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第五章 暖炉宝石
5−3 死者の贄と喝采
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地が鳴っている。
崩れた街が、命が、救いを渇望している。
王都の最奥。枯れた山のように生気を失った王城は、前面を惨烈に抉られ、それでも玉座を守るようにそびえ立っていた。
ごろごろと壁にこびりついているのは、贄の残骸だ。
ああそうだ、贄を捧げなければ。リヴェレークは自身の役割をしっかり認識する。この七日間で増え続けた、羽人たる自分を崇め付き従ってきた死者たち。彼らを捧げなければ。
純粋無垢な真白の羽が、広げられた。
新たな贄を紹介するように、彼らを導くように。
向かいあった玉座。
「迷い子たちを連れてきてくれたんだな」
そこには戦火の君が座っている。
「わあ、待ってましたぁ」
玉座の後ろから、ひょこりと少女が顔を出した。
明るい灰色の髪が、肩の上でふわふわ揺れる。透明感に溢れた瞳にあるのは大人へ向かう少女特有の危うい美しさ。しかし指先は婀娜っぽく、玉座の背もたれをなぞっていた。
司祭のつもりか、黒いワンピースの上からゆるく巻きつけた深紅の布。
そんな少女へと向けられた戦火を象徴する焚き火色の瞳と、燃えるように揺らぐ髪。
褪せた視界で、玉座の周りだけ、ふたつの赤だけが鮮やかだ。
「戦火の君に、彼らを……」
「うんうん、たくさん連れてきてくれたんですねえ」
――我らに救済を!
――戦火は死者たちの救いに!
――死闇のもとで輝き続ける篝火となれ!
王都に響き渡る贄たちの声は際限なく重ねられ、どこまでも増幅していく。
戦火の意味を変えようとしているのだ。死闇と戦火がともにあるように。ふたつの結びがたしかなものとなるように。
そのために必要な贄は連れてきた。
生贄として命を失った彼らから死の尊厳すらも奪い尽くした、死者の贄だ。薄膜を隔てた遠いところで、リヴェレークはそう判断した。
ぽこぽこと水の音が聞こえてくる。その向こうで戦火が歪められようとしている。
遠い。たった十数歩の距離に、手が届かない。
けっして染めることのできない、透明な水。そこから連想する恐怖心さえ、今はリヴェレークまで到達しなかった。
「じゃあ戦火の君、お願いしますね!」
「ああ。死闇から成り立つ、よき火を見ようか」
戦火の君が指を弾くような動作をして、火種は放り込まれた。
舐めるように死者たちの上を火が這っていく。皮を剥ぎ、肉を焼き、骨すらも溶かす。そんな戦火の熱に、もとより朽ちている身体を預け、安堵に震える魂たちが充満する。
美しい。そしてなにより、喜ばしい。
(……そうだ。贄は、わたしだ)
羽人は、自らの身を捧げ、死者たちの先頭をゆくものなのだ。
リヴェレークはゆっくりと玉座に近づいた。戦火の薫りがより強まり、その甘さに恍惚とする。
美しい戦火の君が、無感情な笑みを浮かべこちらを見ていた。
――死による婚姻を成立させよ。
――羽人は導き手。その結びの証たれ。
真白の羽をたたみ、頭を垂れる。
「我が身を、戦火に」
「はあい。じゃあ最初は両脚にしましょっか」
脚は進むため。光へと歩んでいけるように。
すっと背筋を伸ばす。
供物を見せるようにドレスを捲し上げ、しなやかな脚を晒す。
舞っていた羽根のうちの二枚が、鋭く硬化した。その切っ先が向くのはリヴェレーク自身だ。
羽根の刃は左右から音もなく脚の付け根に差し込まれ、両の脚はなめらかに切り離された。脚という支えを失った身体が、勢いよくドレスの骨組みに沈む。
しゃん、と髪飾りが鳴った。
要素の喪失に一瞬、意識が遠のいた。間もなく続く激痛。強制的に引き戻される。二か所の断面からはおびただしい量の血が流れ、それを羽根のドレスが吸いあげる。真白は瞬く間に染められていった。
燃え盛る炎のように赤く。三つめの、赤色に。
痛い――という意識が心に触れるたび、それは戦火へ捧げることへの悦びに変わる。
供物はたちまち死者たちに取り込まれ、戦火がさらに盛っていく。
もっと、もっと、捧げなければ。
「次は右腕。願いを掴む力を捧げてくださいね」
「あなたたちの願いをこの手に」
またしても静かに、リヴェレークの右腕は自らによって切り落とされた。
痛い、痛い。この痛みは、戦火のため。
なにより美しく世界を飲む火を、戦火の君に見せるため。
静謐の魔女から、内容物が赤く零れ続けた。減っていく静謐の要素に、羽人としての意識が成り代わる。
「首は最後のほうがよさそうですし、左手もいっちゃいましょう! その手でみんなを導いてあげてくださいね」
「はい。わたしがあなたたちを導きましょう。さあ、こちらへ――」
リヴェレークが左手を伸ばせば、曇天を切り裂くような光が降り注いだ。それが一本の筋となって彼女の手に集結し、乱れる。
きらりと指もとで光るのは、影と火を交えた透明。
「――っ!」
動きが、とまる。
(この宝石は贄たちの信仰そのものだ。わたしから切り離しては、いけない)
その逡巡は、静謐の魔女としてのものではなかった。
「……なんだ、意識はあったんですか?」
その逡巡を、死闇の魔女は勘違いした。
静謐らしく静かに浮上したリヴェレークは、戻った意識に吐き気がするほどの痛みを感じながら、それでもようやく掴んだ自分の意思を手放さない。
戦火の君として目の前に座るルフカレドを、取り戻しにきたのだ。
「静謐ってほんと頑丈なんですねぇ、びっくりです」
「……そうです、ね」
小さな小さな綻びを、リヴェレークは静謐らしい感度で察知した。
(まだだ。まだ、焦ってはいけない)
ちかちかと視界が眩む。両脚と右腕を失ったまま、鮮血とともに要素が流れ出ているのだ。このまますべてを吐き出し自分の要素との繋がりを失くしてしまえば、リヴェレークとて命を落とす。
(だけどわたしは、静謐の魔女だ。あらゆる影に宿る静謐だ)
まだあと少し、余分はある。
リヴェレークはなにもない水の中の夢を思い出していた。
強大すぎるがゆえの孤独に喘いだ日々も無駄ではなかった。伴侶を奪われた心の痛みも、自ら切断した傷の痛みも、あのひりつくような孤独に比べれば、大したことないように思えるのだから。
死闇の魔女が紡いだ物語をいっきに崩せる瞬間は必ずやってくるはずだ。
それまでは影に潜み、這いつくばってでも。
静かに耐えてみせよう。
ルフカレドは相変わらず役に徹していた。目を合わせても、そこに浮かぶ笑みはどこまでも他人事な柔和。
ひそかに気配を探れば、本物の意識は深いところに沈められたままだ。
ここまで深く侵食されてしまったのは、彼自身が言っていた死闇との相性の悪さもあるのだろうが、やはり、重要な仕事として罠を受け取ってしまったというところが大きいのだろう。
定めた条件を満たせばそれだけ、拘束の力は強まるものだ。
そう推察しつつ、あえてリヴェレークは訊ねる。
「どうやって、彼を……」
「別にいつでもできたんですけど。でもほら、実行するのにちょうどいいときって、あるじゃないですか――ね、びっくりしました?」
からりとした声で、それでいて憎悪に満ちた瞳で、死闇の魔女は笑った。
純情を騙る手が、ルフカレドの顎を持ち上げる。
ちょうどいいとき。
あの夜、交わるはずだったあの瞬間。いちばん嫌な瞬間を、彼女はあえて狙ったのだ。
ふつふつと、リヴェレークの奥底で不思議な熱が湧きあがる。
その熱の正体に気づいていながらも、まだ我慢しなさいと、リヴェレークは自分に辛抱を強いた。
「逃げたかぁって思ったんですけど、けっきょく来ちゃったんですねぇ」
「戦いというのは、準備が肝心なのです」
「あれ、なんかもう戦火の商会に所属した気になってます? やだな、彼は魔女を商会に入れないのに。勘違いしちゃって可哀想ですけど、それが現実なんですよ? まぁ彼って優しいから、勘違いしちゃいますよねぇ」
親指の腹を、死闇の魔女はルフカレドの唇に押し当てる。わずかに唇が開かれても、彼はうっそりと笑うだけだ。
地鳴りが、死者たちの声がひときわ大きくなった。
「まぁとにかく、ここってあたしの領域なわけで。いくら静謐の魔女といっても、ね」
これは喝采だ。
穏やかな永遠の眠りに、静謐の死を迎えることができると。そうして死という事象は力を増し、篝としての戦火は膨れあがるだろう。
戦火の聖人自身にも制御できないくらいに。
死闇の魔女だけが、扱えるように。
「だいたいその身体じゃあもう、こうやって触れることもできないですよね。あっでも別にいいのかな。なりたくて夫婦になったんじゃないですもんね」
こうしているあいだにも、リヴェレークからは要素が流れ続けていた。
身体はとうに熱を失って痺れすら感じない。意識は明滅を繰り返し、残った命がわずかであることを示している。
これほどの損傷を受けた彼女に、反抗する力など残っていないことは明白だった。死闇の魔女は口の端に嘲笑を浮かべ、ルフカレドの唇を奪おうと顔を寄せる。
そのようすを見ていることしかできないリヴェレークを突き動かすのは、心に灯る、ぞっとするほどに深い熱。
(ああ、でも。わたしが静謐で、彼女が死闇であることを。そして、わたしとルフカレドが夫婦であることを、死闇の魔女自身が肯定した)
リヴェレークはそのときを待っていた。
羽人の聖職者としての役割をなぞっていたリヴェレークを、静謐の魔女として迎えるそのときが、物語の綻び。
死闇を掴むなら、今だ。
『ルフカレド』
『ああ、良いだろう』
綻びの隙間を縫うように、ずっと目の前にいた伴侶へ声を届ける。そう、今なら。
しゃん――と髪飾りが鳴り、明星の輝きから、戦火の熱から、ぞっとするほどに深い青が紡がれる。正反対の要素から惜しげもなく引き出された静謐が、彼女の欠いた要素を、手脚を形づくった。
戻った両脚で立ち上がり、右手で顔にかかっていた髪を払いながら、リヴェレークは、影に溶けるようなやわい笑みを浮かべる。
瞳に灯るのは、苛烈な光。
「ルフカレドはわたしの――リヴェレークの、夫だ」
死闇の魔女からはなんの反応もない。
有利だったはずの状況をいきなり覆されたにもかかわらず、そうであるのは、静謐の影が彼女の首を締めているからだ。
羽人の装いは真白のまま静謐の影を帯び、より鮮やかに輪郭を浮かばせた。
自身に刻まれた名を辿る。そこにあるのは、苛烈で、穏やかな火。
しつこく絡む死闇の要素を容赦なく剥ぎ取っていけば、いつものあの鋭い熱が、静謐に手を伸ばした。
「あなたはここで、もろとも壊れてしまいなさい」
ぎりぎりと影を強めていく。死闇の魔女の呼吸が淡くなる。
どれだけ透明な水の中にいたとしても、もう、恐ろしいことなどなにもなかった。戦火は、静謐とともにあるのだから。
静謐の魔女を突き動かした熱は、怒りだ。
ただ伴侶を取り戻しただけでは抑えきれないほどの激情が、静かに、それゆえに重い奔流となる。
「リヴェレーク……?」
「善人というのは、もしかすると、幸福からほど遠い場所にいるのかもしれません」
気づけば死者たちの喝采は慟哭に、そして咆哮へと変わっていった。
「はねびとしゃま」
どろりと、小さな魂がリヴェレークの脚に触れる。
その核には白い羽根。かろうじてひとりのかたちを保てているのは、羽人の標を得たからなのだろう。
「たすけて……たすけて、くれないの?」
罪なき子供の魂が、救いを求めてリヴェレークにすがる。
死闇の魔女は、よほど周到に準備をしていたらしい。自分になにかあれば、次は死者たちがふたりを追い詰めるように、わずかでも罪悪感を抱けば、その負い目を足掛かりに引きずり下ろそうと、物語を重ねていた。
群がり、嘆き、慈悲を乞う。罠の常套手段とわかっていても、切り捨てきれない弱き者たちの祈り。
そんな贄たちを、かつては施しを与えた子供の死者を一瞥したリヴェレーク。
「リヴェレーク、彼らは――」
「ルフカレド」
しかし彼女がまっすぐに言葉を向けるのは、伴侶だ。
古の時代から生きてきた静謐の魔女は、このようなことで優先順位を間違えない。
「あなたと幸せになれるというのなら、わたしは悪人にだってなりましょう」
足もとから影が生まれる。
(これがルフカレドを生かすための贄であれば、わたしは受け入れていたかもしれない。だけどこれは違う。彼を殺すためのものなのだ)
戦火という一つの事象を崩すための贄など、要らない。揺らぐことを望む儚さなど、過去へ置いてきた。
ぎぉ、と物語の崩れる音がする。
静謐が死闇をこじ開け広がっていく。
崩れた街が、命が、救いを渇望している。
王都の最奥。枯れた山のように生気を失った王城は、前面を惨烈に抉られ、それでも玉座を守るようにそびえ立っていた。
ごろごろと壁にこびりついているのは、贄の残骸だ。
ああそうだ、贄を捧げなければ。リヴェレークは自身の役割をしっかり認識する。この七日間で増え続けた、羽人たる自分を崇め付き従ってきた死者たち。彼らを捧げなければ。
純粋無垢な真白の羽が、広げられた。
新たな贄を紹介するように、彼らを導くように。
向かいあった玉座。
「迷い子たちを連れてきてくれたんだな」
そこには戦火の君が座っている。
「わあ、待ってましたぁ」
玉座の後ろから、ひょこりと少女が顔を出した。
明るい灰色の髪が、肩の上でふわふわ揺れる。透明感に溢れた瞳にあるのは大人へ向かう少女特有の危うい美しさ。しかし指先は婀娜っぽく、玉座の背もたれをなぞっていた。
司祭のつもりか、黒いワンピースの上からゆるく巻きつけた深紅の布。
そんな少女へと向けられた戦火を象徴する焚き火色の瞳と、燃えるように揺らぐ髪。
褪せた視界で、玉座の周りだけ、ふたつの赤だけが鮮やかだ。
「戦火の君に、彼らを……」
「うんうん、たくさん連れてきてくれたんですねえ」
――我らに救済を!
――戦火は死者たちの救いに!
――死闇のもとで輝き続ける篝火となれ!
王都に響き渡る贄たちの声は際限なく重ねられ、どこまでも増幅していく。
戦火の意味を変えようとしているのだ。死闇と戦火がともにあるように。ふたつの結びがたしかなものとなるように。
そのために必要な贄は連れてきた。
生贄として命を失った彼らから死の尊厳すらも奪い尽くした、死者の贄だ。薄膜を隔てた遠いところで、リヴェレークはそう判断した。
ぽこぽこと水の音が聞こえてくる。その向こうで戦火が歪められようとしている。
遠い。たった十数歩の距離に、手が届かない。
けっして染めることのできない、透明な水。そこから連想する恐怖心さえ、今はリヴェレークまで到達しなかった。
「じゃあ戦火の君、お願いしますね!」
「ああ。死闇から成り立つ、よき火を見ようか」
戦火の君が指を弾くような動作をして、火種は放り込まれた。
舐めるように死者たちの上を火が這っていく。皮を剥ぎ、肉を焼き、骨すらも溶かす。そんな戦火の熱に、もとより朽ちている身体を預け、安堵に震える魂たちが充満する。
美しい。そしてなにより、喜ばしい。
(……そうだ。贄は、わたしだ)
羽人は、自らの身を捧げ、死者たちの先頭をゆくものなのだ。
リヴェレークはゆっくりと玉座に近づいた。戦火の薫りがより強まり、その甘さに恍惚とする。
美しい戦火の君が、無感情な笑みを浮かべこちらを見ていた。
――死による婚姻を成立させよ。
――羽人は導き手。その結びの証たれ。
真白の羽をたたみ、頭を垂れる。
「我が身を、戦火に」
「はあい。じゃあ最初は両脚にしましょっか」
脚は進むため。光へと歩んでいけるように。
すっと背筋を伸ばす。
供物を見せるようにドレスを捲し上げ、しなやかな脚を晒す。
舞っていた羽根のうちの二枚が、鋭く硬化した。その切っ先が向くのはリヴェレーク自身だ。
羽根の刃は左右から音もなく脚の付け根に差し込まれ、両の脚はなめらかに切り離された。脚という支えを失った身体が、勢いよくドレスの骨組みに沈む。
しゃん、と髪飾りが鳴った。
要素の喪失に一瞬、意識が遠のいた。間もなく続く激痛。強制的に引き戻される。二か所の断面からはおびただしい量の血が流れ、それを羽根のドレスが吸いあげる。真白は瞬く間に染められていった。
燃え盛る炎のように赤く。三つめの、赤色に。
痛い――という意識が心に触れるたび、それは戦火へ捧げることへの悦びに変わる。
供物はたちまち死者たちに取り込まれ、戦火がさらに盛っていく。
もっと、もっと、捧げなければ。
「次は右腕。願いを掴む力を捧げてくださいね」
「あなたたちの願いをこの手に」
またしても静かに、リヴェレークの右腕は自らによって切り落とされた。
痛い、痛い。この痛みは、戦火のため。
なにより美しく世界を飲む火を、戦火の君に見せるため。
静謐の魔女から、内容物が赤く零れ続けた。減っていく静謐の要素に、羽人としての意識が成り代わる。
「首は最後のほうがよさそうですし、左手もいっちゃいましょう! その手でみんなを導いてあげてくださいね」
「はい。わたしがあなたたちを導きましょう。さあ、こちらへ――」
リヴェレークが左手を伸ばせば、曇天を切り裂くような光が降り注いだ。それが一本の筋となって彼女の手に集結し、乱れる。
きらりと指もとで光るのは、影と火を交えた透明。
「――っ!」
動きが、とまる。
(この宝石は贄たちの信仰そのものだ。わたしから切り離しては、いけない)
その逡巡は、静謐の魔女としてのものではなかった。
「……なんだ、意識はあったんですか?」
その逡巡を、死闇の魔女は勘違いした。
静謐らしく静かに浮上したリヴェレークは、戻った意識に吐き気がするほどの痛みを感じながら、それでもようやく掴んだ自分の意思を手放さない。
戦火の君として目の前に座るルフカレドを、取り戻しにきたのだ。
「静謐ってほんと頑丈なんですねぇ、びっくりです」
「……そうです、ね」
小さな小さな綻びを、リヴェレークは静謐らしい感度で察知した。
(まだだ。まだ、焦ってはいけない)
ちかちかと視界が眩む。両脚と右腕を失ったまま、鮮血とともに要素が流れ出ているのだ。このまますべてを吐き出し自分の要素との繋がりを失くしてしまえば、リヴェレークとて命を落とす。
(だけどわたしは、静謐の魔女だ。あらゆる影に宿る静謐だ)
まだあと少し、余分はある。
リヴェレークはなにもない水の中の夢を思い出していた。
強大すぎるがゆえの孤独に喘いだ日々も無駄ではなかった。伴侶を奪われた心の痛みも、自ら切断した傷の痛みも、あのひりつくような孤独に比べれば、大したことないように思えるのだから。
死闇の魔女が紡いだ物語をいっきに崩せる瞬間は必ずやってくるはずだ。
それまでは影に潜み、這いつくばってでも。
静かに耐えてみせよう。
ルフカレドは相変わらず役に徹していた。目を合わせても、そこに浮かぶ笑みはどこまでも他人事な柔和。
ひそかに気配を探れば、本物の意識は深いところに沈められたままだ。
ここまで深く侵食されてしまったのは、彼自身が言っていた死闇との相性の悪さもあるのだろうが、やはり、重要な仕事として罠を受け取ってしまったというところが大きいのだろう。
定めた条件を満たせばそれだけ、拘束の力は強まるものだ。
そう推察しつつ、あえてリヴェレークは訊ねる。
「どうやって、彼を……」
「別にいつでもできたんですけど。でもほら、実行するのにちょうどいいときって、あるじゃないですか――ね、びっくりしました?」
からりとした声で、それでいて憎悪に満ちた瞳で、死闇の魔女は笑った。
純情を騙る手が、ルフカレドの顎を持ち上げる。
ちょうどいいとき。
あの夜、交わるはずだったあの瞬間。いちばん嫌な瞬間を、彼女はあえて狙ったのだ。
ふつふつと、リヴェレークの奥底で不思議な熱が湧きあがる。
その熱の正体に気づいていながらも、まだ我慢しなさいと、リヴェレークは自分に辛抱を強いた。
「逃げたかぁって思ったんですけど、けっきょく来ちゃったんですねぇ」
「戦いというのは、準備が肝心なのです」
「あれ、なんかもう戦火の商会に所属した気になってます? やだな、彼は魔女を商会に入れないのに。勘違いしちゃって可哀想ですけど、それが現実なんですよ? まぁ彼って優しいから、勘違いしちゃいますよねぇ」
親指の腹を、死闇の魔女はルフカレドの唇に押し当てる。わずかに唇が開かれても、彼はうっそりと笑うだけだ。
地鳴りが、死者たちの声がひときわ大きくなった。
「まぁとにかく、ここってあたしの領域なわけで。いくら静謐の魔女といっても、ね」
これは喝采だ。
穏やかな永遠の眠りに、静謐の死を迎えることができると。そうして死という事象は力を増し、篝としての戦火は膨れあがるだろう。
戦火の聖人自身にも制御できないくらいに。
死闇の魔女だけが、扱えるように。
「だいたいその身体じゃあもう、こうやって触れることもできないですよね。あっでも別にいいのかな。なりたくて夫婦になったんじゃないですもんね」
こうしているあいだにも、リヴェレークからは要素が流れ続けていた。
身体はとうに熱を失って痺れすら感じない。意識は明滅を繰り返し、残った命がわずかであることを示している。
これほどの損傷を受けた彼女に、反抗する力など残っていないことは明白だった。死闇の魔女は口の端に嘲笑を浮かべ、ルフカレドの唇を奪おうと顔を寄せる。
そのようすを見ていることしかできないリヴェレークを突き動かすのは、心に灯る、ぞっとするほどに深い熱。
(ああ、でも。わたしが静謐で、彼女が死闇であることを。そして、わたしとルフカレドが夫婦であることを、死闇の魔女自身が肯定した)
リヴェレークはそのときを待っていた。
羽人の聖職者としての役割をなぞっていたリヴェレークを、静謐の魔女として迎えるそのときが、物語の綻び。
死闇を掴むなら、今だ。
『ルフカレド』
『ああ、良いだろう』
綻びの隙間を縫うように、ずっと目の前にいた伴侶へ声を届ける。そう、今なら。
しゃん――と髪飾りが鳴り、明星の輝きから、戦火の熱から、ぞっとするほどに深い青が紡がれる。正反対の要素から惜しげもなく引き出された静謐が、彼女の欠いた要素を、手脚を形づくった。
戻った両脚で立ち上がり、右手で顔にかかっていた髪を払いながら、リヴェレークは、影に溶けるようなやわい笑みを浮かべる。
瞳に灯るのは、苛烈な光。
「ルフカレドはわたしの――リヴェレークの、夫だ」
死闇の魔女からはなんの反応もない。
有利だったはずの状況をいきなり覆されたにもかかわらず、そうであるのは、静謐の影が彼女の首を締めているからだ。
羽人の装いは真白のまま静謐の影を帯び、より鮮やかに輪郭を浮かばせた。
自身に刻まれた名を辿る。そこにあるのは、苛烈で、穏やかな火。
しつこく絡む死闇の要素を容赦なく剥ぎ取っていけば、いつものあの鋭い熱が、静謐に手を伸ばした。
「あなたはここで、もろとも壊れてしまいなさい」
ぎりぎりと影を強めていく。死闇の魔女の呼吸が淡くなる。
どれだけ透明な水の中にいたとしても、もう、恐ろしいことなどなにもなかった。戦火は、静謐とともにあるのだから。
静謐の魔女を突き動かした熱は、怒りだ。
ただ伴侶を取り戻しただけでは抑えきれないほどの激情が、静かに、それゆえに重い奔流となる。
「リヴェレーク……?」
「善人というのは、もしかすると、幸福からほど遠い場所にいるのかもしれません」
気づけば死者たちの喝采は慟哭に、そして咆哮へと変わっていった。
「はねびとしゃま」
どろりと、小さな魂がリヴェレークの脚に触れる。
その核には白い羽根。かろうじてひとりのかたちを保てているのは、羽人の標を得たからなのだろう。
「たすけて……たすけて、くれないの?」
罪なき子供の魂が、救いを求めてリヴェレークにすがる。
死闇の魔女は、よほど周到に準備をしていたらしい。自分になにかあれば、次は死者たちがふたりを追い詰めるように、わずかでも罪悪感を抱けば、その負い目を足掛かりに引きずり下ろそうと、物語を重ねていた。
群がり、嘆き、慈悲を乞う。罠の常套手段とわかっていても、切り捨てきれない弱き者たちの祈り。
そんな贄たちを、かつては施しを与えた子供の死者を一瞥したリヴェレーク。
「リヴェレーク、彼らは――」
「ルフカレド」
しかし彼女がまっすぐに言葉を向けるのは、伴侶だ。
古の時代から生きてきた静謐の魔女は、このようなことで優先順位を間違えない。
「あなたと幸せになれるというのなら、わたしは悪人にだってなりましょう」
足もとから影が生まれる。
(これがルフカレドを生かすための贄であれば、わたしは受け入れていたかもしれない。だけどこれは違う。彼を殺すためのものなのだ)
戦火という一つの事象を崩すための贄など、要らない。揺らぐことを望む儚さなど、過去へ置いてきた。
ぎぉ、と物語の崩れる音がする。
静謐が死闇をこじ開け広がっていく。
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数々の倒産寸前の企業を立て直してきた敏腕コンサルタントの男は、過労の末に命を落とし、異世界で目を覚ます。
転生先は、帝国北部の辺境にあるアインハルト伯爵家の若き当主、アレク。
しかし、そこは「帝国の重荷」と蔑まれる、借金まみれで領民が飢える極貧領地だった。
凍える屋敷、迫りくる借金取り、絶望する家臣たち。
詰みかけた状況の中で、アレクは独自のユニーク魔法【構造解析(アナライズ)】に目覚める。
それは、物体の構造のみならず、組織の欠陥や魔法術式の不備さえも見抜き、再構築(クラフト)するチート能力だった。
「問題ない。この程度の赤字、前世の案件に比べれば可愛いものだ」
前世の経営知識と規格外の魔法で、アレクは領地の大改革に乗り出す。
痩せた土地を改良し、特産品を生み出し、隣国の経済さえも掌握していくアレク。
そんな彼の手腕に惹かれ、集まってくるのは一癖も二癖もある高貴な美女たち。
これは、底辺から這い上がった若き伯爵が、最強の布陣で自領を帝国一の都市へと発展させ、栄華を極める物語。
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