
(人間にとってのルフカレドは、どれほど眩しい存在で、そしてどれほどに恐ろしい存在なのだろう)
「これほどのものを見たのは、いつぶりだろうな。君のおかげだ」
戦火の広がる先には必ず、戦に勝つ側と負ける側が生じる。その恩恵に与るため、いくつもの国や権力者が彼を欲し、そしてその多くはルフカレドという男の真実を知らぬまま朽ちていったはずで。
今はもうただの霧でしかなくなった白い霞も、やがて戦火に食われて消えるだろう。
戦火の聖人が、戦火という事象を守る限り。
(あ、そういえば)
ふと、王城に放り込んだ魔法具はどうなったのだろうと考える。
霧の中を縫うように進んでいった羅針盤。明星黒竜が飛んだ夜空の跡地を掬った土台はそう簡単に壊れるものではないが、失われてしまうのは困るものだ。
「これか?」
「…………なぜあなたが持っているのですか」
視線をさまよわせた瞬間、まるで待っていたかのように目の前に差し出されたのはまさにリヴェレークが作成した羅針盤の魔法具で、あちこちに煤が付いているものの、魔法具自体にはなんの損傷もないようであった。
火と血と、怨嗟の香りが立ちのぼる。
「君が城へ放ったものが気になっていたからな。回収するのであれば残骸の確認と同時にしたほうが手間も省けるから拾っておいたんだが…………それにしても、これはどういった魔法具なんだ? とても濃い要素だが、手に持ってみても見えてこない」
魔法の声で人間たちの思考を均したことまでは気づけたが、この羅針盤と組み合わせて内乱を起こした仕組みがわからないという聖人に、魔女は戦火の要素を宿した針の先を示しながら、この羅針盤に「戦火として望まれるもの」という資質を与えたのだと説明する。
「自身が取り合われることを望まないのであれば、彼らの目的をすり替えてしまえばよいのです。物語ではよく使われる手法ですよ」
魔女と聖人が婚姻を結べば、ふたりの持つ要素のあいだには消しようのない繋がりができる。それに応じて世界中でさまざまな変化が起こるため、婚姻の事実が簡単に知れ渡るのだ。
まさに聖人はそれを利用しようと婚姻を結んだのであろうが、今回のようにリヴェレークの存在を気にしない者は多いはず。ならば隠れ蓑を用意したほうがよいのではと考えた次第であった。
「なるほどな。で、これはどうする?」
「望まれ、使われることこそがふさわしい道具です。どこかユスタッチェから遠い紛争地帯にでも置いてこようかと」
「なら、俺が貰ってもいいか?」
「ルフカレド?」
「ああ、心配しなくていい。君の望まない使いかたはしないさ。ただ、どうせ俺の代用品だというのなら、投じるにふさわしい場所は俺がよく知っていると思わないか?」
「盲点でした。ではあなたに差し上げます」
「ありがたく。そうだな、君の嫁入り道具として……――っと」
どこか嬉しそうに目を細めたルフカレドであったが、あらためて羅針盤に視線を向けた直後、ひくりと頬を引きつらせた。
「この針は……戦火の指す反対側に、君の要素を置いたのか」
羅針盤の針は二極となっている。常に相反するものを示し、この羅針盤においては、戦火と静謐がそれぞれの極を司るように指定されていた。
婚姻を結んだ相手にそれはどうなのだろうと苦笑いをした聖人に、魔女は「繋ぎを切れないのだからしかたないでしょう」とどこ吹く風だ。
それに、とリヴェレークはいちばん重要な理由を口にする。
「わたしの周りが騒がしくなるのは好ましくありませんので」
「抜け目がないようでなによりだ」
「そう言いますが、人間たちにまで延々と祝われるのですよ? あなたは望まぬ相手との婚姻を、そのように扱われたいのですか?」
「……いや、勘弁だな。君はよい判断をした」
揺りかごのように箒を風にゆだねる。そわりとリヴェレークの髪がなびき、彼女の瞳に届く星明かりを遮った。
髪を耳にかけ、もう一度星を見ようと遠く空を向く。
「ああ、明星が美しいな。ひと仕事終えたときにはよく、空を眺めてから家へ帰るんだ。いっとうに好きなのは冬だが、秋のものもいい」
「わたしも、その両方が好きです。見た目だけなら、春と夏のものも」
黄金に瞬き世界を等しく見下ろすそれが友人の瞳なのだと思えば、リヴェレークは誇らしい気持ちになる。
(憧れてしまうのだ)
誰もが欲する星明かりであろうと、国を飲み込む戦火であろうと。
他者の光を映したはずの瞳はなお青く、深く潜むような色をまとうがゆえに。照らし、照らされ、混ざりあうものたちを羨ましいと感じた。
「そうか。なら、星は俺たちの共通項なのかもしれないな。……それに、君には意外と、好きなものがたくさんあるようだから」
当然だろうと、古の時代から存在している魔女は思う。多くを知る彼女はそのぶんの好みの蓄えがあるのだ。
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「……それは、どうでしょう」
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そんな彼の手腕に惹かれ、集まってくるのは一癖も二癖もある高貴な美女たち。
これは、底辺から這い上がった若き伯爵が、最強の布陣で自領を帝国一の都市へと発展させ、栄華を極める物語。
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