我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第二章

我恋歌、君へ。第二部 10:背中

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 大会当日は早朝から部屋に飛び込んできたロベルトに叩き起こされて、慌ただしい一日になった。
「起きてください、ヒビキさんっ」
 いつもは英国紳士の見本みたいに落ち着いているロベルトが、まるで人が変わったみたいに高いトーンで、いつもより早口になっている。
 訳が分からない昨夜の出来事についてぐるぐる考えているうちに、いつの間にか寝落ちしていたらしく、ベッドにうずくまって寝ていた俺は、体があちこち変にかたくなっていたし頭がぼうっとしていた。
「とにかくまずはシャワーを浴びてくださいっ」
 ロベルトに体を引きずられ、浴室に押し込まれる。のろのろと服を脱いでシャワーを頭からかけていると、少しずつ意識が晴れてきた。
 浴室を出ると起きたばかりらしいアレクがいた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
 眠そうなアレクに口ごもりながら返事をすると、俺と入れ代わりにアレクがシャワーを浴びに行った。
「さて本日は忙しゅうございますよ。ちゃんと腹ごしらえしてくださいね」
 ロベルトがお手製のサンドイッチを皿に盛り、俺に手渡してくれた。
 それを頬張る間にも部屋の中をロベルトが行ったり来たりして、会場へ運ぶ物を準備しては俺の変装用品を揃えていた。
 大会にはアレクとパートナーの女性が行くことになっている。人がいるところでは着替えることができないから、会場に入る前にほぼ完成させる必要があった。
 だからロベルトが目を回すほどの慌ただしい午前になったんだ。
 寝ている間にかたまった体を解した後で、最後のあがきとばかりに、エレナさんの全身マッサージを受ける。
 最終確認が終わったボディースーツで体型を補完する。これがかなり締めつけるので、慣れるまでずいぶん息苦しい。
 ストッキングを履いてからドレスを身につけ、エレナさんに髪を結いあげてウィッグをつけてもらう。
 練習場で仕上げた時よりもきっちりと、入念に女装作業が続けられる。
 ようやく化粧にとりかかる頃には、正午が近くなっていた。
「あぁ、大変だわ。急いで、でも完璧に仕上げなくちゃ」
 エレナさんは頬を上気させて、緊張しながらも楽しそうな表情で化粧を開始する。
 あと一時間もしないうちに会場へ到着しないといけない。
 そして大勢の前で恥を晒すことになるのだ、と着々と進められる女装作業に本番までの残り時間を実感して、胃がしくしくと痛む。
(今日我慢すれば、明日には自由だ。あと少し耐えるだけでいいんだ)
 目を閉じて化粧が終わるのを待つ間、くり返し自分に言い聞かせていた。
 出来た、とエレナさんの声を合図に、ロベルトが俺を部屋から連れ出した。
 いつの間にか準備を終えて、外でアレクが待っていた。
 ロベルトが乗ってきた車の後部座席のドアをアレクが開く。
「どうぞお乗りください、花精さま」
「…………」
 恭しくお辞儀しながら言うアレクの表情はにやけていて、目は悪戯っ子のように輝いていた。
(いいよな、アレクは。いつも通りの衣装だろうから)
 無理やり引き締めた腰の苦しさを、一度でいいからアレクにも体験させてやりたい。内臓が口から飛び出さないのが不思議なくらいなんだ。
 ため息をついてから車に乗り込み、会場へ向かった。
 会場は予想以上に大きく、観客も驚くほど集まっていた。
 準備に慌ただしい参加者たちの控室を素通りして、会場へ続く道の先端で中を覗きながら俺はため息をついた。
 昨夜アレクが言った通りだ。ここで踊ることを考えたら、パブのステージ前で踊ることなんて比較にもならない。
 ダンスホールを覗きながら、予想を越える熱気と広さに痛みはじめた胃をそっと手で押さえた。
 本番を待つ会場では投票の説明が行われている。専門家の審査員が三人に、観客たちから抽選で選抜した百人の投票で、優勝者を決めるのだとか。
「地方大会なのに、順位を決めるんだね」
 ひっそりと周囲に聞こえないように小声でアレクに語りかけると、アレクが体を寄せてきた。
 まるで抱きこむようにして声を聞き取ったアレクが、軽く肩をすくめる。
「地元の有力者が出資している大会だからさ。それなりに格式をつけたいんだよ」
 観客席を眺めていたアレクが、ある一点を見たところで目を丸くした。
 そこには燕尾服を着た痩せ型の男性がひとりと、太った男性がひとり。
 彼らの間に挟まれるように座る赤いドレスを着た美しい女性を、アレクがじっと見つめて声を失っている。
 無意識にアレクが口を動かした。
 たぶん審査員席に座る女性の名前を呼んだんだと思う。
 顔に怪我を負ったと聞いたけれど、遠くから見た限りではその痕は見えない。
 長い髪を結いあげて、細く白い首筋から胸元が露わになったドレスを身につけ、優雅に微笑む姿はまるで女王のようで、気品に満ちている。
(あの人がアレクのパートナーだった人なんだ……きれいな人だなぁ)
 ふたりが並んで踊る姿は、さぞかし人の目に美しく似合いのカップルとして映ったことだろう。
 その時を知らない俺ですら、簡単に想像できてしまう。
「……声をかけてきたら?」
 まだ見つめているアレクを見上げて、そっと催促してみる。
「いや……、よしておくよ。僕にはその資格がない」
 端正な顔に少しだけ怯えの気配が滲んでいる。ここまで来て何を言っているんだ、と少しばかり腹立たしい気持ちになる。
「ロベルトに聞いたんだけど。アレクを探して欲しい、この大会に出場して欲しいと言ったのは、彼女なんだって」
「……え?」
 秘密にしておいて、と言われたことだったけど今言うべきだと思ったから、俺はアレクに打ち明けた。
「俺は恋みたいな好意に導かれて、歌うようになった。でも他の人に受け入れられなくて、一度逃げ出したことがある」
「…………」
 顔色の戻らないアレクが、突然話し出した俺に戸惑いながら耳を傾けている。
「その時俺も同じことを考えた。俺には資格がないって。でも俺が好意を抱いていた相手が言ったんだ。俺が見つけた、いたいと思う居場所は俺にしか守れない。手放してもいいのかって」
 だれもいない教室。
 抜けがらのようにただ時間を過ごしていた。
 好きな人に、語りたくない過去を語らせてしまったあの日。
 だれに言われるよりも強く胸に突き刺さった言葉を、いまアレクに聞かせることになるなんて、と不思議な心地になりながら話続けた。
「俺はその人に見下されたくなくて戻った。あの頃はその人の言葉だけが支えになっていると思ってたけど、戻ってみたら他の多くの人たちにも支えられていると気づけた。だから逃げ出したとしても、戻っていいんだよ」
「……ヒビキ……」
 きっとだれもが何かを追いかけた時、その途中で苦しみを抱える。
 神音が言っていたじゃないか。
「傷つけ、傷つけられ……だからこそ人に伝えられるんだよ」
 歌も踊りも表現することは同じだから。
 アレクに向けて、精一杯の笑顔を見せた。
「観客が見たいと期待している以上のダンスをしよう、アレク」
 審査員席にいる彼女も含めて、会場中に見せつけてやるのだ。
 真剣だったからこそ傷ついてしまったアレクの立ち直りつつある姿を。
 もう一度彼女を見てから、アレクがゆっくり頷いた。
「そう、だね……ここで逃げ出しては、彼女にもっと見下されてしまうね」
 やがてダンスホールに参加者たちが歩き出して行く。
 シックな燕尾服姿の男性たち。
 彼らに手を引かれ、目にも鮮やかなドレス姿の女性たちが軽やかに歩いていくと、ホールに大輪の花がいくつも咲いたように見える。
 いよいよ、女性として俺もそこに加わる時が来たのだと、高まる緊張感に唾を呑んだ時だった。
 薄い水色のドレスを着た女性をエスコートする男性が目に留まり、何気なくその顔を見て呼吸が止まった。
 背が高く細身で、少しだけ垂れた目尻が笑っていなくても彼を優しい風情に見せている。
 明るい金髪はゆるやかに波打ち、首の後ろでひとつに束ね、深緑色のベルベットリボンが結んである。
(何で……ここに、いるの……?)
 声に出して呼んだわけでもない。
 だれかが俺を指差したわけでもないだろうに。
 ホールの中央付近にいたその人が、目の前のパートナーから不意に顔を上げて、俺の方を向いた。
 俺とその人の視線がぶつかった。
 驚いたのはその人も同じようで。
 呆然と目を見開いて、唇が小さく俺の名前の形に動いた。
「ヒビキ……ッ」
 突然振り向いて、走り出した俺に驚いたアレクが背後で名前を呼んでいる。
 だけどそれ以上立っていられなくて、ホールから走って逃げだした。
 すぐに後を追ってアレクが走ってきて、あっという間に腕を掴まれてしまう。
 他の参加者たちが不審の目を向けてくる中を、アレクが俺を隠すように庇って歩き、人の少ない場所まで誘導してくれた。
「どうした、何があったんだい?」
 いきなり逃げ出した俺を、さぞかし変に思っているだろうな。しかも直前まで逃げ出してもいいけど、戻ろうよと話していたくせに。
 情けなくて顔を上げられず、俯いたままぼそぼそと事情を打ち明けた。
「知りあいがいたんだ……日本でお世話になってた人が出場していて……俺に気づいた」
 思い出すと胸が痛んだ。
 春の空色をした目が薄く微笑みながら、水色のドレス姿の女性を見つめていた姿。
(アレンさん……何で、ここに。何で、あの人と踊るの……あの人はアレンさんの何?)
 どうしてだろう、息がうまく吸えない。
 大きく喘ぐ俺の背中を、アレクがそっと撫でてくる。
「落ち着きなさい。それは本当かい?」
 ホールと外では距離がずいぶんある。
 見間違いではないの、と確認してくるアレクへ、頷きで返事をした。
 見間違えるはずがない。高校卒業までの短い間だったけど、ずいぶんと迷惑をかけた。
 それに長年胸に凍りついていたことを溶かしてくれた恩人なのだから。
「もし……俺が本当は男なんだってわかったら、出場取り消しになるの?」
 胸の痛みや息苦しさを忘れたくて、別のことを考えた。
 女性として出場申し込みをしているのだから、本当のことを明かされた場合どうなってしまうのか。
 すると俺の背中を撫でながら、アレクが少し厳しい顔つきになった。
「そんなことはどうでもいい。君が大勢の前で恥をかくことになる。その方が大事だ」
「アレク……」
「君の知人はそういうことをする人なのかい?」
「……違います。彼は俺を助けてくれた人で、同じバンドの仲間なんだ」
 きっとアレンさんなら、俺がこんな姿をしている事情をすべて知らなくても、何かを察して口を閉ざしてくれるはず。
 優しかった腕を思い出しながら、また苦しくなってくる胸を押さえて苦笑した。
(よりにもよって、こんな姿を見られるなんて……せめて踊り終わってから気づいて欲しかったよ)
「……このまま棄権しても構わないよ」
 アレクがそっと声をかけてきた。
「そんなっ……せっかくここまで来たのに」
 俺の動揺を気遣って、言ってくれているんだとわかるけど。
 ドレスやボディスーツを用意してもらった。
 モーチンさんの世話をしていないのに給金ももらっているし、何より素人の俺に一からダンスを教えてくれた。
 すべてが今日のため、この時のためだったのに。
「そうだね、せっかくここまで来た。でも今じゃなくても、もう僕は踊れる。本音は少し……自信がないけれどね。君はもう十分に役目を果たしてくれたよ。これ以上僕に付き合ってくれなくてもいい」
「……いいえ、踊ります」
 アレクの手を押し戻しながら、立ち直る。
「ごめんなさい、逃げ出したりして。アレクは立ち向かおうとしたのに」
「君と僕とでは事情が違う。だって僕は変装してはいないのだからね」
 最後はおどけながら言って、アレクが片目を閉じた。その仕草にアレンさんの面影を見つけて、アレクに対して抱いていた不快感の意味を知った。
(似てるんだ、この人……アレンさんに。俺が勝手にアレンさんらしくないアレクの態度を見て、どうしてって腹を立ててたんだ)
 遠く離れても、アレンさんへ依存する気持ちが抜けきっていなかったんだ。
 恥ずかしさが込み上げてきて、ホールに戻ろうとするアレクの背中に心の中で謝罪した。
 アレクはひとつひとつのパーツを見ると、それほど似ていないのに、時折見せる仕草がアレンさんに似ているのだ。
(名前も似てるし……って、最初の頃はアレクと呼んでなかったから、これは原因じゃないかも)
 後悔と自分自身の未熟さに打ちのめされながら、気がつくとダンスホールまで腕を引かれて歩き出していた。
 わっと押し寄せてくる観客たちの視線。
 はじめてステージに立った時のことが脳裏に浮かんできて、肌に感じる緊張感と視線の圧力に、体温が急上昇する。
「いいかい、ヒビキ。僕だけを見ていなさい。僕は君を信頼している。君も僕を信頼してくれているだろう?」
 空いていたスペースに俺を誘導して、向かい合って立つアレクが正面から見つめながらそう言った。
 大きく息を吸いこみ、一度目を閉じた。
 たくさんの人の視線を感じる中で、強く感じる視線がある。
 ひとつはすぐそばから。そしてもうひとつ。
(いまは忘れろ。ここにいる俺は、みんなが見たい俺じゃない)
 向かい合って立つ、他の参加者たちと同じように、信頼し合う男女が踊る姿を、みんなは求めているのだ。
 そして今だけは俺もその一員になる。
 知り合いと遭遇して、動揺する俺を見に来ているわけじゃないんだ。
 ゆっくり一曲目が流れ出した。
 目を開くとアレクのまっすぐな視線とぶつかった。
 その視線に引き寄せられるように、手を重ねながら近づいた。腰にアレクが腕を回して、俺を抱き寄せる。
「……行くよ」
 アレクの小さな声に頷いて、ステップを踏み出した。


 はじめて踊った時、何だこれ、と思った。
 フォークダンスですらろくに踊れなかった俺だ。今までにないほど他人と近くまで寄り添い、踊る行為は苦痛にしか感じられなかった。
 何度も投げ出そうと思った。
 その上、ロングスカートにヒールの高い靴を履いて、女性として踊らなくてはならない。
 眩暈がしそうな気分だったから、笑顔で踊ってと言われても笑えるはずもなく。
 まるで本当の女性になったみたいに身長差がある相手から見下されて、しかもその相手も顔を見るだけで嫌な気分になる相手だったから、耐えるのはとても辛かった。
 それなのに相手の方が先に謝罪してきて、少しずつお互いを知っていくと、その不快感はなくなって。
 歌とは違う踊る楽しさも、少しずつわかるようになってきた。
 ジュノさんに言われた意味もわかって、自分自身の甘さに気づくこともできた。
『僕だけを見なさい』
 踊り出す直前に言われた通り、俺はひたすらアレクだけを見て踊った。
 彼のリードに身を任せて踊れば、何も心配することはないんだから。
 ただ俺は俺のできる、精一杯の演技を見せることに集中していい。
 ロベルトが東洋の花精として、用意してくれた衣装とボディスーツに、エレナさんが腕をふるって仕立てあげてくれたメイク。
 すぐそばで踊る女性にも、会場にいるだれにも真似できない、俺だからこそ表現できる一日限りの幻の花を見せるんだ。
 胸元に付け足したウィッグの毛先が流れ落ちて、顔の向きを変えるたびに素肌を撫でる。
 結いあげた髪に結ばれた飾り紐の先端が、軽やかに揺れながら一緒に踊るよう。
 肩から腕へ垂れる布が、波打つさまは花弁を流れ落ちる朝露のように清々しく。
 きっとエレナさんから借りたアクセサリーが会場の照明を反射して、華やかさを補ってくれているはず。
 踊る合間にアレクを見る。
 誇らしそうな笑顔は演技だろうか。それとも少しでも俺を認めてくれているのなら、やっぱりうれしい。
 今だけはアレクだけのパートナーだから。
『君は魅力的だ』
 昨夜の声が不意に蘇ってきて、少し顔が熱くなった。
 女装して、花になろうとしすぎて、思考が変な方向に暴走してしまったのかも。
 なぜか息苦しさを感じて、大きく息を吸いこむとアレクがあたたかい視線を向けてくることに気づいた。
 何度も練習して覚えてしまった曲に合わせ、体を動かしていると、心まで重なり合うような感覚になった。
 この瞬間は『i-CeL』のキョウでもなく。
 片平響であって、まるで違う俺になっているような気がした。
(生まれ変わるってこういう感じなのかな)
 最後のポーズを決めて、曲が終わる。
 弾む息を整えながら、アレクとただ見つめ合っていると、客席から全員へ拍手が贈られた。


「……終わったね。結局、優勝はできなかった、ごめん」
「君のせいじゃない。君は僕の期待以上の姿を見せてくれた……踊りも含めて」
 無事に大会が終わり、俺たちはアパートに戻っていた。
 お互いにシャワーを浴びて、汗や化粧を落としてラフな格好になり、ふたりだけの打ち上げと言ってビール瓶とつまみを持って屋上に来た。
 またアレクが足をマッサージしてくれると言うので、踊り疲れた足を委ね、心地よく風に吹かれている。
 ふたりが座るチェアの間に、酒とつまみの載ったミニテーブルがある。そこに小さなトロフィーが載っていた。
 それは観客票を最も多く獲得したペアに贈られる賞なのだとか。
(優勝よりもうれしいかも)
 ほっこりと達成感に満たされながら、心地よいアレクの手を味わう。
 このアパートに来た頃はまだ夏の先触れだった風が、いつの間にか冬に近づいている。
 不意にアレクの手が足から離れて、風に揺れていた髪を掴んだ。
「ずいぶんと伸びたね……ウィッグも似合っていたけれど、君はこのままがいい」
「あはは……そう言ってくれるなら、このまま切らないでおこうかな」
 冗談のつもりで答えて見れば、思っていたよりも真剣なアレクの目が向けられた。
「伸ばしても切っても、どちらでも構わないよ。君が君のままであるのなら、どちらも素敵だからね」
「……アレク?」
 無言のまま、アレクが身を乗り出して体を寄せてきた。
 ふたりの間に挟まれたテーブルが揺れて、小さなトロフィーと飲みかけだったビールが倒れた。
「……帰らないで。このまま君をずっと近くで感じて、見ていたい」
「あ、アレクは勘違いしているだけだって! ほら、今日はずっと完全女装してたんだし、ダンスの練習中もスカート履いて、毎日ダンスばっかりやってたから、パートナーだった俺を変に意識してしまってるだけ!」
 必死になって否定しても、間近にあるアレクの表情は和らぐことがない。
「違うよ。なぜなら僕は、一度として君を女性として見たことがないのだからね」
「…………」
 それは当たり前のことなんだけど、俺が言いたいのはそう言うことではなくて。
「完全に着飾った今日でさえ、他の人が君を見たようには君を見られなかった」
「……俺は女性っぽくなかった?」
 アレンさんに見破られたことを思い出して、いまさらながらに女装が失敗していたのか不安になった。
 するとアレクが少しだけ微笑んだ。
「いいや、きっと会場中の男性たちを虜にしたはずだよ。踊っている時でさえ、すれ違った君に見惚れて、リズムを狂わせた男性が何人もいた。気づかなかったかい?」
「そ、それは気づかなかったな」
 演じることに集中していたから、その他のことは全部意識から閉めだしてた。
 アレンさんのことでさえ、忘れて踊ったんだ。
(会場を出るまで見当たらなかったけど……アレンさん、まだこの周辺にいるのかな……どこにいるんだろう。また会えるかな)
 踊り終わってホールから出る時、そっと会場を見回して探したんだけど、アレンさんを見つけることはできなかった。
 心がその場から遠ざかったことがわかったのか、アレクの手が引き止めるように俺の頬に触れてくる。
 思わず体を強張らせた俺に、アレクが苦笑する。
「……いくら完璧に化けてみせてくれた君でも、脱がされてしまえば正体が知れる。休憩中も君に声をかけようとする輩が多すぎて、追い払うのに苦労したよ。けれど僕が案じたのはそんなことじゃない」
「……な、何を」
「僕以外の人間の前で服を脱いではいけないと言っただろう? あの会場で君に魅了された男たちの中に、日が高いうちは隠している本能を、君に刺激された輩もいただろうね」
「わ、わからないよ……アレクシス」
 いきなり英語が難しくなった。
 慣れてきたとは言っても、長文になると理解が追いつかないことも多いし、慣れない単語は聞き逃すことも多い。
 それにアレクがさっきから怖い気がする。
 全然目を反らさないし、その視線の強さったら。
(お、俺……怒られてるわけじゃない、よな)
 思わずアレクから逃げようとした。そこを強引に手首を掴まれて、抱き寄せられた。
「君が男だってわかっている。日本から来た歌手だということも。しかしすべて関係ないさ。僕は恋に落ちた。ヒビキが好きだ」
「ア、 アレク・・・・・・ッ」
「君が悲しい時、寂しい時。そばにいて抱きしめたい。笑えるように見守って、助けになりたい。ジュノのように毎月歌えと君が言うのなら、僕はジュノに負けない気持ちで歌うよ。こんな気持ちになったことは、いままで一度もない」
「……ッ」
 止める間もなく、アレクが口を塞いできた。
 熱い感触に心の中で叫び声した。
(これじゃない……っ!)
 その時、背後でジャリ、と音がした。
 コンクリートの上に散った砂埃を踏む音だ。
 アレクの顔が離れ、慌てて振り返った視線の先に、じっと俺たちを見ているアレンさんがいた。
 いつも温かい笑みを浮かべているはずの顔には、何の表情も見えない。
(そんな顔、はじめて見た……)
 驚きから冷めたのは、俺もアレンさんも同時だった。
「待って……!」
 アレクが手を伸ばして、俺を引きとめようとする。それを突き離して、走り出した。
 一瞬早く背中を見せて、階段を下りて行ってしまったアレンさんを追いかけ、階段を駆け降りる。
「アレン、さん……待って下さいッ」
 足の長さが違うから、階段を下り、アパートから出ていく背中にぜんぜん近づけない。
 何度呼びかけても振り返らない背中は、まるで俺の声が聞こえていないみたいだ。
 遠ざかるその背中に手を伸ばして、もう一度呼びかけようとした時だった。
『おまえは愛される資格なんてないんだよ』
 耳元でだれかが囁く声が聞こえた。
 まさか、と周囲を見ても素知らぬ顔で通りすぎる通行人が二組いるだけ。
 アレンさんの背中はもう声が届くぎりぎりの距離まで遠ざかっていた。
「……アッ、……」
 名前を呼ぼうとした喉を見えない手に絞めつけられたようだった。
 いきなり呼吸がまったくできなくなった。
 吸いこみたくても空気が肺まで届かない。
(何っ、く、るし……助け……)
 突然の事態に頭の中は真っ白だ。ただ息が出来ない恐怖に、ひたすら口を開いて空気を求めた。
 どくどく、とこめかみで激しく血が巡る音が聞こえる。
 視界が赤黒く染まっていく。
 見通しが効かない、狭くなった視界の中で、遠ざかっていく背中がふたつ並んでいる。
 ひとつは細い女性の背中。
 もうひとつは小さな子供の背中。
 そしてすぐ近くにいた男性も、立ちあがってそちらに歩いて行ってしまう。
(待って……置いていかないで。お願い、行かないで……)
 呼びとめたいのに声が出ない。
 息すら出来ず、近づく死の恐怖に涙があふれてくる。
(いやだ、いやだ……怖い、助けてっ)
 闇雲に手を伸ばしたところで、だれかが掴んでくれるわけでもないのに、救いを求めて手を伸ばした。
 その手も視界が狭まって、ついに見えなくなった。
 耳鳴りが激しくて、音も聞こえない。
 喉は空気を拒んだまま、激しく心臓が暴れ回る。
 だれかが肩を掴んだようだ。宥めるように背中を撫でる手を感じたけど、そこまでが限界だった。
 すとん、と意識が暗転した。
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