異世界風聞録

焼魚圭

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第二幕 時渡りの石

はみ出し者

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 一定の動きをする人の群衆は集まってひとつの生き物とでも言いたげなほどに一体感があった。そこを掻き分けて歩くのは手間がかかりすぎる。そんな手間をかけながらも、遠ざかってゆく進展を追いかけて、人の集まりを抜けて、追いかける。波から外れた点が三つ四つ、すこしばかり増えていた。
 ただ追いかけ続けて数分間、日が沈んで薄暗い空の下で集まるその姿はあまりにも異様。いったいどのような集団なのだろうか。
「興味、湧いてくるね」
 リリの言葉に完全な同意を示しながらこそりとついてゆく。この不審者にも思える行動を経てたどり着いた場所は変哲もないただの道。
 見つめて肩を落とす幹人の肩に手を置いて、励ましの言葉を優しくかけた。
「大丈夫、落ち込むにはまだ早い」
――リリ姉
「そうだね」
 励ましの言葉はしっかりと染み渡り、ふたりはこそりと見守り続けた。人々は一点に集まってしゃがみ込み、石の床の一部を持ち上げ道を開いた。
「地下室!?」
 幹人の言葉通り、人々は地の下へと潜るように降りて行った。
 やがて床に開いた口は閉じられる。地へと潜った人々を追うべくリリは地面の蓋を開いて後ろの少年に手招きした。
 入った直後に感じられる土の匂い、それはいつの時代も変わらないもので、幹人に安心を与えていた。そう、未知への不安を感じさせないくらいに知っていることに対する安心は強かった。
 降りて潜るように進んだ先に待つものは何とも立派なベッドの置かれた広い部屋。奥に集まる五人、その内の最も背の高い白ひげを生やした男は明らかに王都出身のものではなかった。
「やあ、お二人様も勉強会に参加しに来たのかな」
 男は時計を指した。大きな水槽、幹人の見たことのない電池で動く時計はあまりにも嵩張るものだと感じていた。
「はは、あまり驚くなよ、これは北方の研究国の産物、ちゃんと発明されたものだよ」
 ふたりは気が付いていた。少しだけ親切な女から聞かされた噂話を。人々が消える、その真相は決して王都によって無償で働かされているといった幹人の住んでいた世界でもありきたりな都市伝説などではなく、もっと本人の役に立つ勉強を教えてもらいに行っていただけのことだった。
「なあんだ、よかったよ。もし幹人も王都に連れ去られたらと思うと不安で公のものと気持ちのいいふりをした夜を過ごして取り返しにいく覚悟を決めるとこだった」
「そ、そんな覚悟しなくていいから!」
 幹人の顔は赤く、突如襲ってきた熱で目をぐるぐると回していた。
「ははは、冗談さ、本気にしなくても現実はもっと物騒だね」
 全くもって安心はできなかった。
「君たちも勉強をしに来たのかな」
 訊ねられてリリは即答した。
「宿が欲しい」
 男は笑って許してくれた。流石は王都の外の者、そうした話には手慣れているようだった。
 北の方の言葉を役に立つからと叩き込まれて数時間、疲れ果てて思考のひとつも覚束なくなってしまった頭で摂る晩ごはん、リリは幹人に耳打ちした。
「北の言葉は役に立つかもしれないし、ここには北の言語から異邦の言葉へ訳す辞書がたんまりある。覚えておくといいよ。何冊か拝借しようと思うから」
 続きの不穏な言葉は幹人を微かに震え上がらせていた。
「永遠にね」
――奪うも同然!?
 幹人には覚えがあった。元の世界にも同じことを行なう悪い人物がいた、きっと学校にひとりはいるだろうことを。
 本を数冊手に取って好きの気持ちを注ぎながら見つめて、その姿を異邦の隠れ家教師に見つかる、そこまでの流れはもはや決まりモノ。
「語学か……それは私の授業では扱っていないな」
 リリは本を抱いたまま心なしかいつもより透き通った控えめな声で男の心に言葉をお届けする。
「ええ、あなたの公用語、とても手慣れていてお上手ですね」
――あっこれ
 なにかに気が付いた幹人は口を噤んで見守り続け、リリが紡ぎ続けて織りなす言葉と滅多に耳にしない妙にきれいな声に笑いを堪えていた。
 キラキラした声に白ひげを生やした男は、幹人にとっては社会から身を引くにはまだまだ早い男はあの心も現役のようで、瞳を輝かせてときめいていた。
「おお、ここ三年、教師をしていたがこんなにも嬉しい言葉は初めてだ」
――かかった!
 驚愕、突然現れるそれは幹人の頭を駆け回る。困惑、流れ続けるそれは幹人の心を駆け巡る。
 そんな幹人には一度も目を向けることもなく、男は長いひげを触りながら明るい表情でなにやら言葉を綴り続けていた。この男の瞳には、自身をほめてくれる魔女のことしか見えていなかった。
 そんなおめでたい男にかける次の言葉は頼みの言葉だった。
「北の方では本の製造も盛んなのかしら。旅人として是非是非様々な言語を知っておきたいのだけど、いけません?」
 リリの目はいつもより薄暗くて、幹人にはより魅力的に見えた。男の瞳は先ほどよりも輝いていて、リリにはより不気味に感じられた。
「どうぞ持ってって。一応教本として多くの本を持ってきてはいたが使うのは現地語と公用語だけだったもんで俺の頭だけで事足りたんだ、このまま眠らせておくだけだし好きなだけ持って行ってくれ」
「そう、この本たちが事切れる前に見つけられてよかったわ」
 本を抱えて床に置いたカバンに仕舞う。その様子を見つめていた幹人にリリは言う。
「公用語辞典を逆用して北方の言語さえ覚えてしまえばあら不思議、ここに仕舞っているすべての書物が文字と言葉を記憶に刻み込む魔導書に化けるのさ」
 男は他の人々に言葉や化学を教えていた。ふたりは内容を聞き流すだけ、どうにもこの世界では今のところ賢者の石は実在すると信じられているようだった。
「世界を救った勇者様が語っていたのだ。未来でも未だに賢者の石は見つけられていないのだと」
 未来を変えようと必死になるこの男。都市伝説を信じる少年に似ていて、無邪気で幼い思考は幹人ですら不気味になってしまうほどのものであった。
「この人の住まいに泊まるの?」
「言わないで、私だって何度もなかったことにしようかと悩んだものだから」
 つまり、極限の妥協案でしかなかった。
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